国境線上の蟹 22

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私たちは個人的であり続けなければならない
 
 
 1857年、カーニバルが行われる〝バラの月曜日〟の朝、市議会の関係者や一般客ですでに大賑わいだったミュンヘンの肉屋兼ビアホール「Zum Ewigen Licht」の主人・ヨーゼフは、ソーセージが瞬く間に売り切れてしまい、補充がしばらく難しいということに気づいた。腸詰めに使う羊の腸のストックがもうなかったのだ。
 思案した挙句、彼が思いついたのは、仔牛の肉を羊の腸ではなく、豚の腸に詰めることだった。豚の腸は羊に比べて太いので、ソーセージも自然と太くなる。これを焼いて提供するのにはかなり時間がかかるうえ熱で皮が裂けかねないと考えたヨーゼフは、ソーセージを熱湯で茹で、さっと大きな湯に浸して供することを思いついた。
 出されたソーセージは発色をよくするための加工もなされていなかったため、グレーがかった生白いものだったが、厚めの皮をナイフで切ると、まるで卵焼きか、日本のはんぺんのようにふわふわとした食感の肉が現れた。客たちはこの未知の食感に驚き、そして口々に美味を褒め称えた。今ではすっかりミュンヘン名物となった白いソーセージ「ヴァイスヴルスト」が誕生した瞬間である。
 ヴァイスヴルストは現在でもミュンヘナーの朝食の定番となっており、非常に傷みやすいため「正午の鐘を聞かせてはならない」と言われるほどで、これにプレッツェルと、そしてビールという組み合わせを平日の朝から食する老若男女の姿が、ミュンヘンでは日常の風景となっているという。発祥の店となった「Zum Ewigen Licht」も、名前こそ変わってはいるものの健在だ。先日のミュンヘン滞在でこの店に初めて訪れたが、確かに朝からうまそうにソーセージを平らげ、ビールを飲みながら朝の光を楽しむ老夫婦やサラリーマンで賑わっていた。
 加工の容易さの割にはドイツ全土においてもミュンヘンをはじめとするバイエルン一帯でしか食べられないこのヴァイスヴルストだが、実はごくわずかに、ドイツを飛び出して海外にも根付いている。それが、大西洋を挟んだ南半球のブラジルである。

