国境線上の蟹 27

インタールード
神戸のこと(2)
〜「忘れんと、それぞれの」
 
 
 神戸市須磨区に、鷹取という駅がある。
 
 1900年3月に山陽鉄道(現在のJR西日本)の車両工場が落成したのとほぼ時を同じくして、それに隣接する形で建設された駅である。数多くの国鉄車両の製造をはじめ点検や改修なども行う大規模工場であり、日本の近代鉄道史に大きな役割を果たした鷹取工場は1995年の阪神・淡路大震災で壊滅的な打撃を受け、2000年に閉鎖された。現在では駅ホームから見はるかすと何重にも連なったコンテナ群の向こうに広がる工場跡地に公園やスーパーが整備されているのを見ることができるが、自分が初めて訪れた頃は閉鎖直後であったためにまだ工場、というか「遺構」と「跡地」の間くらいの状態の建物が残っていた。とはものの、徐々にひろがりゆくその背後のだだっ広い空間からは、この地域で生まれ育った作家・妹尾河童がその代表作『少年H』で〈鷹取駅の北側にある機関区の操車場には、さまざまな機関車が煙と蒸気を吐き出しながら動いていた〉(1997 講談社)と描いたような活況はなかなか想像しづらかった。
 前回書いた、学生時代に近所で出会ったホームレスのおっさんが住んでいた地域もこのあたりになるだろう。

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 鷹取工場の跡地と反対側、駅の南口から出て海のほうに歩いていこうとすると、ごくごく小さな商店街と住宅街が混在する地域を抜けることになる。この辺りには駅名から取られた「鷹取町」という町名もあったりして、駅を中心にした生活地図で言えば、工場があった北側よりもこちらの方が「鷹取」という感じがする。よくある話ではあるが、鷹取駅までは海浜公園でおなじみの須磨区で、鷹取町を含む古くからの生活圏のほうに一歩足を踏み入れると、そこは長田区である。
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 長田区には日本でも最大級のコリアンタウンがあり、塩化ビニールの発明された1952年以降、彼らの経営するケミカルシューズ(合成皮革の靴のこと)工場が数多く立ち並んできた。そもそも「ケミカルシューズ」という呼称自体がもはや神戸の方言といってもいいのではないかと思うほど、この街では一般的な用語となっているが、それを担ったのは在日韓国・朝鮮人たちであった。ケミカルシューズの生産とエスニシティの関係について述べた山本俊一郎の論文「神戸ケミカルシューズ産地におけるエスニシティの態様〜在日韓国・朝鮮人経営者の社会経済的ネットワーク」(『季刊地理学』vol.54所収、2002 東北地理学会)によれば、日本ケミカルシューズ工業組合の加盟202社のうち156社、すなわち75%近くが神戸市の長田区に立地しており、さらに202社のうち約60%となる130社が在日系経営者の企業であった。この調査は震災の直後である1998年のものであり、震災の影響もさることながら安価な海外製品に押されたことも相まって神戸以外の企業も含む組合員数は2017年現在、91社にまで激減しているが、相変わらず加盟企業は長田区に数多く立地している。長田区のいわば外れである鷹取駅周辺にも、まだ何軒かのケミカルシューズ業者が残っているようだ。
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 長田区に在日韓国・朝鮮人の人口が多いのは、1910年代初頭に神戸市に立地する川崎造船や神戸製鋼といった重工業産業、またはカネボウのような紡績産業が、当時日本領だった朝鮮半島に安価な働き手を求めたからである。兵庫朝鮮関係研究会『在日朝鮮人90年の軌跡 −続・兵庫と朝鮮人−』(1993 神戸大学青年センター)によれば、1912年時点でわずか30名だった神戸在住の朝鮮半島出身者は、1930年には13000名を超えていたという。
 彼らの多くは当時京城府と呼ばれたソウルなどではなく貧しい農村部から職を求めて移民したものたちで、教育の程度や識字率も当然低く、雇用主によっては奴隷のような重労働を課せられたり、あるいは日本に来たものの職にあぶれてしまうものも多かったという。
 自分が住んでいたのは神戸市中央区の東端部にある筒井町というエリアだったが、そこから南に海のほうへと下ると、かつて葺合と呼ばれた地域がある。このあたりにはかつては被差別部落や、海外への玄関口である神戸に働き口を求めてやって来た貧民たちの木賃宿が密集していた。神戸は北の六甲・摩耶山系からまっすぐ市街地を通って海へと流れ出る川が多い構造上、古くから水害の多い地域で、その被害を防ぐため、中心市街地を流れていた二本の川がそれぞれ元あった場所の外側に付け替えられている。そのうち、1871年に付け替え工事がなされた東の生田川がこの葺合地域を流れることになった。
 そして、市街地の西側を流れる湊川もまた、1896年の大水害をきっかけにさらに西へと移転することになった。これが現在の長田区を流れる新湊川であり、中心部の景観をキープしたい行政の思惑によって、これらの新しい川の下流域に国内外から集まった低賃金労働者たちのスラムが強制移住などの手段で集積されていくことになった。こうした事情もあり、在日朝鮮人をはじめとした出稼ぎ労働者たちが現在の長田区の南部に集まることになった。ちなみに、この地域には彼らだけではなく、当時は航路があった奄美や徳之島の出身者も流れついた。現在も長田区には奄美にルーツを持つ住民が多く、神戸奄美会という同郷会が存在し、奄美の島唄や踊りといった文化を保存し合う場所として機能している。
 そして、ベトナム戦争の末期である1975年、サイゴン(現在のホー・チ・ミン)陥落によってアメリカが後ろ盾となった南ベトナム政権が崩壊、世界中にベトナム難民が離散する中、長崎を通じて東京や川崎、大阪、そして神戸にも数多くのベトナム移民たちがやって来た。姫路にある定住促進センターを出所後、彼らが住んで働くために選んだのが熟練の技をそれほど要さず、日本語が得意でなくとも務まるケミカルシューズ工場だったため、彼らもまた多く長田区に居住するようになった。

