トーチ

2019年4月10日 水曜日

誰が読者か

会社の自動販売機でよく飲み物を買う。1日に2〜3回買う。よく買うのは無糖の缶コーヒー。本音を言えばいつも、その隣にあるビックルソーダが飲みたい。コーヒーは苦くてそんなにうまいと思わない。ビックルソーダはうまい。ビックルというだけで美味しいのに、そこに炭酸の面白みが加わっているのだからすごいと思う。なのに飲まないのは糖分が気になるからでもあるが、周囲からバカっぽく見られたくないという見栄が大きい。麦茶やコーヒーを飲んでいる人は成熟した大人で、ビックルソーダをうまうまと飲みまくる人はバカというのは私の偏見だ。間違っている。私のように本当はビックルソーダが飲みたいのに見栄に邪魔されて自分を偽る方が愚かではないか。しかし、自己欺瞞に気づいているだけ私はまだましかもしれない。これがひどいものになると、自分の味覚がスタイルに乗っ取られてビックルソーダよりも麦茶のほうがうまいと思い込むようになり、自分の本当の気持ちを忘れてしまう。嘘つきになってしまう。そうはなりたくない。人間、生きている限りできるだけ正直でありたいものである。
 
ジュースを買う時の私はそんなだが、本を買う人はどうだろう。みんなが良いと言っているから、恋人にすすめられたから、知的な人間と思われたいから、課題図書だから、尊敬する先生の評価が高いから、自分の成長にプラスになりそうだから、役に立つ情報が得られそうだから、自分が好きそうなやつだから……そういう事前の権威づけなしに、私たちは本を手に取ることができるものだろうか。考えるな、感じろというブルース・リーの至言があるが、これはありのままに感じることの困難さを逆説的に語ってもいる。幼い子がローラースケートでルーヴル美術館をぐるぐる走り回りながら「これは好き、こっちはイヤ」とやるように、あらゆる権威から自由な気持ちで作品と向き合うことができるだろうか。できないと私は思う。そして、できなくてよいと思う。
 
余談だが、ヴィクトル・ペレーヴィンの『iPhuck10』を買い求め、読むのを楽しみにしていたのだが1ページも開くことなく紛失してしまった。あんなに分厚い本がいったいどこに消えたのだろう。買ったつもりになっていただけで実は買っていなかったということはない。2500円くらいだろうと思っていたのが実際には4600円で、なるほどずいぶん安いじゃないか、しかし私の小遣いはもっと安いからな……と財布をまさぐりながら独りごちたものだ。書店の海外文学の新刊棚は密かに、そして着実に減っており、見つけるのに苦労した。新宿まで行って、確かに買った。日々、無いので、どこいったかなあと毎日思い、かといって血眼になって探すこともせぬまま実に半年近くが漫然と過ぎ去って行ったが、先日、阿佐ヶ谷駅前の書楽を覗いたらあったので買った。1冊手に入れるのに1万円近く払ったことになるが、邦訳を刊行してもらえること自体ありがたいことだと思っているので損したとは全然思わない。最初から定価が1万円だったとしても私は買った。本当にどこへいったのだろう。不思議なことがあるものだ。
 
