トーチ

2019年5月21日 火曜日

「機動戦士ガンダム」を初めてちゃんと観た

アマゾンプライムで「機動戦士ガンダム」を最初から最後まで見ました。ウィキペディアを見るとテレビ放送の開始は1979年とありますから、私の生まれた年と同じです。小さい頃にテレビで見ました。小学校に上がる前でしたから私が見ていたのは再放送だったようです。

私の両親は共働きだったので、平日の昼間は祖母の家で過ごすことが多く、母が仕事を終えて迎えにくるまで祖母と二人でテレビを見るなどして過ごしました。「3時のあなた」と「ガンダム」がよくかかっていました。祖母は鍛治屋の親方の娘で、当時はまだ和服を着ていました。とても始末な人で、一日中まめまめしく立ち働いていましたが、夕飯の支度が始まる少し前というのは彼女もぼんやりしており、夕暮れ時になるとあらもうこんな時間と立ち上がり、どこかへ行ってしまう。茶の間の柱時計がボーンと鳴り、灯りをつけるにはまだ早い、しかし一人で心細くなるには充分暗い黄昏時にいつもガンダムは始まりました。

エンディングテーマが流れる頃にはすっかり暗くなっていました。アムロ…アムロ……お前の生まれた故郷だ……あの唄を聞くと、暗い部屋でテレビの前で体育座りをしている自分の姿がありありと蘇ります。正確には体育座りではなく、ストーブの前に寝そべって見ていましたがそんな感じでしたから、作品のあらすじも、モビルスーツへのトキメキも、深遠な人間ドラマも、真に迫る名台詞の数々もまったく記憶に残っておらず、私にとってガンダムといえば即ち黄昏時のもの寂しさでした。

あの寂しいやつは一体なんだったんだろうと、大人になってからちゃんと見ておきたい気持ちがずっとありました。会社の隣の席の人が折に触れて勧めてくれていたのですが、私にとってガンダムは寂しさですから何となく二の足を踏んでいました。彼は熱く語ろうとすればいくらでも語ることができるにも関わらず私が自発的に見始めるのを黙って待つような、あたたかい勧め方をしてくれていたところへ、先月、山田参助さんと話をする中で、今から見るならロボットものというより戦記物として見てみてはどうだろうという素晴らしい視点をいただき、ようやく見始めることができました。最初から最後まで夢中になって観ました。

戦争が描かれていました。私がこれから徴兵されるとしたら当然将校ではなく兵隊としてです。これを読んでくれているあなただって多分そうです。テーブルの上に巨大な地図を広げ、第◯大隊を用いてA拠点を攻略、その後すみやかにB地点になんとかかんとか……というような、戦局を俯瞰して指示を出す階級で戦争に参加することは多分なく、現場で色々やらされるんだと思います。私はうーとかあーとかつらいとか思いながら、がんばって殺したり殺されたりするんだと思います。

私はガンダムを観ながら軍人たちの矜持に胸を熱くし、鬼気迫る戦闘シーンに官能を覚えつつも、それ以上に、作中で描かれる、何と言いますか、現場のいやったらしさ、みたいなものにリアリティを感じました。わけもわからぬままにあっちゃこっちゃ行かされる感じとか、参謀本部と前線の温度差だとか、同船する難民や子どもたちが全然言うことをきかないとか、パイロットが疲れてやる気をなくしちゃったりとか、色恋沙汰とか、本当に色々面倒くさく、自分がホワイトベースの艦長だったら、あ〜もう!と頭をかきむしりたくなるような出来事が絶え間なく起きていました。ある回が、塩がないという話で始まった時など思わず「まじか…」と声に出してしまいました。塩がない。