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 長田区の西端である鷹取駅南側エリアは、前回も述べたとおり、阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けた地域である。24年経ち、いつしか「復興」という言葉がある種のクリシェとして扱われ始めた感のある現在も、解像度を上げて見ればその爪痕はそこかしこに残っている。
 駅の南東方面に5分ほど歩いたところに、白壁に囲まれた一角がある。十字架が掲げられたゲートをくぐって中をのぞけば、芝生の中庭をコの字型に囲むように、ガラス張りの建物と、やや荘重な雰囲気の扉を持った建物が隣接して立ち並んでいる。中庭の一角には、人間よりひとまわり大きいといったくらいのキリスト像が、両の腕を広げている。
 ここは、カトリックたかとり教会。1927年、兵庫地区への布教に尽力したフランス人神父ジャン・ヘクトール・ジュピアによって建設されて以来、地域の信者たちの信仰の拠りどころとして時間を重ねてきた場所だ。
 一度キリシタンの歴史が途絶しかけてしまった日本と違って、朝鮮半島には18世紀あたりからかなり多くのカトリック信徒がいた。それゆえ、この教会にも次第に長田や一円の地域に移住した在日韓国・朝鮮人の信徒たちが訪れるようになったことは想像に難くない。ジュピア神父の後任の中には韓国語を話せるフランス人神父もいたというから、異郷で過酷な低賃金労働に従事し、差別を受け、さらにはその歴史の中で祖国(まだ移民1世の人々も多かったはずだ)が分断されるという悲哀をも味わいながら生活を築き上げた彼らにとって、その存在は大いなる救いになったのではないか。
 コリアンたちに60年あまり遅れてやってきたベトナム人たちも、やはり植民地化された国が東西冷戦の煽りを受けて南北に分断され、同胞が相争う同じ悲劇の歴史を抱えてきた。日本に逃れてきたのは、ほとんどが南ベトナムの出身者である。南ベトナムはアメリカの傀儡としての資本主義国家であると同時に、社会主義の北ベトナムから逃れてきたカトリックの国でもあった。当時のゴ・ディン・ディエム政権が急進的な国家カトリック化政策を推し進めて仏教徒を弾圧した(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンがアルバムジャケットにも使用したことで有名な僧侶ティック・クアン・ドックの焼身自殺はこのために起きた)という暗い歴史はあるものの、庶民レベルの素朴な信仰は政治とは無関係に長い歴史の中で培われてきたものであったし、それを抱えたまま日本に逃れてきたベトナム人たちにとっても、やはりこの教会と、ここを通じて似た歴史を持つ在日コリアンたちとの緩やかな共同体ができたことは何よりの支えだったかもしれない。
 大日本帝国、朝鮮王朝あるいは大韓帝国、そして南ベトナムといういずれももはや存在しない国家の動きが、実存する個人たちを遠い異郷に運んできた。国はなくなったのに、彼らはここに置き去りにされたままだ。実存としてはこの場所にいても、魂のうちいくばくかは郷里にあるか、郷里に残してきた誰かのもとにあるか、それともどこにも帰る場所がないデラシネとして漂っているか、いずれかの理由で引き裂かれたままである場合も多いだろう。神戸のごく一角、長田という場所だけをとっても、引き裂かれた魂の数だけ近現代の断層がある。

