国境線上の蟹 15

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ブラジル、その遠いエコー(3)
〜時をゆく祈りとしての十七字
 
 
 12月は南半球の真夏。海と太陽と永遠を抱くリオ・デ・ジャネイロの街で髪も乾ききらない男女がコパカバーナ海岸沿いのアトランチカ大通りから一本奥のドミンゴス・フェレイラ通りにまで水着に上着を羽織っただけの姿で現れ、ブチキン(バルのようなカジュアルな居酒屋)でビールグラスを傾ける頃、サン・パウロもまた夏を迎えている。

 南回帰線が近くをかすめるこの南半球最大の都市では、太陽は南中ではなく北中する。北半球の自然科学によって定義された夏至・冬至はその名前と日付はそのままに、真逆の季節のカレンダーに所在なく書き込まれている。すなわち、ナタウ(クリスマス)の頃に人々が迎えるのは真夏の冬至で、太陽は天頂を越えて北の空に輝く。

 日中は暑いことは暑いのだが、高地ゆえ気温は30度を下回ることも多い上、湿度もないので過ごしやすい。何につけても生を謳歌しながら浮き足立っているようなリオに比べ、サン・パウロは夏でもペースを崩すことはあまりない。雨が降ればむしろ肌寒いくらいで、クリスマス休暇で多くの店が閉まった街がうら寂しく見えるほどだ。

 空模様が怪しい昼間は「Rascal(ハスカウと読む)」というポル・キロ(=por kilo 量り売りのビュッフェ形式の店)で、この国でついついおろそかにしがちな青物の野菜やトマトなどを、時間をかけて意識的に摂るのがお決まりになっていた。キュウリ、大根、タマネギ、レタスに人参、ケール、ピーマンにインゲンなどを盛ってビネガー系のドレッシングをかけ、窓の外の風景を満たす、どこか不安になるほどぼんやりと弱々しい光を眺める。

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 こうした野菜類をブラジルに持ち込んだのは、ほとんどが海外からの移民である。1822年9月7日にポルトガルから独立した後も内乱がしばらく続いたこの国では、没落した元貴族たちが家屋敷を使ってささやかな農園を営むことはあったらしいが、産業と呼べるほどの規模ではなく、また品種も植民地時代から栽培されている非常に未発達なものであったという。

 そこに19世紀末の初期移民——ドイツ人たちがジャガイモを、イタリア人たちがトマトを持ち込んだ。食にうるさいイタリア人はその後、レタスやキャベツ、ズッキーニ、人参、パセリにビーツなど、あらゆる野菜をブラジルに導入。品種もヨーロッパで改良された最新のものであったため瞬く間に市場規模も拡大し、それまで概ね肉と豆の国だったブラジル全土に、1930年代までには広まっていった。

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 1908年に笠戸丸で到着した日本移民たちの中にも、コロノ(入植地)での契約労働を終えた後、米やジャガイモなどの栽培に挑戦するものがいた。

〈1913年初め、鈴木貞次郎と季造兄弟が、サン・パウロ市内にくすぶっていた日本人青年5人を集め、コチア市カペーラ・ヴェーリャ地区でタマネギ栽培をはじめた。やせ地で作柄が悪く失敗。同年10月ころ、鈴木季造が青年(人数不明、2人または3人と推測される)をつれて、同じコチア市のモイーニョ・ヴェーリョへ移転。ジャガイモ栽培をはじめる〉(論文『サン・パウロ近郊における日本人野菜生産販売概史』中野順夫 2017 サンパウロ人文科学研究所)

 当初はこうした、コロノ労働を終えて身の振り方を模索するものたちの散発的な就農が続いていたが、1920年代にトマト栽培が盛んになって組合が結成され、さらにサン・パウロの都市化とともにイタリア系移民が都市に流入するようになると、食文化の多様化によるニーズの増加から日系人の農家や、市場における仲買人なども増えていくことになった。
 
 その後、現在に至るまで日系の農業従事者や日系企業によって様々な野菜が生産されているが、ブラジルの人々にも馴染み深く、また興味深い例として「NINJA」というものがある。スーパーや市場などでも、よく「NINJA」とだけ書かれた商品が置かれているのだが、これは何かと言えば、ブロッコリーのことなのだ。
 
