国境線上の蟹 12

インタールード
 〜無数の偶然の果て、あるいはその始まりに
 
 
 自分が生まれた頃、祖父母の代では父方の祖母と母方の祖父がまだ健在だった。
 父方の祖母とは同居していた。両親が共働きで忙しく幼少時はほとんどの時間を祖母と過ごしていたためとにかくおばあちゃんっ子に育ったし、自分の家はいわゆる「田舎の本家」だったので、その跡取りである父の長男であるところの自分もまた、他の従兄弟らと違って祖母にかなり特別扱いされていたように思う。
 今ではもうそんなこともないが、当時は盆暮れ正月になると本家である我が家に必ず祖父の兄弟姉妹が集まっていた。祖父も含めて総勢9名もいたため、彼ら彼女らとその配偶者が集まるだけで、家の座敷は一大老人フェスである。当主である祖父は自分が生まれる前に若くして亡くなっており、家父長制の強く残っていた世代の中で「嫁」がそれをまとめるのはなかなか大変だったろうと思うが、この兄弟姉妹はみな人がよく、それほど封建的な関係性ではなかったように思う。自分の知らない苦労もあったかもしれないが、いずれにせよそんなことは知る由もなく本家の孫として彼ら彼女らにもたいそう可愛がられ、弱冠3歳にして座敷のカラオケセットでチョー・ヨンピルの「釜山港へ帰れ」を熱唱して「こりゃ神童じゃ」と言われていた(らしい)。
 その座敷には一家代々の遺影が飾られており、曽祖父母、祖父、そしてもう一人、菊の御紋が入った立派な額に飾られた軍装の青年がいた。誰かにあれは誰かと問うたところ、「いなおいさん」だと言う(「おいさん」というのは地元・大分の言葉で「おじさん」という意味)。
「いなおいさん」の本名は稲男(いなお)といって祖父の兄、つまりこの家の長男だったらしい。菊の御紋が入っているのは第二次大戦末期に戦病死し「英霊」になったからという話で、それゆえに次男である祖父がこの家を継いだのだということだった。前途ある若者の死も、長男の死による次男の家督相続も、世間では「よくある話」である。子供時代の自分も、さして気に留めることもなく「ふーん」と思っていた。
 
 祖母がもともとはその「いなおいさん」に嫁いできた人であったことを知ったのは、彼女の死後だ。結婚後まもなく稲男は出征、戦地に赴くことなく病死した。寡婦となった祖母は実家に帰ろうとしたが、舅と姑、つまり自分の曽祖父母が「ここにおってくれ」と懇願し、家督を継いだ夫の弟の妻となった。そして、戦後に生まれたのが父なのだという。
 繰り返すが、これらは当時の時代状況では「よくある話」である。おそらく、少なくとも初めは心ならずも夫の弟に嫁ぐ女性、といったことも含め。だが、自分にとっては「よくある話」どころではない。仮に稲男が存命であれば祖母は祖父に再嫁せず、したがって父も生まれず、自分は存在し得なかったのだから。
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 母方の祖父は、とにかくよく歩く人だった。15キロほど離れた港町に住んでいて、そこから田舎の家に嫁いだ娘、すなわち自分の母や自分に会いに、よく歩いてきていた。帰りも歩いていたので、60歳を超えた身で往復30キロである。それほど体が頑健そうにも見えなかったが、自分が彼を認識した時にはすでに彼は「王子町のじいちゃん」であり、仕事も引退していたため、何をしてきた人なのかはまったく知らなかった。よく考えたら今でも知らない。
 小さい頃、祖父の家には母に連れられてよく遊びに行った。祖母は自分が生まれる前に亡くなっていた。飄々としつつも怒ると怖い人で、散歩中にすれ違った誰かをからかうような言葉を吐いたら「そげんことを言うちゃならんぞ!」と叱られた思い出がある。そんな祖父は、最後もやはり大分〜別府間を繋ぐ海辺の国道沿いを歩いていて転倒し、腰だか腿の骨を折って寝たきりになったとたん、みるみる衰弱して亡くなってしまった。彼の魂のある部分は歩くこととともにあったのかもしれないが、その理由を聞く機会はついになかった。
 祖父には3人の娘がいた。真ん中が自分の母であり、そこから2つ3つ離れた末娘が祖父と同居していた。神戸に住んでいたため自分が「神戸のおばちゃん」と呼んでいた長女だけは妹たちとずいぶん歳が離れていたが、特段それを不思議に思うこともなく接していた。
 死後に聞いたところでは、母方の祖父母はかつて満州で暮らし、2〜3人の子を設けていた。1945年8月9日のソ連による満州侵攻、そして敗戦によって満州における日本人の運命が暗転し、数多くの悲劇を生むことになった「引き揚げ」の奔流に彼らもまた巻き込まれ、その過程で子供たちを亡くした。生き残ったのは「神戸のおばちゃん」だけであった。
 その後、日本に帰って苦労の末に暮らしを取り戻し、数年経ったところで、祖父と祖母は新しい子を設ける。それが自分の母である。
 これもまた、退屈な教科書に書かれた「満州引き揚げの過程で、多くの日本人が亡くなりました」といった「よくある話」では、もはや済まされない。もしも祖父母がそのまま満州で暮らしていたら自分の母も自分も生まれていないわけで、自分が接してきた人、今でも接することができる人にその歴史が接続しており、そして、明らかに自分自身の存在にも関わっているのだ。
 すなわち、「戦争がなければ自分は存在していない」。
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 諸説はあるが日本だけでも軍人230万人と民間人80万人、全世界で5000万〜統計によっては8500万人の命が失われた第二次世界大戦は、100パーセント「絶対に起こるべき出来事ではなかった」と言える悲劇である。
 だが、そのことと、「戦争がなければ自分は存在していない」こととの折り合いはどうつければいいのだろうか。
 考えても答えなど出るわけはないのだが、ただひとつだけ言えるのは、「自分がここに存在しているのは偶然である」ということだ。あのとき祖母が実家に帰っていたら、満州引き揚げの際に祖父母の子供たちが無事だったら。自分の両親になった人間たちは無数の分岐の中でたまたま生まれ、無数の分岐の中でたまたま出会い、その結果生まれた子供が偶然生き延びてここにいる。少しでも環境が違っていたら殺人者になっていたかもしれないし、天才子役とかになっていた可能性もあるが、とにかく自分は全ての偶然の帰結としてここにいるにすぎない。
 そういう意味では、我々の誰もが無数の偶然の帰結として存在している。島原で名もなきキリシタンが信仰を捨てずに殺されていたら、あるカウボーイが先住民との戦いで死ななかったら、ナチス・ドイツがモスクワを陥落させていたら、1975年3月のある日に誰かがあの角を曲がらなかったら、あなたがその人と——誰でもいい、いま顔が思い浮かんだその人と——出会わなかったら。程度の差こそあれ世界は今あなたが見ているような形をしていないし、その意味でも今のあなたは存在していないと言っても大袈裟ではない。それらは決して、絶対的な何者かが不可避の「運命」として定めたことではない。その時それぞれの理由で人々が下した選択と、その結果が何億乗にも綾なした偶然だ。
 この世の99%の人生は文書に記されることもなく、「よくある話」として忘却と記憶の彼方へ消えていく。だが、今や誰も語ることのなくなった人がかつて発した言葉や、最後まで語られることのなかった愛や夢もまた、その人がその生のどこかで行った選択や行動の結果としてこの世界を形作る何らかのエレメントとなり、おそらくはマリンスノーのように我々の社会や認知の中に沈降し、堆積している。「語られなかったこと」は「なかったこと」ではない。それもまた、世界の一部なのだ。
 