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 本連載では、ブラジルに移民として渡った日本人のことを何回かにわたって集中的に取り上げてきた。ブラジルほど大勢力として根付いてはいないものの、アメリカ合衆国を中心とする北アメリカにも、多くの日系人が現在も住んでいる。だが、この南北アメリカ——かつて〝新大陸〟と呼ばれた広大無辺の土地に、常に「二番手」として移民し続けてきたのは、実はドイツ人、そしてイタリア人であるということは言っておかなければならない。
 アメリカにおいてはイギリス人やフランス人、ブラジルにはポルトガル人、アルゼンチンやメキシコにはスペイン人といった、明確な侵略の意図をもってやってきた宗主たちの次(正確には、彼らが無理やり連れてきたアフリカ人たちのさらに次)に〝新大陸〟に足を踏み入れたのは、山のようなドイツ人やイタリア人——西欧世界における植民地争奪戦に遅れをとった〝二等ヨーロッパ〟の貧乏人の群れだった。
 1820年代〜30年代のヨーロッパは、軍事の天才にして英雄的な誇大妄想狂であるナポレオン・ボナパルトの敗亡後に敷かれたウィーン体制によって支配されていた。これはひとことで言えば、ナポレオン登場以前の守旧的な体制、少数の貴族が権謀術数と政略結婚によって支配するヨーロッパへの回帰を目指す体制に他ならない。そして、この頃、のちにヨーロッパの強国となるドイツは小さな君主制国家の集まりとして連邦を結成したばかりでその後の隆盛は影も形もなく、イタリアは単なるバラバラの小国に分かれており、ようやく統一の機運が高まり始めるという段階だった。社会体制は不安定なままで、要するに彼らは弱く、貧しかった。
 ブラジルに渡った〝二等ヨーロッパ〟の移民たちは往々にして、のちに日本移民が担ったような、コーヒー農園などでの単純労働者(コロノ)として各地に割り当てられた。その待遇は、日本人と同じく奴隷に近いようなものであった。入植地なども初期から整備されたものの、特にブラジルの独立直後で社会も混乱していた時期に到着してしまった第一陣のドイツ移民の村などは、約束していた政府の援助も二年目で早々と途絶えてしまい、軒並み壊滅していった。
 そうした苦難を経ながらも、ドイツやイタリアからの移民は増え続けた。両国の政治体制が安定せず揺れ動き続けたこともあり、佐藤常藏が『ブラジル移民史』(1964 帝国書院)で引用したブラジル連邦移民局の統計によれば、1824年から1956年までにブラジル全土に導入されたドイツ移民は251,615人。年度別の最高は1924年の22,168人 である。それは、同年度の外国移民導入総数の23%にものぼった。同じくイタリア人移民も、1836年からの百年間でおよそ150万人がブラジルに渡っている。彼らは徐々に大集団となり、生活の基盤を築き、そして街を作った。
 サン・パウロ中心街の南部・地下鉄ブルックリン駅の近くにあるレストラン「Zur Alten Mühle」は、見るからに「質実剛健」といった感じの板張りの内装と、今でもそこここで聞こえる巻き舌の響きが、いかにもという感じの老舗ドイツ料理店だ。そして、ここではバイエルンのヴァイスヴルストが食べられる。というか、ミュンヘンから日本に帰ってから、もう何年も前、確かにこの店で「牛乳を混ぜた、焼かずに茹でて食べる白いソーセージ」を食べたことを思い出したといったほうが正しい。時間帯がどう考えてもディナーだった気はするが、特段痛んでいた気もしないのでそのあたりはご愛敬だろう。

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 ドイツ移民たちにとって、気候の厳しい北部地域はなかなか成功が難しい場所だったものの、気候の穏やかな南部では比較的スムーズに生活を築けた移民も多かった。1850年、ドイツから渡ってきたヘルマン・オットー・ブルメナウ博士は、随行してきた17人のドイツ移民とともに自らの名を冠した「ブルメナウ」という街を建設した。後にしてきたドイツをパラノイアックに再現したかのように建物も街路も「ドイツ風」の建物で埋め尽くされたこの街は、市域の人口が30万人に近くなった現在も、90%以上がゲルマン系白人の住民で占められている。
 この街の最大の観光資源が、ドイツのビール祭りとして有名な「オクトーバー・フェスト」である。今や日本でも(オクトーバーでもないのに)行われるイベントとして定着した感はあるが、ここブルメナウのものはその規模が違う。「ブラジル時報」2018年1月号の戸高久光氏の記事によると、2016年のオクトーバー・フェストでは、53.5万人の観客が66.3万リットルの生ビールを飲んだという。これは、1810年にこの祭りが生まれたミュンヘンのスケールに次ぐ、世界第2位の消費量だったという(ミュンヘンでは700万人が 700万リットルを飲んだそうで、桁が違うが)。
 この街は、よくオカルト界隈で「ナチス第四帝国の本拠地だった」などと言われたりする。
 1960年、第二次大戦中にナチス・ドイツでユダヤ人の「計画的絶滅」を指揮した中心人物であるアドルフ・アイヒマン中佐がアルゼンチンのブエノスアイレスに潜伏し、「リカルド・クレメント」という名前でウサギの飼育員などをしながら暮らしているのを、戦後世界中で「ナチ狩り」を続けていたイスラエルの情報機関・モサドが発見した。彼はアルゼンチン政府の承認もないままモサドにほぼ拉致に近い形で強制的にイスラエルに連行されると、「人道に対する罪」で裁判にかけられ、1962年、死刑制度のないイスラエルで唯一絞首刑に処された人物となった。
 このアイヒマンのように、ナチス・ドイツの要人や党員が、戦後、ドイツ系住民の多いブラジルやアルゼンチンに身分を隠して多数亡命したことは事実である。特にアルゼンチンでは、独裁者ファン・ペロンが親ナチであったため、科学技術の取得などの目的もあって非公式に相当数の人物をかくまったと言われている。アウシュヴィッツで残虐な人体実験を多数行った医師ヨーゼフ・メンゲレもアルゼンチンを通じて南米に逃亡し、最後は1979年、ブラジルで海水浴中に心臓発作で死亡している。
 こうした幹部クラスに限らず、南米とナチスの関係を示すエピソードは実際に存在するし、ドイツ系移民の多さを理由にヒトラーがブラジルへの勢力拡大を目論んでいたことも明らかになっている。だが、そうした事実関係以上に、一部の陰謀論者やオカルト愛好者たちの中では「ヒトラーはブラジルに亡命して95歳まで生きた」「ブラジルの銀行にナチス再興のための約5億円の財宝が眠っている」「南極の地下にヒトラーの研究していたUFOが眠っている」などという噂が常に流れ、ネットのフェイクニュースとして、多くは単なる与太話として消費されるために流通している。
 2014年には、ブルメナウのすぐ近くの町で、自宅のプールの底にデカデカとハーケンクロイツを描いている民家が見つかった。警察発表によって、家主はナチズムとは関係ない人物であるとされているが、では何の意図かと言われると不明ではあるし、ともかくこうした話や、何年かに一度流れる「ナチスの隠れ家を発見した」といったニュースがナチス存続説をネタ的に補強してきた側面もある。
 
