トーチ

2019年8月23日 金曜日

『アマゾネス・キス』、何がエビデンスか。

意志強ナツ子『アマゾネス・キス』最新話のLesson.11、読んだ人はたぶん思ったと思うが、大変なことになっている。次期アマゾネス継承問題を軸に物語が爆発的な広がりを得た。爆発的というか、爆発した。大爆発!たまや!

未読の方はどうか今すぐ読んでほしい。少し前から全話無料で読めるようになっている。なぜそうしているかというと多くの人にこの作品のおもしろさを知ってほしいからだ。こんなブログなど読んでいる場合ではない。本稿は長い。これを読み通すことに時間を割くより、1〜11話まで通読し作品にどっぷり浸ることを強くオススメする。作品を最新話まで読み切って、もしまだ活字を追う余力が残っていたらこのページに戻ってきてください。お気をつけて行ってらっしゃい。どうぞ楽しんで。

★意志強ナツ子『アマゾネス・キス』

★意志強ナツ子・ゴトウユキコ・ふみふみこ 合同原画展「〜禁緋〜」

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この作品は独特の絵柄、超感覚知覚や人間力、占いといった題材のユニークさを味わうものでもあるけれど、その真骨頂は、愛と憎しみ、虚と実、失望と野心、喜びと悲しみを真正面から描き出す人間ドラマにある。そうじゃないかなとは以前からうすうす思ってはいたが、今回Lesson.11を読んで改めて思った。

人間ドラマ。私は『アマゾネス・キス』のおもしろさを一人でも多くの人と共有するためにこれを書いているのに、よりによって人間ドラマという言葉しか出てこない。人間ドラマ。未読の人を振り向かせるにはおよそ向かない曖昧な言葉だ。「この作品は人間ドラマです」と言われて「ほう人間ドラマとな、そいつぁたまらん!」となるのは難しいだろう。しかしこの作品についてはもはやそうとしか言いようがない。『アマゾネス・キス』がおもしろい人間ドラマだということはつまり、おもしろい人間とおもしろいドラマが描かれているということだ。いや、おもしろい人間というより人間のおもしろさというべきだ。人間のおもしろさに忠実であることでおもしろい出来事が起きまくっているというのが正しい。

Lesson.08が公開されて間もない2月11日、劇画狼氏のツイート「意志強ナツ子『アマゾネス・キス』を君は読んだか!? すごい、登場人物の大半が前向きに全力で選択肢を間違え続ける人生!」

私はこれを読んで、本作に感じていたリアリティの源泉を見事に言葉にしてくれたと膝を打つと同時に、なんだろう、この、前向きに全力で間違え続ける人々、どこかで見たことがあると思った。これは後になって気づいたのだが『カラマーゾフの兄弟』なのだった。具体的にどこがどう似ているか例を挙げろと言われると困ってしまうのだが、なんか似ているのである。登場人物たちの過ちが過ちに見えない。彼らは常識的には間違った選択をしているけれど、その真剣さを目の当たりにすると我々は「たしかに、この人にとってはこれが正解なのだ」と、読む前は想像もしなかった正解に心奪われ、ただ頷くしかない。

『アマゾネス・キス』の登場人物たちの真剣さは、そのまま作者の度外れた真面目さから来るものと考えていい。作者の頭のネジが1本ゆるんでいることで稀有な作品が生まれることもあるだろうが、本作の魅力は、作者が大事なネジを、真面目に、ギチギチに締めすぎていることから生まれている。締めすぎているどころか、もうすでにけっこう頭にめり込んでいる。それでも意志強ナツ子は手をゆるめない。トルストイがロシア飢饉に際し大々的な救済運動を展開した人格者だったのに対し、ドストエフスキーは博奕狂いだった。カラマーゾフ家の面々や『罪と罰』のラスコーリニコフ、『悪霊』のキリーロフなどなど、彼が描き出す人間たちのあの剥き出し感には、何もかもほっぽり出して大勝負に出る時の熱狂が反映されているように私は思う。意志強ナツ子が締めまくっているのはどのネジだろうか。

『アマゾネス・キス』の執筆に際し、作者がもっとも力を入れているのはネームでも作画でもなく、作話だ。いつだったか本人がそんなようなことを言っていたし、作業工程を見ていると実際そうだ。作話とはこれから起きる出来事を創出ないし導き出す作業だ。彼女は原稿が上がるたびに編集部まで届けにきてくれ、その足で次回の打ち合わせをする。その打ち合わせがいつも私の「これ、次どうなっちゃうんですか?」という質問から始まっていることにこの前気づいた。私がこの作品に期待してるのは、ただひたすら、この先何が起きるか、らしい。

フランスでは漫画は、建築、彫刻、絵画、音楽、文学、演劇、映画、メディア芸術に次ぐ9番目の芸術とされており、私は漫画は文学の子供(で映画の弟妹)だと思っていて、文学の原点は「こんなことがあった」ということを人に話して聞かせることにある。こんなことがあった、ということをおもしろく話して聞かせるための様々な美的工夫が発達して今の形になっている。叙事詩や神話はその原初の形だと思うが、人間は昔も今もそれらに耳を傾けているわけだから漫画も同じで「こんなことがあった」のおもしろさはあなどれない。

