トーチ

2020年5月25日 月曜日

『自転車屋さんの高橋くん』単行本化記念特集/あらゆる場所に高橋が…④中山の高橋くん

西東京の地域にある中高一貫の男子校に通っていたころの話だ。僕の学年で一番多い苗字が高橋だった。一学年300人近くいたなかで、高橋は確か5人(次いで山本が4人。ある年僕は3人の山本と一度に同じクラスになったことがあったが、なぜそんなクラスが生まれてしまったのだろうか)。高橋同士が仲良くしている様子はなく、各高橋はそれぞれ違うコミュニティで活動していた。その中でも思い出深い高橋が二人いる。

一人は中一の時に同じクラスになったテツヤ。サッカー部のレギュラーでディフェンダーだったテツヤは誰にでも好かれていた。坊主と角刈りの間のような髪型で、背は中くらい。運動が得意で、優しくもあった。そのうえ、テツヤは小さい頃から習っていたおかげでピアノが相当うまい。聴いた曲なら大抵コピーできるので、音楽の時間のたびに僕らは「あの曲弾いて」と頼んでテツヤに弾いてもらっていた。

中3の時の音楽の授業で、簡単な作曲をするという課題があった。音楽が苦手な者はメロディーだけの楽譜をつくるが、音楽が得意な者は伴奏を添えた12小節くらいの曲を楽譜にみっちり書いて提出する。その頃僕らのクラスには、吹奏楽部の部長だった「議長」というあだ名の男がいて、彼はまさしくみっちりとした楽譜を書いてきたうちの一人だった。テツヤについて思い出すのはその議長とのやりとりである。

自由時間のあいだ、自分の曲を弾こうとピアノに近づいた議長に、たまたまピアノの横に立っていたテツヤが話しかけていた。

「どんなの作ったの? 見せて。」
「うーん、まあこんな感じ」

と議長は細かく書かれた楽譜を見せた。ちらっと見えた楽譜はシャープだかフラットだかの調合がいくつも書かれていて、ハ長調での記譜しかできない我々とはその時点ですでに違っていた。それを受け取ったテツヤはその楽譜を5秒くらいじっと見たあと、

「いや、この曲めっちゃ暗いじゃん」

と笑って席に戻っていった。テツヤに絶対音感があるのは知っていたが、聞いてもいない曲を頭で再生して評したその様子に僕は思わず「テッちゃんかっけぇー!!」と感嘆の声をあげた。そんな僕に対しても「いやいやそんな大したことじゃないよ」と謙遜するテツヤが、人気者にならないわけはなかった。

テツヤが中学で人気者だった理由はもう一つある。テツヤはエロかった。中学に入りたてのころは、後ろ暗さのないエロ話が話せる同級生というのは圧倒的な人気者だ。中一くらいだと同性同士のスキンシップもなぜか多く(これは男子校だけだろうか?)、音楽の授業でオペラの映像を見る時間があったときに、薄暗い視聴覚室の席でテツヤを含めた3人くらいでお互いの股間を触りあって笑っていたという、今思い返すと何が楽しかったのかわからない思い出もある。と、ここまで書いてテツヤとの思い出は音楽の授業の時間に多かったことに気づく。

思い出深いもう一人の高橋の名はユウヤという。こちらは学年で一番嫌われる高橋だったのではないか。不良ではなかったが、お坊ちゃんの多い進学校においては目立って問題児だった。ユウヤはいたずらが好きすぎた。覚えているのは、中一のころにトイレットペーパーを丸めて水を含ませ、ところ構わず投げるいたずらだ。誰も手の届かない高さの壁にベチャッと弾けた汚いトイレットペーパーは、雨が降るまで壁に残り続けていた。

高校から突然バスケ部に入ってきたユウヤとは部活でわりあいと仲良くなった。無邪気でかわいらしいと言えなくもない性格は、悪い方にはたらかなければ付き合いやすかった。不良文化のない僕らの学校だからこそ、彼がバスケ部の試合帰りに原付の後ろに乗せてくれたことなんかが、僕の数少ない、そしてあまりにも初歩的な不良体験として鮮やかに記憶に残っている。

そんなユウヤは青山学院大学に入ったあと居酒屋のキャッチやグレーなビジネスにハマり、一単位もとらずに留年したと聞いた。二人の高橋に幸あれ。

(デザイナー・中山)

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