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 ネタ的に消費しているだけなら、まだ罪はないかもしれない。だが、我々は折にふれ、ナチスを支持し、熱狂したのが、多くは「善良な普通の人々」であったことを思い出さなければならないし、デマや流言飛語によって彼らがナチスに踊らされていったことについては、きちんと考えなければならない。自ら放火した国会議事堂に「火を放ったのは共産党だ」と一斉摘発し、「ユダヤ人はセックスと金銭にしか興味がなく、次から次へと永遠に寄生先を探してさまよい、美しいアーリア人の社会を侵食する侵入する害虫である」と主張する映画(『永遠のユダヤ人』1940 フリッツ・ヒップラー監督)を作ることでその権力を補強したナチス・ドイツは、これからガス室で殺すユダヤ人たちにさえも「家族に向けて『収容所は安全で、清潔で、私たちは快適に暮らしています』という手紙を書けば解放する」と言い、そしてボタンを押したのだ。
 2018年現在、インターネットには「ホロコーストとかいう史上最大の作り話」「ヒトラー氏は共産主義者の陰謀によって貶められている」といった言説を始め、ありとあらゆるフェイクニュースが飛び交っている。それ以外にも、目立つ見出しのほとんどが「あいつらは嘘を言っている」「正しいのは自分である」「こっちの水は甘いぞ」「自分のようにすれば生き残れるぞ」といった、明らかに他者を排斥したり動員したりするための「力学の言葉」だ。それは今や政治の現場にも再び堂々と、恥じるそぶりもなく登場し、自分に都合のいいように歴史に作用しようとする目論見に使われさえする。短期的な目的のために大きな言葉で個人を押し流し、気にくわないものを敵認定する「力学の言葉」。
 私たちは何一つ、歴史から学ばない。

