国境線上の蟹 26

インタールード
〜神戸のこと(1)
 
 
 自分の伯父は兵庫県警の刑事だった。今は鬼籍に入ってしまったが、現役生活の終盤だった頃の彼は、気のいい人柄とは裏腹に、ヤクザ顔負けの実にいかつい風貌であった。

 神戸の大学に入学し、ひとり暮らしを始めるにあたって久方ぶりに家に遊びに行った際、自分の下宿の住所——「中学生が大人をカツアゲする街」と言われるくらいで、お世辞にも治安のいいとされる地域ではなかった——を聞くや否や何やら細かく色分けがなされた(おそらく部外秘か、あるいはお手製の)市内の地図を持ち出してきて、「このへんと、このへんはあんまり近づいたらあかんで」というような指南をしてくれたのを鮮明に覚えている。その地図がいま手元にあったらさぞかし興味深かったろうと思うが、おそらく退職して神戸の家を整理する際に捨ててしまっただろう。

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 神戸は件の伯父をはじめとする母方の親戚縁者が住んでいたこともあり、馴染みのある場所だ。特に幼少期はたびたび実家のある大分県から夜行フェリーに乗っていき、従兄妹たちと湊川や長田といった下町の街角で遊んだ記憶が残っている。

 1995年1月17日の朝は大分県の実家にいた。夜明け前、ぐらりとした揺れを感じた自分はぼんやりと目覚め、揺れが収まるまでしばらくダラダラした後にベッドから這い出し、階段を下りて居間に向かうと、コタツに潜り込んでテレビをつけた。家族はまだ、誰ひとり目覚めていなかった。

 最初に目に飛び込んできたのは、煙がくすぶる瓦礫のような風景だった。映像もまだ仄暗く、それが何かを理解するまでには十数秒を要したが、ほどなく倒壊した家屋と、そこから出火したばかりの——そして、そこから一帯を焼き尽くすことになる——火災だった。ちょうど、早起きの家庭では朝の味噌汁などを温めはじめる時間だった。

 それからはただ一心不乱に、テレビの画面を見つめていた。報道ヘリからの鳥瞰で、燃えてゆく街を見ていた。見覚えのある風景もあれば見知らぬ風景もあるが、基本的にはどれもこれもが、田舎の家でコタツに入っている自分のいかにも安穏とした状況からは遠く離れた、非現実の世界で起こっている出来事のように思われた。おそらく9時前頃に「1人の死亡を確認 200人以上が生き埋め」という速報が出ても、まだ。

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 その風景が急に現実の重みを持って襲いかかってきたのは、テレビが少しずつ判明してきた犠牲者の名を発表し始めた頃だ。すでに学校も休み、5〜6時間はテレビの前にいた気がするが、突如として画面がブルーバックに切り替わり、「現在までに身元が判明している方の名前をおしらせします」というようなアナウンスのあと、「長田区 ●●●●さん(51)」「東灘区 △△△△さん(21)」という具合に延々と人命が表示され、読み上げられて行くさまを見ながら、底知れない恐怖を覚えた。

 もちろん最初は神戸に住んでいる親族や従兄妹たちのことを考えたが、もう少し山寄りのエリアに住んでいた彼らはこの時すでに安全の確認が取れていた。むしろ、想像したのは自分の祖母や両親、そして自分の名前が同じように淡々と読み上げられる光景だ。顔や体、仕草に言動といった固有性をすべて剥奪された情報と化し、それこそ命すらも奪われたことを告げられる人、人、人。燃えてゆく街と交互に流されるそうした人名の羅列を見ながら、「何もできない」という思いでいたのを昨日のことのように思い出す。

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 神戸でひとり暮らしを始めたのは、カーテンを開ければ摩耶山や六甲山系が見渡せるマンションの6階。JRの高架線が窓の100メートルほど先にあり、夜になると貨物列車がガタガタ大音響で走るのには閉口させられた(が、すぐに慣れた)。その向こうに見える「カラオケカーニバル」というカラオケ屋の店名サインは4年間、一度も「ケ」の字の部分の切れた電球がつかないままだった。