 ブラジルでは肉料理のプレートなどの付け合わせに、ブロッコリーをみじん切りにしてバターソテーし、それでライスを炒めたブロッコリーライスが出ることがよくある。しかし、多くの場合、ここで使われるブロッコリーは日本で我々が見るようなものとは少々違い、我々がメインで食べるモコモコした花の部分はもっと小さく、茎や葉の分量が多い。見た目は菜の花にそっくりだが、そもそもブロッコリーはアブラナ科の植物なので、より元々の形に近いものだと言える。

 具体的な時期は不明だが、日本でも明治期から栽培されていたこのブロッコリーをブラジルでも栽培し始めた日系人がおり、なんとか日本で一般的に見るような形状のものを作ろうという品種改良の努力が重ねられてきたという。現地に進出した種苗会社も様々な取り組みを行い、最終的には「サカタのタネ」ブラジル支社が開発した一品種名「NINJA」が、日本では馴染み深い姿ながらブラジル品種とはあまりに見た目が違うのでそのまま「NINJA」という名前で浸透したという。現在は必ずしも「サカタのタネ」の品種でなくとも、サン・パウロ周辺で店頭に並んでいるあの形のものはほとんど「NINJA」ないしは「NINJA broccoli」などと書かれている。だが、どうやらリオのほうでは「NINJA」と言っても通じないようなので、やはり日系文化に馴染みの深いエリアならではなのだろうか。 

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 夏の終わりの4月頃になると、サン・パウロのスーパーや市場には「CAQUI」という果物も並ぶ。我々日本人に非常に馴染みのある、柿だ。発音も普通に「カキ」。この甘柿も、日本移民が持ち込んだ食べ物である。現在は技術の発達によってシーズン問わず食べられる野菜や果物も多い中、4月の「CAQUI」は今でも秋ならではの食べ物として、現地で親しまれている。ちなみに、Cの字をとった「aqui」は、ポルトガル語で「ここ」を表す言葉である。この場所の、秋。

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柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(正岡子規)

 この俳句を子規が詠んだのは、1895年。秋の季語である「柿」と古都・奈良の風情が配合された名句として今では世界的に受容されており、海外において「Haiku」の代表例としてもしばしば訳される。

As I eat a persimmon
The bell starts ringing
At Horyuji Temple

 これは「柿くへば」の英訳として紹介されている一例。英語の「Haiku」には日本の俳句における「五・七・五」のような定型があるわけでもないため、いわば「世界一短い詩」とでもいうべき受容のされ方をしている。コロンビア大学教授で日本文学の研究者としても著名なドナルド・キーンは、それでいて〈大事なのは、不必要なこと、詩的な言葉がひとつもないこと〉(『日本の俳句はなぜ世界文学なのか』ツベタナ・クリステワ共著 2014 弦書房)であると指摘する。不要な修辞やもって回った美辞麗句を排し、必要な要素だけで構成された短詩が「Haiku」である、と解釈すればよいだろうか。

 こうした「Haiku」のミニマリズムに惹かれた愛好者は今や世界中におり、小学校の詩的教育プログラムなどにも取り入れられるなどして、日本の外でも各国語で親しまれている。日本における俳句とはまた別の進化を遂げた文化の伝播の好例であり、それはこれからも発展していくだろう。

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 一方、そうではない形で、日本の外において詠まれることになった俳句もある。世界各地に渡った日系移民たちによる俳句である。

この汽車の夜明けイペーの野とならん(佐藤念腹)

 イペーはブラジルを代表する落葉高木である。赤や紫、黄色などの花を咲かせる種類のものがあるが、特に冬の終わりである9月頃に黄色い花をつけるものは「イペー・アマレーロ(黄色いイペー)」と呼ばれ、日本で言えばちょうど桜のような象徴的な存在として扱われている。

 夜汽車に乗って行き着く先に朝日に輝く一面のイペーの風景を想像させる情景描写に唸るとともに、日本を離れ、ブラジルという国で人生を送っていく人々の不安や孤独と、その先の光明を希求する心持ちをも感じる、個人的に好きな句だ。詠者は、ブラジル俳句界を代表する俳人・佐藤念腹(1898〜1979)。日本にいる頃から高浜虚子の主宰する俳誌『ホトトギス』に投稿を始め、1927年にブラジルに渡航して前々回紹介したアリアンサ入植地に居を構えてからも代表作とも言える句を『ホトトギス』巻頭句に幾度となく送り込んだ、いわば虚子の高弟とも言える人物である。