ヴィクトル・ペレーヴィンはロシアの作家である。1962年生まれ。本国では超ベストセラー作家らしい。もう10年も前になるが、当時勤めていた会社を辞め毎日ひたすら図書館と自宅を往復していた空白のというか充実の3年間、保坂和志が著書の中で『チャパーエフと空虚』に触れていたので買って読んでみたら、これが滅茶苦茶に面白かった。『眠れ』『虫の生活』『恐怖の兜』『宇宙飛行士オモン・ラー』『寝台特急 黄色い矢』と既刊を貪り読み、以来『ジェネレーション〈P〉』『汝はTなり:トルストイ異聞』、そして今回の『iPhuck10』と数年おきに新しく邦訳が出るたびに胸をときめかせてきた。考えてみると、新作の出来を何年も心待ちにしている小説家というのは私にとって今ペレーヴィンだけなのだった。これは私の御眼鏡に適う優れた作家が彼しかいないということでは全然なく、ただただ私の怠慢なのは言うまでもない。私は活字の本を読むことに大変さを感じてしまう。どうしてもめんどうくさく思ってしまう。世の中には、朝起きぬけに水を飲むようにやすやすと活字に取り組める人が沢山いるが、私はけっこう苦しい。散文じたい読むのが面倒だし詩も面倒だ。俳句も十七音しかないのに、その中にきつさが凝縮されているから面倒だ。白状すると漫画も活字と同じくらい読むのが億劫だし、映画も同じくらいとっつきにくい。さらにもっと白状すると音楽を聴くのも骨が折れる。さらに、もっと、より白状すると、ただ景色を眺めるのだって私はめんどくさい。そういえばあの景色よかったなと後で思うことはかろうじてできるが、胸に刻み込むぞないし写真に収めるぞという心構えが事前に生じてしまうともう面倒くさくなってしまう。YouTubeだけが楽です。
 
こんなていたらくの私が、読むのが苦しいペレーヴィンの作品を読めるのはなぜかというと、面倒ではあるがおもしろいからである。漫画も映画も、取り組むのが面倒ではあるがおもしろい。YouTubeは楽だしおもしろい。そうでなければ読んだり観たりできない。賽の河原やシーシュポスの神話にあるように、つまらないことや意味のないことを強要されつづけることは人間にとって地獄であるが、私は何かを読んだり見たりする時に地獄は感じない。おもしろさや何かしらの意味を見出しているらしい。
 
読書の最大のおもしろさは、それまでの自分の価値観や感性が活性化されるなり更新されるなり否定されるなりして、今までの自分ではいられなくなってしまうことにある。ビックルソーダが好きな人ががぶ飲みメロンクリームソーダの味を知ることで舌そのものが入れかわることはないが、読書というのは何かを感じたり考えたりするための思考の基盤そのものに影響を与えるものだから、読む前と後で考え方や感じ方そのものがひっくり返るような、ダイナミックなことがけっこう起きる。その本が真におもしろいものであるかどうか、言い換えればその本が自分を変えてくれるかどうかを知る手段はたった一つ、読んでみることだ。私は商業出版の人間であるから、よい作品をより沢山の人に届ける義務があり、作品の良さを伝える努力をしなければならない。「読めばわかる」と投げ出すことは職業倫理に反する。どうしたら伝わるかを考えなければいけない。
 
本の定価がその作品のおもしろさを数値化したものだったらどんなにやりやすいだろうと時々思う。しかし、5000円の小説が500円の漫画の10倍おもしろいわけではない。逆も然り。発行部数がその作品のおもしろさを数値化したものだったらどんなにわかりやすいだろうとも時々思う。しかし、100部しか発行されなかった論文が100万部売れたビジネス書より深く心に刺さり生涯の友になることもある。逆も然り。自分の価値観や感性に従ってこれは好き度100、これは20と採点するにしても、人間の価値観や感性は時間の影響に対してデリケートすぎるし、人によって違うものだから有効な尺度になりえない。どんなものにもそれぞれに個別のおもしろさがあって、どんな数字にも置き換えることができない。数字に置きかえられないのだから、複数の本のおもしろ度を比較して、こっちの方がこうあっちの方がどうとやることにも意味がない。分度器を定規で測って長いから良い、短いからダメとやるような倒錯すら感じる。そこに書かれていることのおもしろさを作品の外から事前に測定することはどうやらできない。
 
購入を検討している本の価値を、支払ったお金や部数に見合うものかどうかとか、今の自分の価値観に沿うかどうかとか、好きか嫌いかとか、とにかく読む前の自分が持っているありあわせのショボい尺度で品定めしようとする姿勢は読書には向かないと思う。これを読んでも自分の価値観は微動だにしないだろうという予断、あるいは動かされてなるものかというかたくなな気持ちで臨むことはとてももったいないことだと思う。本を読み始めるためには、今の自分の価値観や知識を絶対視するナルシシズムをひとまずよそに置いておける構えの緩さが必要だ。これは未読の作品に対する最低限のリスペクトと言い換えることもできる。出版社による宣伝は大小様々色とりどりの権威づけによって、未読者の構えを緩め、自社の出版物に最低限のリスペクトを持ってもらおうとする試みである。
 