 家の隣にあった、宅急便の荷受け所と角打ちも兼ねている酒屋のおっちゃんは、「このへんはチョーセンが多いからな」というのが口癖だった。彼自身は実に気さくないい人であり、そういう人からもそういう言葉が出ることがあるのだ、と最初は意外な思いで聞いたが、とはいえ「チョーセンだからどうこう」という明確な悪意をもったワードの枕詞としてそれを使うのを聞くことはついぞなかった。
 
 少し歩いたところにある朝鮮学校ではその頃ニュースになっていた「チマ・チョゴリ切り裂き事件」を受けて警戒態勢がとられていた。近所に青龍刀が落ちていたと騒ぎになったこともあった。

 六甲アイランドという人工島にあったバイト先の事務所にはバリバリにきつい播州弁を喋る中国人のおっさんがいて、いつも中華街のゴシップを教えてくれた。バイト仲間にはミヤギくんという沖縄の浦添出身の5つくらい上の男がいたが、ドラマ『ちゅらさん』のヒットによって沖縄ブームが起こるなか、誰かから故郷の話を振られるごとに「僕は沖縄が嫌いですから」と言って頑なにその会話を拒否していた。

 その頃に仲良くなった在日コリアンの女の子の家では、韓国語をもはや一言も喋れない在日三世の兄と込み入った政治の話になってしまい、多少の食い違いから激昂して殴られたこともある。

 いわゆる「観光的神戸」から少し西に行けば新開地や福原、湊川といった明らかにローカルでドメスティックな風景が広がる古くからの街があるが、そのへんに行っては周回遅れの名画を見、昼から赤い顔をした競艇帰りのおっさんや行き場もなくうろつく老人といった「観光的神戸」にはいないタイプの人たちと並んで伸びきった立ち食いうどんを食べ、そのうどんのような弛緩した風景が永遠に続くのではないかと思うほど長い長い商店街を、中古の本やCDを探して歩き続けた。

 年末には六甲山の麓の住宅地にある山口組の本部で一般参加の可能な餅つき大会が催されており、近隣の人たちも暮れの挨拶がてら手伝いに訪れていた。阪神淡路大震災の折に組員たちがいち早く支援に向かったのが市内の養護施設だったということで、当時の恩を忘れない施設の人々も餅をこねに来ては、ニュースでしか見ることのないような親分たちと談笑していた。

 それらはすべて、「神戸」という他のどこにもない空間の中で見てきたものだ。一筋縄ではいかないほど複雑に重なり合った規範のレイヤーの中を歩き、自らを文化的クレオールとして作り上げながら、この街のラフで豊かな包摂と絶望的なまでの分断の両方を垣間見られたのは幸運であった。この街を歩いた日々は、その後の自分の研究やものづくりのテーマにも、大きな影響を与えている。

 今の自分にとって神戸について考えることがどのような意味を持つかと言えば、その後の人生でも様々なものを見てきたせいで膨れ上がりすぎた「差異やレイヤーについて考えること」の情報量を一旦リセットすべく、再起動のスイッチを押すことなのだと思う。

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 とにかく、よく歩いた。腹が減っても酒が抜けても、よく歩いていた。

 そして、そこで出会ったすべての人が、日頃は顔には出さず声にはせずとも、あの震災の記憶とともに生きていた。大学の同級生から居酒屋のおっさんまで、酒を飲んだりして会話が少し深く煮詰まり、空気にとろみが出始めたころ、誰かがポツリと「あの時、どないしとったん?」と口を開けば、皆の口からとめどなく言葉があふれ出した。誰もが、あの時に断絶された時間の続きを生きようとして、実際にはそれぞれの断層を生きていた。あの時のことを考えるとき、おそらく、誰もがひとりだった。自分はあの時、何もできない田舎の中学生だった。