雷や四方の樹海の子雷(佐藤念腹)

 見渡す限りの大密林、広すぎる空に見たこともないような大きな雷が閃き、そしてこだまが樹海に跳ね返る。この場面を「子雷」と描写した彼の力を、虚子、高野素十といった評者は、一様に驚きと賞賛をもって迎えた。

 念腹以前のブラジル俳句は移民一世たちの指導者でもあった上塚周平(飄骨)らを中心とする一部知識人中心のもので、短歌との共存や諸派の連立など、比較的ゆるい状況であった。念腹も最初はそれを良しとしたが、次第に「客観写生」「花鳥諷詠」という『ホトトギス』派の原理を厳しく追求し、その流れから離脱。代わりに、サン・パウロはもちろんアマゾンの奥地からアルゼンチンとの国境地帯に至るまで900回以上も行脚して各地の日系一世や二世たちに生活の中から詠まれるべき俳句の心を説き、現在の日系社会における俳句の興隆の基礎を作った。

珈琲の花あかりより出でし月(念腹)

 俳句は、日本語新聞への投稿という形で日々労働に明け暮れる日系移民たちの娯楽にもなった。それは現在に至るまでも続いており、現地日本語新聞の「ニッケイ新聞」ではつい最近まで毎週投稿俳句の選評を行なっていたし、虚子忌や念腹忌といった俳壇の偉人たちの命日にブラジル全国で開かれる俳句大会の記事も頻繁に掲載される。各地に『朝蔭』『蜂鳥』といった念腹の系譜に連なる句誌が存在し、各地で上級者による選評を伴った句会も行われている。日本の俳句結社のブラジル支部なども多数存在するので、日本の俳壇との関わりも切れてはいない。

 また、第二次大戦後の混乱期、これは次回に書くがある深刻な分断を経験した後で「もう日本には帰れない」と心を決めつつあった移民社会にとって、俳句は遠くなりゆく祖国に対する強烈な郷愁を共有し、移民社会を再びひとつにしていくための祈りをも込めた表現媒体となった。ブラジル日系俳句におけるひとつの大きな特徴は、こうした日本へのサウダージや、移民社会における苦闘の歴史といった主題である。

母の日やブラジル浪曲語り次ぎ(高野南月歩)
日本語で怒られてゐる雲の峰(富重かずま)
夜逃せし移民思ふや枯野星(上塚瓢骨)
排日の一節カルナバルの歌(大江木舟)
パイネイラ墓碑黒々と日本文字(大野拓夫)

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 もうひとつの特徴は、やはりブラジルならではの季語だろう。季節の変化に乏しく、あったとしても日本とは真逆のブラジルで俳句を詠むにおいて、日本の季語の聖典である歳時記に添える部分は従いつつも、どうしてもそれに沿わないものや表現できない句は増えていくため、早くから念腹らによって「ブラジルにおける季語とはどのようなものか」の議論はなされており、それを体系化する必要に迫られていた。生前から季語を分類した「季寄せ」をいくつか作成し、その体系化に努めようとしているが、その基本的な思想は、次に引用する2つの文章が物語っている。

〈暮らしのリズムの土着化が進んで初めて季節が感じられる。暗に述べているのは、ワニや椰子のような新来者にも感知できるブラジルらしさよりも、住み慣れて沁みてくる季節感を大切にせよということだ〉

〈移民にとって俳句作りはいうなれば、見馴れないものを見馴れたものにすること、異郷の風物を自分の言葉に咀嚼することである。ブラジルに渡った俳句人が発見したのは、俳句界に伝承された季節感によって、新しい風土を解釈する方法だった。だから彼らが「発見」した四季は、必ずしもブラジル人に理解されるものではなかっただろう〉(ともに『日系ブラジル移民文学(2)——日本語の長い旅』細川周平 2013 みすず書房)