「読者」と「お客様」は違う。最小の代価で最大のサービスを得ようとするのがお客様である。しかし、同じ本であっても読者が違えば受けとる物も違うし何を代価と考えるかも一律ではない。しかもそれらは時間によって変化する。等価交換が成立しない。この意味で本を買うことは厳密には消費行動とは言えないし、出版業は純粋なサービス業とは言えないと私は思う。よりわかりやすいもの、簡潔なもの、面倒くさくないもの、良さがあらかじめ保証されているもの……これら商業出版のセオリーは出版社が読者をお客様とし、自らをサービス業者と定めていることの表れでもある。未読の書物に対して最低限のリスペクトを持って“いただく”ことはお客様にとっては手間であるから、サービスを提供する側がこれをあらかじめ取り除こうとするのは自然なことだ。私はこれを悪いこととは思わない。先に述べたように、受け手の構えを緩めることなしに読書は始まらないのだし、今の日本の漫画が質・量・多様性においてちょっと異常なほど豊かであることと、漫画が沢山の人の財布を開かせるものであったことは切っても切り離せないと思う。これらは車の両輪のようなもので、どちらかが欠ければもう一方も成立しなかった。
 
漫画には独特のチャーミングさと親しみやすさがある。あるものが漫画の形をしている時点でいきなり沢山の人が構えを緩めやすい。どうしてそうなのか、またそれが本当にいいことなのかどうかはとても考えがいのある問題だが今は置くとして、本が売れない時代である。紙の出版物の総売上は1996年をピークにもう20年以上右肩下がりを続け、今ではピーク時の半分を割り込んでいる、商業漫画も同じである、厳しい状況だが頑張らなくてはならない、と先代の社長は新年の朝礼の度に言っていた。本当にそう思う。本の買われ方は昔と今とではまったく違っている。書店をゆっくり見て回り出会い頭に本を買うことがなくなってきている。ネットなどで事前に仕入れた情報をもとに目的の本を定めてから書店に行く、あるいはネット書店で買う。版元も流通も販売も「不特定多数の人に大量に」から「欲しい人に確実に」にシフトしてきている。さらに、人によっては漫画というものは読み放題サービスで無料で読むものだから、1冊の物理書籍を購入し所有するという概念自体が弱まってきている(そもそも物理書籍という言葉自体が電子以前にはなかったものだ)云々……ここ数年の変化の激しさは私も現場で強く感じている。
 
漫画は月に1000点、年間で1万点を超える新刊が刊行される。そのほぼすべてに帯がまかれている。宣伝の場所や方法は様々だが、帯には宣伝のエッセンスが凝縮されている。毎年1万種類以上の帯が生み出されていることを思うと気が遠くなるが、漫画だけでそうなのだから、文芸書、趣味実用書、人文書、理工書、学参、文庫、新書、ビジネス書などなど、書店に並ぶすべての新刊を勘定に入れると途方もない数になるし、雑誌に関しては機能的には表紙がすでに帯だということを考えると、気が遠くなるどころか白目をむいて卒倒しそうになる。それらはすべて、あらん限りの大声で同じことを叫んでいる。買ってください、と。凄まじい数の商品が同じことを一斉に叫ばざるをえない中で、どうしたら振り向いてもらえるか。考えられるやり方は2つ。1つめはより大きな声を出すこと。2つめは質の違う声を出すこと。だが、今のところ2つ目の選択肢はないように思う。巨大な銅鑼がジャンジャン鳴っている中で鈴の音を聞きとってもらうことができるだろうか。実際には聞きとってもらえるのかもしれないが、一人だけ鈴で乗り込んだ結果まったく見向きもされず終わりました、ということはあってはならない。失敗が許されない状況でそれをやるのは怖すぎる。銅鑼の音が鳴り止んだ瞬間を逃さずシャンと鳴らせば空間の隅々に染み渡るすばらしい存在感を示すことになるだろうが、先に述べたようにおびただしい数の商品が日々間断なく供給される中で銅鑼が鳴り止む瞬間は1秒もない。質の違いを知ってもらうためにも、銅鑼に匹敵するかそれ以上に大きな音の出る楽器を用いざるを得ない。声のでかい奴が勝つと我も我もと全員がより大きな声で叫び始めた結果、今はもう誰の声も聞こえなくなってしまった。
 