作品の受け手が「うんうん、それで? どうなったの?」と尋ねたくなるような、プリミティブな面白さが『アマゾネス・キス』には間違いなくある。あるというかそれが凄いから抜群に面白い。同語反復になってしまった。私は以前のブログでこの作品について長編としての風格という言葉を使い、それが何なのか本当は自分でもよくわかってなかったのだけど、それはこのことだったとLesson.11を読んだ今は思う。

先日トーチ漫画賞の応募作の下読みを終えた。「登場人物が2人以下」「モノローグ主体」の作品がとても多かった。それがダメだというわけでは全然ないし、おもしろいものもあった。ただ、作品にこういうつくりを採用してしまうとどうしても出来事が起きにくく、読者を最後まで読み通させる上でかなりのハンディを負うことになると私自身学んだ。

応募用紙に好きな作品として『みちくさ日記』『電話・睡眠・音楽』『死都調布』『あばよ〜ベイビーイッツユー〜』『奈良へ』のような作品を描きたいとする人も少なくなかったが、これらの作品は叙情や視覚的な独創性が深く印象に残るものであると同時に、作者が意図しているかどうかは別にして、何かしらの興味深い出来事が絶対に描かれていることを見落としてはならない。本当に取るに足らない出来事を描いているのは『電話・睡眠・音楽』だが、取るに足らない出来事を最後までおもしろく読ませるのにどれだけの知識と技術が注がれているかに、描き手なら一度思いを馳せてみても損はない。

登場人物が2人以下でモノローグ主体の作中でどんな出来事が起きているかというと、5W1Hに則して言えば、

黄昏時(when)
僕は(who)
理由もなく(why)
部屋で(where)
彼女のことを思い出している。(what)
眠剤を齧りつつ(how)

とかだいたいそんな感じになりがちで、出来事としては要するに青年がにぎり金玉でボサッとしているというただそれだけのことになってしまう。この出来事だけで作品を最後まで読み通させるのは不可能ではないが難くはある。何と言うか、もうちょっと5W1Hのそれぞれに体重を乗せれば楽になるのではないか。例えば、何でもいいのだが、

精神科病院を退院した日
自らを神と称する女は
母の刺青の秘密を探るため
渋谷のオルガンバーで
壁に埋まった茶碗に触れた。
幽霊たちの忠告を無視して

これは先に挙げた『みちくさ日記』以下の作品の要素をランダムに取り出して適当に5W1Hに当てはめたものだが、どうだろう、青年が部屋に横たわっている話よりもおもしろそうな感じがしないだろうか。しないかもしれない。どういう話をおもしろく感じるかは人それぞれではあるが、もし何を描いてもなんかノッペリした感じになってしまうという悩みを抱えているのであれば、描き手なりのおもしろい「いつ」、おもしろい「誰」、おもしろい「どこ」、おもしろい「なぜ」、おもしろい「何」、おもしろい「どんなふうに」を一度立ち止まって考えてみることで、それらのおもしろい組み合わせがおもしろい出来事となり、おもしろい作品への道が開けると考えてみるとちょっとやる気が出てきませんか?

出来事というものが否応なく読む人の心を捉えるものであること、また、なぜ作者が出来事を描かざるを得ないかということについては、逆噴射聡一郎氏の『DAYS OF MEXICO 2018』に収録されている「パルプ小説の書き方」を読むことで直感的に理解できる。これは本当に名著で、タイトルこそ小説の書き方だが漫画を志す人にとっても極めて実践的な教科書になるはずのでぜひ読んでほしい。noteで500円で購入できる。

話が逸れた。いや、そんなに逸れていないかもしれない。『アマゾネス・キス』の話だ。今回のLesson.11のネーム、意志強さんは最初のものから4度修正を入れた。メールで送られてきた初稿の感想を伝えようと電話すると彼女はいきなり「行き詰まってます、飲みませんか?」と高円寺までやってきた。意志強さんはいつもいきなり自主的に苦悩している。焼き鳥屋で色々話すうち彼女は何かに気づいたらしく、手帳を開き、赤ペンで「出し惜しみしない!」と大きく書いてグリグリ囲み、来た時よりもいくぶん晴れやかな表情で去っていった。

私が言いたいのはネームを自主的に4度も直す妥協のなさが作品のおもしろさを生んでいる、ということとは少し違うし、作話に多くのエネルギーを注いでいるから作品がおもしろいのだ、ということでもない。大事なのは「いつもいきなり自主的に苦悩している」のところだ。締めすぎて頭にめり込んでいる大事なネジのヒントがたぶんこの辺にある。

Q.今年、台風が多かった理由を論理的に説明せよ。

A.フィリピン東方沖の台風発生域で海面水温が高い上、インド洋からの季節風が例年以上に強く、季節風が太平洋高気圧付近の東風と接近して積乱雲が渦をつくりやすい条件が重なったため。