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 アメリカにおいても、ブラジルよりもう少し前からドイツ人、イタリア人ともにかなりの数が移民している。イタリア移民の歴史に関しては第3章「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ピッツァ」をご参照いただきたい。(こちらの場合はイギリス人と同じくゲルマン系人種であるドイツ移民のほうが社会的地位は上になったようだが、スペイン人やポルトガル人が支配階級である南米ではどっちもどっちである)
 農場や鉱山での肉体労働と移動のたゆまぬ繰り返しの中でアメリカを歩き、すべての余剰時間を読書と思索に費やしながら『波止場日記』『大衆運動』など数々の名著を残した〝沖仲仕の哲学者〟エリック・ホッファーの自伝(『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』中本義彦訳、2002 作品社)に、あるイタリア人労働者との印象的な出会いがある。1936年、サン・ホアキン・ヴァレーの砂金採掘の現場で相棒になった無学なイタリア人の小男・マリオの類まれなる料理の才能に感服したホッファーは、彼の午後の労働を肩代わりするのと引き換えに彼を自由に市場に行かせ、その日の買い物で毎晩とびきりの料理を作ってもらい、自分はモンテーニュやイタリア文明の話を聞かせるという生活を送っていた。彼らは数週間の間お互い充足していたが、ある事件を境に、その蜜月は終わる。
〈ある晩、私はムッソリーニの話をした。なぜ高貴なイタリア国民が野卑で頭の悪いペテン師にしてやられたのか不思議だ、と。その途端、何か恐ろしいことが起こったことに気づいた。マリオは顔をこわばらせていた。そして急に立ち上がり、荷物をまとめて去っていった。それ以来、二度と私とは口を利かなかった〉
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 ムッソリーニとは、言わずと知れたベニート・ムッソリーニ。1920年代〜1945年までイタリア・国家ファシスト党のトップとして強権的な独裁体制を敷き「ファシズム」の語源ともなった人物である。晩年にナチス・ドイツと同盟を結んだことからナチズムと同一視されがちではあるが、粛清や虐殺を好まず、ヒトラーのユダヤ人絶滅計画を公然と批判したり、レーニンやチャーチル、フランクリン・ルーズヴェルトらからも賞賛された知性の持ち主でもあったことから現在でもイタリア国内に彼の信奉者は多く、ヒトラーのように「絶対悪」とまではされていない雰囲気がある。それどころか、彼のファシスト党の流れを組む政党は現在でも社会主義政党として連立与党に閣僚を出している。
 