私が他社の人々にお願いしたいのは、あらゆる販促を今すぐやめてほしいということです。新刊に帯を付けないのはもちろん、POPやポスターなどの販促物もいっさい作らないでほしい。限られた資源を独占するために、より強く、より大きく、より速く、より遠くへ……これではまるで戦争だ。こんなバカげた大騒ぎはそろそろみんなやめるべきだ……と言いつつ、もし本当に他社があらゆる販促行為を放棄したとしたら、私は誰よりも素早く自社の商品に帯をまき、あらん限りの販促物をせっせと書店に送り一人勝ちを狙いに行くだろう。そして他社の人間たちもまた私と同じようにするに違いない。だから私は銅鑼を捨てるわけにはいかない。世界から核兵器がなくならない理由と同じだ。トーチを立ち上げる際、みんなで大手のやらないことをやろうということを話し合い一定の成果を出してきたけれど、これは戦い方として大規模な空爆ではなくゲリラ戦を選んだというもので、限界を迎えつつあるこの状況を生き延びるためには、この戦争から安全に降りるやり方が必要になるだろう、というぼんやりした予感がある。
 
私が今した戦争の例え、わかりやすかったでしょうか? たぶんわかりやすかったと思う。私は出版業をわかりやすく戦争に例えることはすごく幼稚で恥ずかしいことだと思う。こういう発想と言葉遣いが限界を迎えたのが今だ。言うまでもないが出版業は戦争ではない。競争ですらない。有限な消費者の財布の中身を奪い合おうとするから戦争のように見える。私たちは限られた資源を奪い合っているわけではない。洗濯機をすでに持っている人は別の洗濯機を買わないだろうが、本は違う。私は新刊が出るたびに、すごい売れろ、とすごい思う。私たちの作品の中につまらないものは一つもない。読者の心に深々と刺さり、ある人を勇気づけ、時に慰め、多くの人々の価値観をひっくり返し革命を起こしかねかいものしか世に出していない。いい作品をより沢山の人に届けることは出版社に勤める人間の使命である。ベストセラーへの野心が消費者の奪い合いとはまったく関係ないところで成立しうるのは出版業のロマンチックな一面だと私は思う。読者とお客様は違うということは何度でも確認する必要がある。お客様向けのメッセージがもう誰にも届かないなら読者に語りかける。読者がいないなら育てる。

さて、トイレットペーパーのように長いアジテーションをここまで書き連ねてきたわけだが、そんなことよりも私が柔道の巴投げに成功した時の話を聞け。中学の時、1学年先輩のYを投げた。少し長くなるが、まあ聞け。先だっての私のブログを読んだ人ならお気づきだろうが、今から始める話はこのあいだ長すぎるとか意味がわからないとか散々な言われようだったものと全く同じものである。だが、ここまで読んできたあなたはこう思っているはずだ。自分が単なる消費者ではなく真の読者かどうかが今試されようとしている、と。

私は読書というのはそれを読む労力と読んだことで得られる報酬に等価交換の関係が成り立たないと言った。ここまで読んだあなたが消費者ではなく真の読者なら、今の自分の価値観や知識を絶対視するナルシシズムをひとまずよそに置いておける構えの緩さをすでに持っているはずだ。今から始める長い話を最後まで読み通すことは既読の人にとっても未読の人にとっても面倒で骨の折れることだろう。だが、もしあなたが最後まで読みきったとしても私はあなたに感謝しない。読み通した結果、時間を取られただけで何も得るものがなかったと憤慨したとしても絶対に謝らない。それは私があなたに真の読者としての資質をすでに見出しているからだ。あなたと私は対等だ。では始めよう。