この回答は正しそうに見えるが、論理としては途中で挫折している。海面温度が高く季節風が強いと台風が発生しやすいのは科学的に証明されているのだろうが、ではなぜ「今年に限って」海面温度が高く季節風が強いのかの説明には至っていない。「温暖化が進んでおり、今年、海面の温度が台風が発生しやすくなる閾値を超えたのです」という説明を加えたとしても「温暖化のせいでそうなったのが、なぜ今年だったのか?」という問いに答えるものではない。科学的な考え方をしている限り「なぜよりによって今年だったのか」の答えに至ることは永遠にできない。論理は必ず中途で途切れ、思考はそこで停止する。

この台風に関するやりとりは、以前、意志強さんとの世間話の中で実際にしたものだ。「今年、台風多いですね。海面温度と季節風のせいだって天気予報では言ってましたけど」。彼女の答えはこうだった。「今年、私が地球を怒らせてしまったからだと思うんです」。私は思わず「なるほど」と言ってしまった。言ってしまってから、いやちょっと待てよと思った。落ち着け。私は科学を信頼している。海面温度と季節風のその先の説明について、ちゃんと科学の言葉で理屈を推し進めてみるべきだ。そう考えたわけだが、科学者でない私が先に述べたような袋小路に入るまでさほど時間はかからなかった。だがもし私が気象学者だったとしても同じことだったと思う。

超感覚知覚力とは、問いから結論までの長々した論理のプロセスを一瞬で理解し、一瞬で結論に到達する能力のことではないかと私は考えている。Lesson.03でアケミのトレーニングを受けたねこみが「ありがとう、ぜんぶ唐突に理解できた」というのはそういうことだ。意志強ナツ子はこの能力を、神のお告げや第六感によるインスピレーションによってもたらされるものではなく、適切なトレーニングにより開発し鍛えることのできる能力だとしている。鍛えることができる、そして教えることができる、これは科学である。私たちの生活と密接に関係するものだ。「ビジネスに役立つ論理的思考法」とか「プレゼンで絶対に負けないためのエビデンス仕事術」みたいな本とにらめっこするよりも、超感覚知覚力を鍛えるほうがずっと話が早いことは言うまでもない。超感覚知覚力により得られた結論は最初から論理の完成形なのであり、超感覚知覚力により得られた結論以上のエビデンスは「論理的に」存在しないからだ。

『アマゾネス・キス』には、占い、超感覚知覚、人間力といった怪しい言葉が並ぶ。ていうか超感覚知覚って。そもそも人間力って。占いなんて……読者がシニカルなツッコミを入れようと思えばいくらでも入れられる題材である。にも関わらず、作品は読者に一瞬もその隙を与えない強い説得力に満ちている。

Lesson.07、お忍びでヘラクレス義雄を訪問した純子が第2回異業種交流会で久々に姿を現わす場面。純子、いきなりトップレスである。彼女がなぜ胸をほっぽりだしているか、登場人物の誰一人つっこまず、そんなことはまるで起きていないかのように重要なやり取りが繰り広げられる。交流会は純子がそのカリスマ性をみんなに印象付ける晴れ舞台だから、私は初めてこれを読んだ時、そうか勝負服なんだなと思った。純子ほどの人物が選ぶ勝負服なんだからこれで間違いないのだ。そうだった、人間ここぞという時は女も男も裸一貫で打って出るものだ。こういったパーティーではよくある光景だった気がする……いや、違う。そんなわけないじゃないか。やっぱり公衆の面前でいきなりトップレスで登場するなんて現実にはありえない……気を取り直しかけたところで、純子の乳輪の、作者の愛情がたっぷり注がれた、手間暇かけた点描を見るともう黙るしかないのである。

これは作者が「いつもいきなり自主的に苦悩している」ことと無関係ではない。作者は常に、読者の頭にふと浮かぶ正しくはあるがショボい正論のはるか先にいてくれる。彼女は苦悩させられてしまっているのではなく、自分があらゆる人々に先んじて苦悩することで何が起きるかをよく理解しており、望む結果を得るために意図的にそうしているのが恐ろしいと私は思う。技としての苦悩。

これは魔術である。占いと魔術は違う。占いが、来たるべき現実を見通し言い当てるのものであるのに対し、魔術は来るべき現実を捻じ曲げるないし創り出す技のことをいう。単語に「術」とついていることからも、それは概念ではなく具体的な技であり、彼女が使う魔術あるいはリアルを実体化させるための儀式がいつもいきなり自主的に苦悩することなのだ。『アマゾネス・キス』のフィクションとしてのリアリティの源泉は現実の正確な模写にあるのではなく、彼女の魔術により生成され続けるリアルにある。リアリティの源泉であるリアル。神話である。

(編集部・中川)

意志強ナツ子『アマゾネス・キス』

意志強ナツ子・ゴトウユキコ・ふみふみこ 合同原画展「〜禁緋〜」