トーチ

2019年3月6日 水曜日

就職活動中の学生たちへ

今年の就職活動が解禁された。2020年3月に大学を卒業する学生が対象だそうだが、学生諸君はできるだけ頑張らない方がいいと思う。友人たちがリクルートスーツを着て熱烈に飛び回っているのを見ると焦ってしまうだろうが、つらくなったら、ここは一つ、心を鬼にして頑張らない、という選択肢もあることを思い出してほしい。就職活動をがんばろうががんばるまいが、人生なるようにしかならない。来年就職できようができまいが、あの会社に入ろうがこの会社に入ろうが、孤独も不安も悲しみも憎しみも一生ついてまわる。その中で自分なりの幸せを見つけるのだ。マネジメントできないのだよ人生は。私の言っていることは本当だ。その後の幸不幸は就職活動の成否にかかっているというのは嘘だ。ブッダ、ジーザス、アウグスティヌス、カント、デカルト、ヘーゲル、ニーチェ、ヴィトゲンシュタイン……誰でもいい、偉大な思想家たちに「私の人生ってシューカツで決まるんですよね?」と試しに聞いてみたまえ。よくて無視、悪くて殴られるんじゃないかな。就職活動の成否が君のその後の人生の幸不幸を決めるわけではない。決めるのは君だ。騙されてはいけない。

エントリーシートの正しい書き方だとか、志望動機とか、面接の答え方とか、企業が求めている(とされる)人物像に合わせて自分をデコレートするスキルを競うゲーム。就職活動というものに前向きに希望を持って取り組める学生、それはそれで素晴らしい。勝手にがんばれ。私も勝手にがんばる。就職活動とは別の次元で、自分が本当にやりたいこと・やるべきことをすでに見出していて、知恵をしぼって実現しようとしている学生。なお素晴らしい。勝手にがんばれ。私も勝手にがんばる。そのどちらにもあてはまらない学生たち、がんばるな。就職活動というものに、なんかノレない、他の人のようにキラキラした目で取り組めない、つらい、虚しい……そう感じている学生に向かって私は書いている。

私が大学を卒業した2003年はまだ就職氷河期と言われていた。当時の私が就活マーケットから繰り返し受け取ってきたメッセージは大きく分けて2つ。「好きを仕事にしなければならない」と「優秀なリーダーであらねばならない」だ。私も大いに急き立てられ、自分をよく見せるスキルを身につけようと頑張ったが、そのハリボテの技術は今、何の役にも立っていない。私は俸給所得者であり経営者ではないので正確なところはわからないが、そもそも企業は、特別な能力を持ち、特別にユニークで、強いリーダーシップを発揮できる人間をそれほど沢山は求めていないのではないか。そりゃあ少しはいてほしいけど、そんなに沢山いられても逆に困っちゃうなあ、そんな感じなんじゃないか。世の中には、それほど仕事が好きではないしリーダーの資質はないけれど、求められたことを「あいよ、まかしとき」とにこやかに、確実にやれる人が沢山いて、組織内の人口の比率としてはそういう人のほうが多い、というのが俸給所得者生活16年目を迎える私の実感だ。

先日、学生に就職セミナーの資料を見せてもらったのだが、グローバル・リーダーとしての自己実現をクリエイティブにソリューションするための100のオポチュニティ……みたいな言葉が分厚い冊子全編に渡ってパワーポイントで図式化されていてボヨヨン(目が飛び出す音)、腰が抜けた。大丈夫かこの国は……この資料は何も言っていない。それっぽさしかない。いや、それっぽくすらない。がらんどうだと思った。学生のことをナメてるし労働者のことをナメてる、経営者のこともナメている。あの資料を編集したのがどこのどなたか存じ上げませんが、マジでいい加減にした方がいいですよ。アップで映そか、恥ずかしくて生きていかれへんで。謙虚なれよ! もし私がグローバル・リーダーとしての才能が認められこの会社に晴れて採用されたとしたら、持ち前のクリエイティビティにレバレッジを利かせまず最初にこのナメた資料を作った人間を更迭、黒板五郎の履歴書全編の筆写を少なくとも1年間はノルマとして課すソリューションを組むだろう。それっぽい仕事像を与えられてそれっぽい試験に合格し、それっぽく仕事してる感に酔っていた若者が、現場の理不尽と不条理に直面したとたんに焦慮に駆られもっとそれっぽい陶酔を求めて荒野を彷徨う。そして何者にもなれず、やがて、死ぬ……END OF MEXICO……特別な能力を発揮するリーダーたれという妄念で学生を興奮状態というかほとんどヤク漬けみたいにすることでいったい誰がどんな得をするのか、私にはわからない。ただ、企業は自分たちのメリットにならないことはしないから、学生たちをそういう状態にすることで何か得をしていることは間違いない。新入社員にはできるだけバカなままでいてもらって、自分たちのみみっちい地位を守ろうとしているのだろうか……そう勘ぐってしまうほど私はその資料を嫌ったらしく思った。