 念腹は1979年、そうしたブラジル季語の体系化の完成を待たずに亡くなったが、実弟の佐藤牛童子がその同人と事業を引き継ぎ、作業開始から四十年という時間の果てに、ようやく2006年に『ブラジル歳時記』が完成した。そのほんの一部を紹介すると、年の頭から、

「残る燕」(秋=渡らない燕がいる地域があるため)
「珈琲熟る」(秋=コーヒーの収穫が近い)
「胡椒摘む」(冬=アマゾン日系人の間では胡椒栽培が盛ん)
「転耕」(冬=契約期間を終えた農民が冬の間に違うのうちに移る)
「煙曇(けむぐもり)」(春=農地づくりのための焼畑の煙が立ち込めている様)
「黒母の日」(春=9月28日はブラジル生まれの奴隷の子の自由を認めた記念日)
「タイヤ冷す」(夏=長距離を走る車がタイヤを冷やすために日陰で休むこと)
「木肌を脱ぐ」(夏=ユーカリなどの幹の表皮が裂け、新たな木肌が見える)
 
 こうした異国の生活を表象する言葉に、「サビアー」「シュラスコ」「マロンバ」「ピラルクー」「金鳳樹」「ジャカランダ」「アバカシー」といった植物や動物など、ブラジルならではの文物が加わり、時候、天文、地理、人事などを四季の順に分類した歳時記に収録されている季語の数は、約2500にもなるという。農業に関する言葉が多いのは、それだけ俳句を詠む世代に農業従事者・経験者が多かったということでもある。また、あまりにも気候条件が違うアマゾンでは「夏」を5か月分も取った『アマゾン季寄せ』が存在し、見出し語も「雨季曇り」「雨季の闇」「雨季の宿」など、「雨季の○○」がそれ全体でひとつの季語として成立しているという特殊な状況もある。

 ともあれ、季節のおおざっぱな異郷で、110年という長い時間に移民たちが見出してきた生活実感からくる「四季」の概念は、生活をドライブさせるひとつの区切りでもあると同時に、故国のように明確なものでなくても、時の移ろいの中に四季を見出す己そのものに「日本人である」という感覚を思い起こさせようとする切実さの中から生まれてきたものだ。乾ききった赤土の荒野で、年中鬱蒼と続く密林で日々過酷な労働に勤しむうちにどこかで臨界点を迎えそうになる己のうちの「日本」をなんとかつなぎとめてきたその思いの、蓄積。

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 本稿を書くにあたって、俳句界の仕組みについてはあまりに無知なため、現代俳句作家の佐藤文香さんに色々とお話を伺った。句のつくりについても聞く中で、特に印象深かったのは「季語とは、Wikipediaで、青文字でリンクが貼られた言葉のようなもの」という話だ。例えば「」という季語があった場合、それを見た多くの人々が、これまでに和歌や文学、映像などによって日本語の言語空間の中に膨大に現れてきた表象としての「桜」へとリンクすることができる。すなわち、詠み手としてはそうした膨大な参照元が存在する言葉を用いるのだという緊張感、そしてそれを主題とする作品群の最後尾に座することになるのだという価値をゆめゆめ忘れてはならない。と同時に、読者の中にある「桜」のイメージがどんな参照元にリンクしているのかまではわからずとも、ある程度は同じ共通理解に至ることができるはずだという信頼のもとに用いられ得るものでもあるということだろう。

 ある言葉が発される時、それを挟んで向かい合う二者は、その言葉を媒介として己の中の参照元まで降りてゆく。同じ言語・文化の空間にいるほどそこで生起される感情も近いものになり得るだろうという信頼が根底にあるからこそ、言葉は発される。あるいは「本当にそうなのだろうか」という問いや「そうであってほしい」という祈りによって発される言葉もある。
 
 日系移民一世や二世といった高齢層がメインになりつつあるブラジル俳句の詠み手たちが作る句、またはその行為は、おそらくその全てをはらんできた。日本を離れてもまだこうして四季を見出し、言葉を紡ぐ我々は、まだ日本と接続されているはずだ。この密林で、故国とはまるで違う文物に囲まれ、違う空気を吸いながら、まだ自分は日本人だと言えるのか。「日本の心」を持っている限りそうであるはずで、そうであってほしい。しかし。今でも。あるいは。今では。それでも。