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 家の近所には小ぢんまりとした公園があって、最寄りのスーパーへの行き帰りにはそこを必ず通っていた。ある時から、そこに朝と夕方の1〜2時間、必ず同じホームレスのおっさんが居つくようになった。歳のころは50代後半、ということだろうか。ガリガリといって差し支えないほど痩せ、跳ねた髪をネイビーのコーデュロイのキャップに収めていた。見かけても「今日もいるな」という程度でそれほど気に留めてもいなかったのだが、ある暖かな冬の日、公園のベンチで本を読みつつ当時は吸っていたタバコに火をつけると、おっさんが寄ってきて〈兄ちゃん、タバコ一本くれへん?〉と声をかけてきた。「いっすよ」と言ってハイライトを一本渡して火をつけると、そこからおっさんのショータイムが始まった。

〈わし今はこんなんやけどなあ、前はええ会社におってんで。三井物産、知っとるやろ。あそこで課長まで行ってんけどな、まあなんや、色々うまくいかんようになってもうて。兄ちゃん学生か?どこ行っとん?ほおー、神大(神戸大学)か。賢いやん。こんなとこで油売っとってええんかいな。就職は?まだ二回(二年生)ならせんでええな。教えたろか、なんやテレビで商品やないCMあるやろ、この木なんの木とか石川島播磨重工とかの。ああいうの打っとるとこには行かんほうがええで。ああいうんは企業イメージを上げてやな、金持ちから金引っ張ったり、そのへんのアホな学生とかアホな親に「あそこに入りたい」て思わせるためのしょうもない取り組みやねん。そんな余計な宣伝費使わんと、ちゃんと給料に回してくれるとこに行ったほうがええで。〉

 立て板に水のごとく語り始めるおっさんに適当な相槌を打っているうち「そういえば、なぜおっさんは決まった時間にこの場所にいるのだろう」という疑問が浮かんできたので、そのことを尋ねてみた。

〈なんでここにおるかって?わし、朝は週に2回、公園の掃除して区から金もろてんねん。知らんかったやろ。ほんで夕方はなあ、ほらあそこのローソンあるやん。そこで5時過ぎたら余った弁当やらパンやら、廃棄すんねん。あと、缶とかな。缶は毎日出るわけちゃうねんけど。それからニコク(国道2号線)越えたら、あっちのいま工事中のとこにもローソンあるやろ。あっちの方から先に回収のトラックが来てな、そんであそこのローソン行って、今度はあっちの大日通のほう行ってな、ぐるぐる回んねん。わしその時間を調べてだいたい記録しとるから、その時間にローソン行って……店によっては厳しいねんけど、あそこのはけっこう廃棄の仕方がゆるいから、店先にドカッと出しといて、勝手にトラックが持っていくようになっとる。そのトラックが来る前に、こっちでいただくねん。あそこにたまたまなかったら次は夜に別のとこ行ったりして、缶は売るし、飯はまあ1回で2日分くらいなんとかなったらええな。それ以上あったら、まあ仲間に分けたりしてな。〉

 そう言って、彼は1枚のA4の紙を、後生大事に畳んで入れたビニール袋から出して見せてくれた。それは、概ね神戸市中央区の南東部から灘区の西部に存在する全ローソンと、そこをめぐる回収トラックの到着時間、だいたいの走行ルート、その周辺に位置する各拠点からどう行けば最短で店舗にたどり着くかを書き込んだ地図だった。ご丁寧に「月・水・金」と「火・木」、さらに「休日」までルートが色分けされていたように記憶している。

〈あっちもアホちゃうからな。やっぱ、持ってかれんように時間ずらしたり、ちょこちょこルート変えよるわけよ。これ調べんの、けっこう骨折れんねんで。ただまあ、こっちも生活かかっとるからな。〉

 そう言って笑う、本当に三井物産にいたかどうかは疑わしいおっさんが一瞬、熟練のマタギか何かに見えた。今にして思えば、この地図もなぜ写真を撮っておかなかったのかと悔やまれてならない。

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 この地図は、彼が文字通りこの街を狩猟民のように歩きながら重ねた知見と生活上の要請をもとに都市空間を再定義した、彼固有の地図だ。