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 近年顕著になってきただけで実は昔からヘイトがそこかしこに転がる日本で寄る辺ない生活を送る彼ら——コリアンやベトナムにとどまらず、中国、ペルーやブラジル、フィリピンなどから出稼ぎにきたカトリックたち——はこの場所に集まり、切々と祈りを捧げてきた。
 そんな彼らが日々の労苦やささやかな楽しみを分かち合う場所として機能してきたこの教会をも、1995年1月17日、阪神・淡路大震災は容赦なく襲った。街が壊滅し、周囲の家々を焼いた火の手が約11時間にわたって燃え続き、聖堂までも全壊・全焼するなか、キリスト像だけが無傷で焼け残った。火の手が止まったこのキリスト像の背後が、長田を焼き尽くした大火災の西端であった。
 前夜は満月だった。その光が少しだけ欠けて見える寒い寒い第一夜、教会の建物もない中で、「震災後」の世界が始まった。このキリストの脇で焚き火をしながらあらゆる国の人間がここで祈り、やがてここはすぐにボランティアの拠点として機能するようになった。地縁はもとより、在日外国人コミュニティの結束や全国からの善意がここに集まり、聖堂すらないこの場所はやがて「鷹取救援基地」と呼ばれるようになり、やがて被災した高齢者や在日外国人のためのコミュニティセンター的な役割を果たすようになった。2000年にはNPO法人格を取得し、今では10か国語のコミュニティFM(2016年以降はインターネットラジオに移行) や在日外国人の子供たちへの教育、大学や研究機関との連携による地域づくりのトライアル、在日外国人の防災に向けての取り組み、さらには東日本大震災の被災地域へのコミュニティ活動のノウハウ伝達など、様々な活動を行いながら現在も引き続き地域コミュニティと在日外国人たちとの接点として機能している。もちろん教会としての働きも旧に復し、建築家・坂茂の設計による新しい聖堂では毎週日本語とベトナム語でミサが行われている。
 自分はまだここがプレハブの集まりだった2000年代前半にはフィールドワークで何度か出入りしていたものの、東京に移り住んでからはしばらく忙しくしていたせいもあり、足が遠のいてしまっていた。昨年の夏に久しぶりに訪れたところ聖堂はすっかり立派に再建され、コミュニティの建物はモダンな感じに新設されていて隔世の感があったが、駐車場の一角に貼られたこの張り紙の文句は当時のままだ。
〈ここは、
忘れ去られようとしている人々と共に歩む救援基地です。〉
 震災はもはや24年という時間の彼方の出来事である、という人もいるだろう。だが、それは決してまだ終わっていない。ここに集う人々の中にも、神戸という街で出会ってきた数々の人々の中にも、まだ震災は続いている。
 それは人によっては戦争、かもしれない。孤独、かもしれない。人によっては、その他になにがしか魂が損なわれるような経験をした記憶かもしれない。何であろうと、それは人々の中にまだ続いている。そうした個々の〝引っかかり〟とでもいうべきものをすべて漂白し、矮小化し、大きな流れにつるりと回収してしまおうとする時代の風潮や、100年前の朝鮮人労働者から現在の技能実習生に至るまで、他者を自らのために利用するだけしてあとは忘れ捨てるという私たちの社会がいつしか基調的な態度としてしまったその酷薄さにこそ、この教会は向き合い、そして〈忘れ去られようとしている人々〉を包摂する。


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 ラテン語とハングルで「互いに愛し合いなさい」と書かれたキリスト像は当時と変わらず存在していて、その横でバティックの柄シャツを着たアフリカ出身と思しき若者がうどんをすすっていた。この日は日曜日でラジオの収録が休みの代わりに何らかのコミュニティ講座のようなものが開かれており、建物の中に入ることはためらわれたので外から眺めていると、スタッフのおっちゃんが声をかけてきた。自分のことを述べたあと「最近は全然これてなかって」と誰に言うでもなく弁解がましい言葉を口にすると、おっちゃんは「みんな忘れんと、それぞれのタイミングで社会のためになることに関わってくれたらええんですよ」と言った。
 わすれんと。それぞれの。
 語頭のピッチが高い阪神エリア式のイントネーションで発されたふたつの言葉が、近現代の果ての暑い空気に溶けていった。

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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