私は北海道・十勝の中札内村で生まれ育った。古代の氷河の地形が残る日高山脈の麓だ。見渡す限りの畑と牧場、白樺の防風林、鬱蒼とした柏林、大型ダンプがひっきりなしに出入りする採石場。山菜採りに出かけた人が時々熊に食われたりしていた。ウドやアイヌネギ、フキノトウなどが採れた。

村の中学は全校生徒120人くらいだっただろうか。柔道部が強く、全国大会で3位とかすごかった。入学と同時に北海道中から猛者たちが集まってきて監督の家で寮生活を送っていた。札幌や小樽といった都市部からやってくる者も少なくなく、彼らには我々のような土着の中学生とは違い、不良っぽさも含めた何かしら洗練された感じがあった。一方で彼らは地獄のような稽古の日々を送ってもいた。柔道がめっぽう強くスポーツ万能、ユーモアのセンスもあり、女子にも男子にも人気があったO君、稽古中の死んだような顔が忘れられない。日々に耐えかね、寮から脱走を試みる者も少なくなかった。脱走者は絶対に連れ戻された。果てしない畑のあぜ道を、雪の降りしきる夜を、ひとり逃げゆく柔道少年の姿を想像すると私は今も胸がつまる。力尽き、大人たちに連れ戻される彼らの気持ちを思うと涙が出る。

私が巴投げを成し遂げたその日、私の所属する野球部は雨のため外での練習が中止になっていた。顧問からは校舎内20周を言いつけられていたのをサボって5周で切り上げ、余った時間。そういうダラけきった時間帯に、同じ野球部の一つ先輩であるYがふざけて私に柔道ごっこをしかけてきたのだ。Yは顔は笑っていたが、けっこう本気でぐいぐい来た。私は彼のことを心の底ではシャバい奴と見下していたから、図々しく押したり引いたりしてくるYにだんだん腹が立ってきた。そういう気持ちは相手に伝わるもので、二人とも顔は笑ってはいるが互いにどんどんムカついていった。

私は柔道というものにそれなりに敬意を持っていたから、Yと組み合ううち、ふと、何かこう、こんなバカなことは1秒でも早くやめたい……そんな気持ちになった。他の部員たちも各自だらけきっていて、私とYの世紀の対決など誰も見ていなかったから、刻一刻とカロリーだけが消費されていった。これでは疲れてしまって、せっかくみんなで談合して20周を5周に誤魔化した意味がなくなってしまう。浮いた15周分のカロリーがもったいない。私は小さい頃からケチで、兄や従姉たちがジャイアントカプリコを食べる時に床に落ちる食べカスを孤独に拾い集め、こねて丸めて作った極小のチョコボールを瓶に入れて取っておくような子どもだったから、その時確かに、もったいない、とそう思った。力を尽くすのをやめた。されるがままにしていると、相手の力と自分が一体になる感じがあって、受ける圧を後ろに逃がそうとしたら巴投げが起きた。不思議な感覚だった。物理法則を超えるのではなく、それを完全に受け入れ一体化することによって生まれる自由というものがある。

後日、これを根に持ったYから校舎裏でヤキを入れられて私は泣いたわけだが、今思い出しても腹が立つ。その後10年以上が経ち、東京で就職して間もなくだっただろうか、暮れに実家に帰省し紅白歌合戦をボーと見ていると外で大きな衝突音がした。兄と共に様子を見に出ると、表に停めてあった我が家の乗用車に別の車がつっこんでおり、傍にYが立っていた。雪道でハンドル操作を誤ったという。Yが去った後、あのシャバ僧、調子こいてるからこういうことになる、相変わらずどうしようもねえ馬鹿野郎だ、みたいなことを兄に言ったら、たしかにYは昔から馬鹿でシャバいが、弁償すると言っているしわざとじゃないのだからそんなに強く言うほどのことじゃないと言われて終わった。

(編集部・中川)