 我々が普段目にする地図は、行政区分や交通網、法や経済といったものに様々なレベルで規制され区切られたものごとを集約した、いわば公式文書化された世界である。だが、それを1枚めくってみると、このおっさんの地図のように個々人の生活様態や行動パターン、あるいは思想のようなものまでも読み取れそうな〝非公式な〟地図が現れる。

 あるサラリーマンは埼玉から東京まで越境通勤し、あるタクシー運転手はとっておきの近道を自慢げに客に教え、ある高校生は気になる女子の家の前を通るべくちょっとだけ遠回りして自転車をこぎ、ある子供は通学路から少しそれたところにある商店まで「ガリガリ君」を買いに行く。そんなふうに、この世は無数の〝非公式な〟、言い換えるならばなんの記録にも文書にも残らない個人的な動機や習慣、思考などによって再定義された生活空間をトラッキングした固有の地図たちのレイヤーでできている。

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 そこそこ打ち解けてきた頃、話の途中でおっさんに聞いてみた。「おっちゃん、ここ来る前はどこにおったん?」

 その特殊能力にすっかり感心していたので、「別のエリアでも同じようなことをしていたのか」というくらいのつもりで発した問いだった。だが、黙って少しだけ遠くを見たおっさんの表情に、一瞬で後悔した。そんな自分の狼狽を知ってか知らずか、おっさんはそのまま、なんでもない顔で、しかし手短に言葉を続け、そして切った。

〈鷹取のあたりで、な。野田ってとこわかるか。あのへんや、地震まではな。〉

 長田区鷹取や野田といったあたりは、震災で最も被害が大きかったエリアの一つだ。大規模な火災が発生して商店街は焼け野原となり、家屋の倒壊や全焼も多かった。特に駅の南側、海へと至る住宅街や工場街を歩けば、今でも権利者不詳のまま空き地になったちょうど家一軒分の敷地や、明らかに不自然な区画整理が行われた跡であろう謎の通路がそこらにある。

 彼が三井物産にいようといまいと、おそらく、彼は本当にそこで暮らしていたのだろう。そもそも、彼の個人的な地図はその街を起点にして描かれていたのだ。それが、突然襲いかかった災害によって暴力的に奪われた。〈まあなんや、色々うまくいかんようになってもうて。〉という言葉に集約される物事が、おそらくあの震災のあとにも、彼に降りかかったのだろう。残酷な質問をしてしまった、と思った。だが「すんません」などと謝るのも違う気がして、「あ、そうなんすか」などと曖昧に応えるしかなかった。

〈自分はあの時、どうしとったん?〉
 そう聞かれたらどうしようか、と思った。実家のコタツでぬくぬくと、おっさんの街が燃えていく様子を見ていた自分が。しかし、おっさんは最後までそれを聞くことはなかった。その代わりに〈タバコ、もう一本もろてええか。〉と言い、火をつけると深く吸い込み、吐いた。煙が冬の、青というよりもはや黒々と澄み切った空に昇っていった。

 ややあって、おっさんは〈ほな、そろそろ今日の〝仕事〟の時間や。ありがとな。〉と立ち上がると、「はい、また」などと間抜けな顔で返している自分からこれ以上何かを言われることを拒むように、そのまま手を振って自転車にまたがり、走り去った。

 また、何もできなかった。
 
 それから、おっさんの姿を数度見かけることはあっても、気安く声をかけることもできず公園を通り過ぎているうちに、いつの間にやら彼は忽然と消えていた。彼の地図はその後、どの街でどのように描かれていったのだろうか。今でもコーデュロイのキャップをかぶって、どこかでタバコをくゆらせているだろうか。その煙は、どこかに届くだろうか。

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 我々すべてが、それぞれの地図を描きながら生きている。だが、その地図に描かれなかったものもまた、ある。あった。本当は流れていたはずの時間、どこかで止まってしまった時間、そういうものもまた、我々の描く〝自分にとって公式な〟地図の、さらに奥底で眠っている。地下を流れる水脈のように、それぞれの人々の深奥に流れるそうした思いが、本当は神戸という街を作っていた。それを時には少しの苦みとともに一つひとつ知りながら、自分はこの街のこどもになっていった。

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2019年の1月17日に

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。

2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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