 大文字で「歴史」と呼ばれるようなトピックと比べると、その一つひとつは実にスケールの小さい、些細な個人史に見える。しかし、それぞれの人間にとっては何より大きな意味を持つ歴史だ。自分がしばしば持ち出す固有のナラティブというのはそうしたことを指すのであって、何者かの「今、自分がここにいる根拠」の切実な表明として響くのならば、全ての個人史は等しく尊い。
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 だが、時に人はそれでは満足せず、他者に呪いをかけてしまう。
 1845年、ジャーナリストのジョン・オサリバンは、有名な「マニフェスト・ディスティニー」という論文を雑誌に寄稿した。「明白な運命」と翻訳されるこの概念は、アメリカ合衆国の膨張に伴うネイティブ・アメリカンの殺戮や土地の収奪、その後の他国への侵略を「神が白人に定めた天命である」として正当化したものだ。
「どのユダヤ人も、我々が特にユダヤ人の血と呼ぶところの数滴の血液を血管の中に隠し持っている」(アドルフ・ヒトラー『我が闘争』より)「黒人やインディアンは知能の劣った存在である」「女子受験生の一律減点は当たり前」など、とかくある種の人は自分の立ち位置を固定するために他者の「たまたまそうであったにすぎない」属性を都合のいい「明白な運命」として押し付け、その固有性を捨象したがる。もっと言えば、実はたまたま他者を抑圧できる側にいる(と思い込んでいる)だけの自分の存在や、その単なる欲望や差別心、もしくは怠惰を正当化しているにすぎない。
 しかしながら、我々はそれぞれ、自分や自分に連なる人々にとって「よくある話」で片付けられない〝特別な偶然〟の果てにいる。その過程に介在してきた全ての人々の固有の選択や行動を己の利益のために矮小化しようとするような言葉を許してはならないのだ。そして、そうした呪いを無化する根拠もまた、おそらくは自分へと連なる歴史の中で何があり、何が語られ、何が語られてこなかったのかを思うことの中にある。そうした上で自分を取り巻くあらゆる偶然の中から「運命」を定めるのは、自分自身でしかないのだ。
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 未来は常に未分化であり、「明白な運命」など存在しない。誰かのもたらす些細な偶然の刺激によって、世界は変わり続けてきた。
 過去に起きたことは変えられず、勝手に「明白な運命」を振りかざすものたちを今すぐ沈黙させることはできないとしても、未来は秒単位で変化するのだから、我々は自分の存在が誰かにとっての「よき偶然」になることを信じて、自らがやるべきだと信じたことを続ければいい。ひとつの偶然はまた別の偶然を呼び、何かが生まれ、その連鎖はいつしか自分でも知らないところで続いていく。我々が去った後も、それは消えた星が放った光のように長い時間を旅し、我々の意図とは無関係に世界を変えていく。
 何もかもを背負おうなどとは思わないでいいから、自分や自分のよしと信じているものを存在せしめた過去の些細な全てへの敬意と、その結果として存在する今の全てへの公平な祝福をもって、できるだけ遠くへ旅をしよう。その中で、それぞれの固有の歴史や、あるいは孤独すら尊重し合いながらともに生きることが、我々にはできるはずだと思っている。
 23回目と3回目の、そして73回目と7回目のお盆に。
 
 来週は遅いお盆休みをいただきます。

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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