畑中章宏さん特別寄稿

8月15日は、たまらない。ーやがて体験となる時間と空間ー
お盆が終わらない
 8月15日はたまらない。日がどんどん短くなり、夕闇が迫るのが早くなる。ヒグラシよりも、ツクツクボウシのほうが勢いを増し、夏の終わりが間近なことを感じさせる。8月15日はたまらない。夏休みはあと半月しかないのに、宿題を全然やっていないものだからたまらない。
 終戦記念日がなぜお盆なのか、子どものころから不思議だった。甲子園では正午にサイレンが鳴り、マウンドにはたいてい箕島の投手がいた(ような気がする)。8月15日は母親に、終戦の日のことを聞くのが恒例で、玉音放送は「雑音ばっかりで、なに言うてるんか、わからんかったわ」と母親はいつも答えた。
 スケラッコが描いた『盆の国』は、8月15日、1日だけの話である。しかしこの物語では8月15日のお盆が、何日も続いてしまう。登場人物が話すやわらかい言葉遣い、条坊制をとどめた古い町並み、盆地に迫る山肌からこの町は、西日本の長く都がおかれた場所のように見受けられる。私はここの出身ではないけれど、この町の夏のうだるような暑さを知っている。高温と湿気と陽炎で、人の姿がほんとうに溶けてしまいそうになるほどだ。
 8月15日がなによりたまらないのは、翌日になると、死んだ人の魂が帰って行ってしまうからである。民俗学者の柳田国男によると、お盆に死者の魂が帰ってくるという信仰や習俗は、神道や仏教とはかかわりのない、古くからの日本人に固有のものだった。お盆は仏教の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」に由来するのではなく、供物を容れる「盆」から来ているのではないかと柳田はいう。昔は正月も、ご先祖様が帰ってくる時節だったが、正月は霊を家で迎え、お盆には地域で迎える。『盆の国』ではそうしたお盆の町のようすが、とてもよく描かれていると思う。
 主人公の秋(あき)は子どものころから、お盆に帰ってきた霊、「おしょらいさん」の姿を見ることができる。彼女が住む町では、春に「雷」が落ちて、何人もの人が死んだ。そのときの死者にとっては最初のお盆、「新盆(しんぼん・にいぼん・あらぼん)」を迎える。8月15日がたまらないのは、こうした新盆の魂を迎え、送る人々であり、短い帰還を果した死者たちである。秋の中学校の同級生で、雷に撃たれて死んだ野球部員の新美くんは、『盆の国』の切ない主役のひとりだ。

「一つ目の旅人」がみた日本
 Web連載の第1回を読んだとき、白髪ですらりとした背丈の「夏夫」は、外人かもしれないと思った。なぜならそれは、『怪談』や『耳なし芳一』を書いたラフカディオ・ハーン、小泉八雲を思い浮かべたからである。
 明治の日本にやってきたハーンは、当時の日本人にも見えなくなりつつあった、神々や妖怪、精霊や霊魂を感じることができた。神話の国ギリシャと妖精の島アイルランドの血を受け継いでいるせいかもしれない。ちなみにハーンは、15歳の頃、左眼を失明し、以来ずっと「一つ目」だった。
 ハーンが日本の古い習俗を強く意識したのは、山陰地方で遭遇した盆踊りによってである。島根県の松江に英語教師として赴任する途中、鳥取県の上市(うわいち。現在の西伯郡大山町上市)で見た民俗行事の印象を、紀行随筆「盆踊り」に記した。踊り子の女性たちの「たおやかな、音を立てない、なびくようなさす手ひく手」が、もしかして白い提灯の明りに照らされた幽霊の手ではないか、とハーンは疑う。
そのとき、とつぜん、小鳥のように美しい、朗らかな韻律にみちた歌の声が、幾人かの娘たちの口をついて歌い出された。つづいて、五十人のやさしい声が、それに歌い和した。
揃うた 揃いました 踊り手がそろた 揃い着てきた 晴れ浴衣
 ハーンは上市の盆踊りで、こんな踊り歌も書きとめている。
野でも 山でも 子は生みおけよ 千両蔵より 子が宝
子供の亡霊を愛する地蔵が、物かげからそれを聞いて、にこにこ笑っている。
 一つ目の旅人はおそらく、神に捧げたもう片方の眼で、古い習俗や信仰を見ることができたのだろう。私はやはり夏夫と小泉八雲は、どこか似ているように感じる。

死者とともに踊る
 柳田国男は「新野の盆踊り」という文章で、「本来踊りというもの」は「亡魂を送るために、催されるものであった」と指摘する。新野の盆踊りというのは、長野県下伊那郡阿南町の新野地区で毎年8月14日から16日まで、夜徹しおこなわれる盆踊りである。鳴り物を用いないこの古風な踊りを、柳田は、日本の盆行事の古い形を残すものだと感じたのだ。
 この盆踊りでは、その年に新たに亡くなった人の霊(新精霊)を、「切子灯籠」に託し、踊り櫓の周囲に飾る。灯籠の数は、その1年に新野で亡くなった人の数になる。踊り櫓をめぐるように一晩中踊られるこの盆踊りは、新精霊とともに踊るという意味が込められている。
 16日の夜から踊り明かし、17日の未明になると、来年までもう踊ることはできない。
さていよいよ東が白むという時刻になって、さアもう送らにゃと長老たちが言い出すと、どうか今一区切りだけ踊らせてくれと、若い人が頼むのだそうである。送られるというのはこの一年の新仏で、その家々にあって歎く者も逝く者も、名残を惜しむの情は一致していた。
 柳田は、「あるいは昔の人にはこうして送られて去るものの姿が、ありありと目に見えたのかも知れぬ」と綴る。しかし私には、円陣を組んだ踊り手たちのようすは、新精霊を送らせまいと、抗っているように見えたものだ。
 『盆の国』の秋も、お盆がいつまでも続き、死んだおじいさんや猫のしじみが、ずっとそばにいてくれることを願った。でもしかし、死者のなかには浮かばれないものや、思い残したことがあるもの、この世に恨みを残したままのものも決して少なくはない。そうした死者の霊がこの世にとどまり、執着を見せるようになると、生者を脅かすことになる。お盆の信仰も盆踊りの習俗も、来年また会えるからと、亡魂に帰っていただくために日本人が編みだしてきたものだ。スケラッコの『盆の国』はこうした、日本の民俗の、最も素朴で、最も深いところにふれていると私は感じる。
 この物語を読んだ人はだれもこれから、毎年8月15日に近づくにつれ、秋や夏夫や、新見くんやしじみのことを、思い出さずにはいられないだろう。もちろん物語の舞台となった町のことや、たまらない暑さのことも。

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