登場人物たち全員がそこそこうっとうしいことにもリアリティを感じました。アムロのいじけ、シャアのエグめの野心、セイラのとっつきにくさ、ブライトのしゃっちょこばり、フラウ・ボゥの口うるささ、カイのいやみったらしさ、ミライのそこはかとないどんくささなどなど……全員が個性豊かで色とりどりのうっとうしさを持っていて生々しい。血が通っている。なんでだったか忘れましたがとにかく拗ねて爪を噛んでるアムロにフラウ・ボゥが「その癖やめなさい」と、シュッと小言を挟んでくる感じとか絶妙で、うっせえな!ほっとけや!と思わず大声を出したくなるような、反抗期の頃に母親に抱いていた根拠のない苛立ちまで思い出され、本当にすごいなと思いました。登場人物たちに自分を重ね合わせる瞬間がとても豊富で、彼らの戦争が他人事として思えない。戦地を転々とする彼らに一定期間の忍耐を経れば故郷に帰れるという保証があればいいのですが、そもそも帰るべき故郷というものがすでに失われている上、軍が掲げる大義を我が事として胸に刻み込めている人間はホワイトベースにはいないように見えました。心と身体の置き場所をどこにも定めることができないままに、ほとんど場当たり的に、ふわふわと宙を移動し続けざるをえない様子に、私は大変な心細さを感じました。この心理的・物理的な寄る辺なさは、私が小さい頃に感じた黄昏時の物寂しさとあいまって胸に迫るものがありました。もしかしたら私がガンダムに黄昏時の物寂しさを感じていたのではなく、逆にこの作品によって黄昏の物寂しさというものが記憶の深い場所に刷り込まれたのかもしれません。

他に意外な学びが2つありました。1つめは次回予告でのいわゆるネタバレがすごいことです。次回予告では、次にけっこうな重要人物が死ぬことなどが惜しげもなく続々と告げられていました。アマゾンプライムは全話のサブタイトルが事前に一覧でき、途中に「第●話 ガルマ散る」というのがあるなどして、私はガルマ氏が登場する前から彼が死ぬことを知っていました。興味深かったのは、こうしたネタバレによって興が殺がれることがまったくないどころか、なぜ、どんなふうにそうなっていくのか、むしろドキドキしながら次回を楽しむことができたということです。「ネタバレは悪」という考え方が一般的になって久しいですが、ネタバレしようがしまいが面白いものは面白いです。漫画も映画も小説も、作品の面白さというのは恐らく個々の演出や細部の複雑な相互作用の総体であり、ストーリーもその一部に過ぎないと私は思います。今は作品の送り手も受け手もほとんど脅迫的にネタバレを忌避しますが、そこには作品の本質はストーリーにありという極めて単純化された作品観があるように思います。そんなはずがないことは皆わかっているはずなのに、現代人は皆忙しいからといって、ストーリーも含む個々の演出や細部の複雑な相互作用、つまり面白さの複雑さから目をそらし、作品の魅力を短い時間で効率的に伝えようとすること、また、そのようなものとして理解しようとすること、これが行きすぎると変なことになるぞと背筋が伸びる思いがしました。

2つめは永井一郎の頻度がハンパないことです。ナレーションの他にも永井一郎が一人で何役も演じていて、ちょっと気を抜くと誰も彼もが永井一郎になっていました。昔のアニメではよくあることだったと後で知りましたが、私は最初すごくつまづきました。野沢雅子が一人三役を演じる孫悟空・悟飯・悟天に親子関係があるように、同じ声優が何役もやるからにはそれなりの基準があるはずで、永井一郎が演じるキャラクターたちにも何か法則があるのだろうと思いこんでしまったのです。当初は、なるほど敵国の将校クラスを永井一郎で統一しているのだろうと思いました。逆に言えば、永井一郎の声がしたらそのキャラクターは敵国の将校だと思えばいいと。しかし、その法則はあっという間に覆され、階級関係なく続々と永井一郎が登場し、気付くと連邦軍側にも永井一郎がいる。話が進むごとに敵も味方も軍人も民間人も老人も中年も、あたり一面永井一郎になっていてまったく法則が見出せず悩みました。しかし私のつまづきとは関係なく物語は進むので、ある時点で永井一郎について考えるのをやめました。諦めると途端に楽になりました。永井一郎か、永井一郎以外か。それくらいざっくりと区別するのが正解だったようです。俺か、俺以外か。ローランドの至言が私を永井一郎スパイラルから解放してくれました。1キャラクターにつき1声優というのは私の無知から来る思い込みで、ある作品に対してありもしない統一性や厳密さを求めることは何の意味もないどころか作品を鑑賞する上で邪魔にしかならないのでやめたほうがいいと思った。

(編集部・中川)