ここらで私は、私自身の経歴、就職活動の苦労を語り、仕事を通して何を学び、どのような葛藤を経て成長してきたか、仕事の流儀をスガシカオの曲に乗せてつまびらかにしていきたい気持ちになったが意味がないのでよす。私の経歴など学生諸君には関係ないことだし、いずれにしろ孤独も不安も悲しみも憎しみも一生ついてまわるのだ。みんな普通に生きればいい。普通に生きるってなんですか? その質問は受け付けない。答えがわかりきっているからだ。普通に生きるとは、法律を守り、働き、納税し、身近な人たちと仲良く暮らすことだ。それで100点だ。それよりも私が柔道の巴投げに成功した時の話を聞け。中学の時、1学年先輩のYを投げた。少し長くなるが、まあ聞け。

私は北海道・十勝の中札内村で生まれ育った。古代の氷河の地形が残る日高山脈の麓だ。見渡す限りの畑と牧場、白樺の防風林、鬱蒼とした柏林、大型ダンプがひっきりなしに出入りする採石場。山菜採りに出かけた人が時々熊に食われたりしていた。ウドやアイヌネギ、フキノトウなどが採れた。

村の中学は全校生徒120人くらいだっただろうか。柔道部が強く、全国大会で3位とかすごかった。入学と同時に北海道中から猛者たちが集まってきて監督の家で寮生活を送っていた。札幌や小樽といった都市部からやってくる者も少なくなく、彼らには我々のような土着の中学生とは違い、不良っぽさも含めた何かしら洗練された感じがあった。一方で彼らは地獄のような稽古の日々を送ってもいた。柔道がめっぽう強くスポーツ万能、ユーモアのセンスもあり、女子にも男子にも人気があったO君、稽古中の死んだような顔が忘れられない。日々に耐えかね、寮から脱走を試みる者も少なくなかった。脱走者は絶対に連れ戻された。果てしない畑のあぜ道を、雪の降りしきる夜を、ひとり逃げゆく柔道少年の姿を想像すると私は今も胸がつまる。力尽き、大人たちに連れ戻される彼らの気持ちを思うと涙が出る。

私が巴投げを成し遂げたその日、私の所属する野球部は雨のため外での練習が中止になっていた。顧問からは校舎内20周を言いつけられていたのをサボって5周で切り上げ、余った時間。そういうダラけきった時間帯に、同じ野球部の一つ先輩であるYがふざけて私に柔道ごっこをしかけてきたのだ。Yは顔は笑っていたが、けっこう本気でぐいぐい来た。私は彼のことを心の底ではシャバい奴と見下していたから、図々しく押したり引いたりしてくるYにだんだん腹が立ってきた。そういう気持ちは相手に伝わるもので、二人とも顔は笑ってはいるが互いにどんどんムカついていった。

私は柔道というものにそれなりに敬意を持っていたから、Yと組み合ううち、ふと、何かこう、こんなバカなことは1秒でも早くやめたい……そんな気持ちになった。他の部員たちも各自だらけきっていて、私とYの世紀の対決など誰も見ていなかったから、刻一刻とカロリーだけが消費されていった。これでは疲れてしまって、せっかくみんなで談合して20周を5周に誤魔化した意味がなくなってしまう。浮いた15周分のカロリーがもったいない。私は小さい頃からケチで、兄や従姉たちがジャイアントカプリコを食べる時に床に落ちる食べカスを孤独に拾い集め、こねて丸めて作った極小のチョコボールを瓶に入れて取っておくような子どもだったから、その時確かに、もったいない、とそう思った。力を尽くすのをやめた。されるがままにしていると、相手の力と自分が一体になる感じがあって、受ける圧を後ろに逃がそうとしたら巴投げが起きた。不思議な感覚だった。物理法則を超えるのではなく、それを完全に受け入れ一体化することによって生まれる自由というものがある。

後日、これを根に持ったYから校舎裏でヤキを入れられて私は泣いたわけだが、今思い出しても腹が立つ。その後10年以上が経ち、東京で就職して間もなくだっただろうか、暮れに実家に帰省し紅白歌合戦をボーと見ていると外で大きな衝突音がした。兄と共に様子を見に出ると、表に停めてあった我が家の乗用車に別の車がつっこんでおり、傍にYが立っていた。雪道でハンドル操作を誤ったという。Yが去った後、あのシャバ僧、調子こいてるからこういうことになる、相変わらずどうしようもねえ馬鹿野郎だ、みたいなことを兄に言ったら、たしかにYは昔から馬鹿でシャバいが、弁償すると言っているしわざとじゃないのだからそんなに強く言うほどのことじゃないと言われて終わった。

(編集部・中川)