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 俳句の源流である日本においては、前出の佐藤さんや、その下の世代にも若い俳人が次々と出てきており、現代俳句の可能性はさらに広がりを見せつつある。

柚子の花君に目があり見開かれ
半月や未来のやうにスニーカー
(ともに『君に目があり見開かれ』佐藤文香 2014 港の人)

 そうかと思えば2013年、102歳の時に上梓した句集『カルナヴァル』で不気味なほどに艶かしい夜と光と生の横溢を描いて見せた金原まさ子(17年、106歳で没)のような人もいる。

どしゃ降りや身ぐるみ脱いで白百合は
ああみんなわかものなのだ天の川
(ともに『カルナヴァル』金原まさ子 2013 草思社)

 これらの句にある、目の前の事象にシャッターを切っているようでいて読者の視覚聴覚を総動員する瞬間と永遠の交合。「現代性」には年齢も、ましてやモチーフの目新しさも関係ないことを十分に知らしめてくれるだけの試行錯誤と蓄積を、日本の俳句は重ねてきた。

 第二次大戦に敗れ、日本が東南アジアや南洋といった南半球の各地から去った後、日本の俳壇もまた、ブラジルをはじめとする「熱帯季語」の研究に興味を失った。ごくわずかな有志だけがブラジル俳句界との交流を続け、佐藤念腹ら現地の俳人たちをバックアップしてきたが、彼らはほぼ鬼籍に入りつつある。後に残る、古式に則った生活俳句をつづり、自分や仲間の句を、そしてそのうちにある「日本」を書き残しておこうとする日系俳人たちの数は遅かれ早かれ減ってゆく。例えばハワイなどの俳壇では定型を軽やかに無視した自由律俳句が早くから登場し、独自の発展を遂げてきたのと比べてもブラジル日系人の句は古式ゆかしすぎ、多民族への同化が進んだ下の世代には受け継がれていない。佐藤念腹がブラジル俳句界に残した圧倒的に大きな「功」の裏側にある「罪」というべきか。
 一方では英語の「Haiku」のようにブラジルで独自の進化を遂げた「Haikai(もちろん〝俳諧〟からきている)」が盛んになりつつあることもあり、おそらく現在の日本式俳句は、いずれ絶えるのかもしれない。密林に、都市の路地裏に、膨大に残された五・七・五の十七字を墓碑銘として。

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 1922年、オーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケは知人女性の娘の死に際し、ギリシャ神話で八つ裂きにされ海に流されたオルフォイス(オルフェウス)が、その後たどり着く先々で様々なものに変化しながら確かにこの世界に存在しているという発想を得、常に変化し揺らぎながら続いてゆく森羅万象と、その繋がりを讃える55の詩篇「オルフォイスによせるソネット」を短期間で書き上げた。

〈記念の墓碑は建てぬがよい。ただ年々にバラを
 彼のために咲かせるだけで十分だ。
 なぜならそれはオルフォイスだから。あれもこれも
 オルフォイスの変容なのだから〉
(「オルフォイスによせるソネット」より——『ゲオルゲとリルケの研究』手塚富雄 1960 岩波書店)

 時代を問わず、優れた俳句作品は文字数が極めて少ない中で回りくどい修辞を用いず本質を射抜くための射程を持っており、勢い視点としては俯瞰的であるものが多い。日本の現代俳句はそれを各々の方法で研鑽してきたし、そうした作品としての完成度を第一義に捉えるならば、現在新聞に投稿を続ける多くのブラジル日系移民たちの俳句は郷愁や己の生活上の心情を乗せすぎているがゆえに、作品価値が高いとは言い難いものがほとんどだろう。

 だが、個人史というものは外的な「価値」によってのみ測られるものではない。やがて歴史の彼方に消えゆくかもしれないブラジル日系俳句だが、しかし、そこには確かな「祈りの詩学」とでもいうべきものが存在しており、何より、それはまだ年々に咲くバラのような「生者の語り」である。言葉を生かし、言葉によって生かされるものがいる限り、それは何かのきっかけでまた違う彼方に運ばれ、誰かと出会い、その中に生き続けて何かを導くこともあるのかもしれない。その響きのゆく先に、もう少し耳を澄ませて考えていたいと思う。

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。

2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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