 そして、彼はイタリア統一の過程で敗者側に回ってしまい、その後貧困に苦しむことになったナポリなどをはじめとする南部諸州の救済に心を砕いた人物でもある。独裁者とはいえこうした人物像にも彼の人気の秘密があるのだが、第3章で述べたように、アメリカに渡った多くのイタリア移民が貧しい南部の出身者であることを考えると、このマリオもそうであったことは想像に難くない。ホッファーは彼の固有の歴史における〝地雷〟を踏んでしまったことになるが、それを一切の感情——それこそムッソリーニを罵ったときのような——を交えず淡々と記述するところに、彼の知的誠実さを感じもする。
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 移民の歴史、いや、有史以来絶え間なく続いてきた人の移動の歴史は、強制されたものを除き、大志や明確な目的意識を抱いてのものも含め、大部分は常に何らかの理由で「もうここにはいられない」と考え、おぼろげな未来を求めて旅立ったものたちの魂の運動の歴史でもある。そして、その多くは弱者や敗者、追放された者にはぐれ者といった、記録され記号化され得ないアノニマスな個々の人生の歴史だ。
 1990年代後半、混迷を極めたバルカン半島情勢の中で故郷アルバニアを脱出し、アドリア海をゴムボートで渡ってイタリアに流入してゆく難民たちの姿を描いた『偉大なる時のモザイク』(栗原俊秀訳、2016 未知谷)の著者カルミネ・アバーテ——自身もまた、数百年前にイタリア南部に移住したアルバニア人(アルバレシュ)の子孫である——は、その自伝的作品『帰郷の祭り』(栗原俊秀訳、2015 未知谷)のあとがきにおいて、ほとんど悲憤慷慨といった調子でこう記している。
〈故郷を捨て、移住を余儀なくされることの怒りを、作品に書こうと決めていました。移住とは、何百万というイタリア人が共有してきた経験です。その中には私の祖父や父、多くの親戚、ほとんどすべての幼馴染が含まれています〉
 同書は、ドイツに出稼ぎに出た父を持つアバーテと同様の境遇の少年がイタリア南部の故郷で父親の帰りを待つ時間と、もしかしたら二度と帰れないかもしれないその地にいまも溢れているであろう光と風の情景を、父親自身の視線で語った名著である。この作品の中では、故郷の土地はどこまでも善良で親密な、そしてあまりにも甘美で美しい呪いのように、父親の心中に現れる。
 なぜ、あの場所を離れなければならなかったのか。なぜ、あのままでいられなかったのか。帰るべきどこかや誰かを喪失した孤独者たちは、そうやっていつも己に問いかけながら、過去とともに未来への漸進を続ける。大文字の歴史が記録し得ないその揺らぎや迷いを、しかし、彼らが表象として残してきた/残していく言葉はわずかに伝えてくれる。
 そうした揺らぎに隠されたものは、本人にとっては非常に切実であろうが他者にとっては決定的に人ごとであるがゆえに誰も「動員」することなく、よって歴史や社会になかなか作用もし得ない。しかし、だからこそ、そこに信じるべきものが宿り得るのではないか。誰かを貶めてやろうという悪意でも、仮想敵を作って自らのプレゼンスを高めようという欲望でもなく、ただ「発する」という行為によってその人間を極私的に救うための言葉。
 それが客観的な事実に照らして一切のバイアスを含まないものかどうか、もしかしたら社会通念上善か悪かをもおくとしても、自らのため、もしくはその極めて近しい存在のためだけに吐かれた言葉の中には、一定の真実がある。私たちは誰もが個人的な存在であるからこそ、動員されるのではなく自発的に誰かの個人史を尊重することができるのだ。その力を磨くよすがとして、私たちは個人的であり続け、誰かの精神の内奥から溢れ出した個人的な言葉を聞き続けなければならない。

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 そう考える自分としては、自分自身のやっていることも含めて公に向けて何かを発し、誰かに影響を与え、他者に作用しようとすることは、自ら言葉によって他者の固有性を無視し、都合のいい記号として切り分けることに加担しかねない、言ってしまえばすべからく下品で傲慢なことであるという思いがある。極端に厳しく言うならば、何かを公に発していいのはその下品さや傲慢さを自覚し、自ら問うことを続けながら自己矛盾の中で思い悩むことを厭わないもののみであるとも考えている。
 2018年10月28日、ブラジルの大統領選に勝利し2019年1月1日より就任する予定の第38代大統領ジャイール・ボウソナロはドイツ・イタリアにそれぞれ先祖を持つヨーロッパ移民の息子だが、「ブラジルのトランプ」とも言われ、そのセクシズムやミソジニー(女性嫌悪)やホモフォビア(同性愛嫌悪)、そして先住民や黒人に対するあらゆる差別的な発言が物議を醸し、また、それゆえに支持を集めた人物である。自分自身の両親の来歴からさえ学ばない彼は、2017年の演説で「少数者は多数者に合わせなければならない」と堂々と宣言している。
 あらゆる肌の色が混交し、公には人種差別の極めて少ないとされるブラジルでさえ、世界中であらゆる人々を記号として排斥したり故郷から引きはがしてきた「力学の言葉」が自ら問うことを知らぬものによって公に発せられ、力を持つようになったことには、正直戸惑いを覚えざるを得ない。だが、そうした言葉に引き寄せられた少なからぬ人々の抱える切実さについても、本来は耳を澄ますべきなのだろうとも思う。それもまた、過去のある点を振り返って「あのままでいたかった」と考える喪失者の声なのかもしれないのだから。社会的な悪というものがあるとすれば、それは常に誰かの固有の声を記号性の中に回収し、利用しようとする側にいるのだ。
 私たちは何一つ、歴史から学ばない。のだろうか。

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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