川勝徳重「ナラヘナラトロジー」

 大山海先生はそのうちヒット作を出す作家だと思っています(※1)。理由は三つ。はじめて描いた漫画からちゃんと脚本が書けているから、絵が妙にリアル(描写自体ではなく、画面に描かれている要素が)だから、そして物語をいかに語るかに自覚的だからです。
 町田康さんは解説で、『奈良へ』が二つの現実と、一つの幻想的な世界から成り立っていることを指摘しています。
 ①現実的な世界一は、漫画家・小山陸が生きる東京の現実。
 ②現実的な世界二は、漫画家・小山陸の故郷である奈良の現実。
 ③幻想的な世界三は、漫画家・小山陸が創造するファンタジーの世界
 また、作者の魂が別の人物を渡っていくことによって展開してゆくことでこの異なる三つの世界がつながっていることを指摘しています。その魂の移譲を「分魂」という面白い言葉で表現されてます。この三つの世界の多重性は成功していると思います。また大山先生が、この「分魂」による語りを長編作品を描くにあたって選択した理由も、なんとなくわかる気がします。私も長編を描くなら同じことをやるだろうからです。
 大山先生は、もう散々人に言われて嫌かもしれませんが、つげ義春の影響を受けてデビューしています。他にも色々な漫画を読まれてきたでしょうが、話を通じやすくするためにつげ義春の名前を一番にあげます。
 1967年以降のつげ義春の漫画の語り口は、一人称といいましょうか、コマの右上か左上の余白にナレーションをつけて展開してゆくものが多いです。現在も広く読まれている『月刊漫画ガロ』の作品は、随筆的、紀行文的と評されることが多かったのですが、それは要するにこれまでの漫画とは違ったやり方で身辺生活を描く「スタイル」を編み出したということです。つげ義春の「私漫画」的なスタイルは、安部慎一、鈴木翁二をはじめ『ガロ』の作家に影響を与えました。大山先生がはじめて描き、そして青林工藝舎の雑誌『アックス』に掲載されたデビュー作「頭部」も、その「私漫画」的な語りを持った作品でした。
 大山先生は大山先生だから、昭和四〇年代の作家と比較しても仕方がないのですが、長編作品への志向があること、そしてデビュー作から「私漫画」のスタイルで「他人」との出会いを描こうとしているところが違います。後者の志向がデビュー時からあるから第二話〜第四話の群像劇(現実的な世界二)が描けたのだと思います。普通のガロ系の私漫画家だと、作者と思しき登場人物の身辺生活がグルグルと延々描かれることになり、内島すみれの言う「トートロジー」に囚われることになるでしょう。少し微妙なところなのですが、大山の漫画ははじめから、その危険性が回避されていたように思えるのです。だからガロ界隈に居続ける人ではなく、そのうち青年誌に行くんだろうな、と「頭部」を読んだとき思ったのです。一方、私がいまだに長編漫画を描けてない理由も、そこにあるのです。
■『頭部』(アックス104号/青林工藝舎/2015年)

■内島すみれ『トートロジー考』(北冬書房)

 大山先生の漫画を「私漫画」的とみなした理由に風景への執着があります。『ガロ』時代のつげ義春なら、細かく畳の目を描く行為がそれであり、大山においては「奈良」の風景にそれがあります。大山先生は、有名な寺を描くにしてもどうでもいいような角度から描くでしょう。そういうところがいいと思います。
 「私漫画」というと、まるで自己愛の強さからそうなっているようですが、それとは逆で、自己を滅却させる方法でもあるのです。自分を素材として扱っているわけですから。つげ義春の場合は、たとえば「長八の宿」でも、「蒸発」でもいい、最後は風景に回収されて物語が終わります。風景に「私」が埋没することで慰安を得るものが多いのです。『奈良へ』も「現実的な世界二」にあたる第二話〜第四話では、三人の主人公が、頭塔周辺の景色、法隆寺の土壁や仏像、用水路の中からみた景色や夜の街を見出すことで終わります。ただ人物が風景に埋没してゆく感覚はあまりありません。『奈良へ』のラストも主人公である漫画家の今後の展望を感じる、希望のある終わり方で、風景よりも人物の方に焦点が向いているように思えます。こういうところに少しメジャー感がある気がします。
 かつて私は大山先生に「僕みたいなガロ系の漫画よりは…青春ものとかをメジャー誌に描いた方がいい、そこで成功する気がする」と言った記憶があります。勿論、『奈良へ』冒頭のシネフィルと私は別人ですよ。大山先生もあれは川勝じゃなくて別の人と仰ってました。私はカール・ドライヤー監督の話なんて人にしないので、その通りだと思います。それはともかくメジャー誌に行くといいと言ったのは、大山先生は客観描写で「他人」を描けるので、普通に読める群像劇に擬態できると思ったのです。だから正直、トーチwebよりも大手出版社の青年誌に行くのがいいとも思ってました。たくさん稼げるだろうし。でも漫画に描かれていることを信じるなら、実際にメジャー誌に持ち込みに行ったりしていたのかもしれません。原稿買ってくれないのは、単に絵柄と仕上げの問題だけな気がするけれども(※2)。
 ドリームランド編は異世界転生という昨今流行りのスタイルを、メチャクチャな形でジャックして作品に取り入れてますね。こういう語りの多様さが、とても楽しいです。でも、第7話5ページ目のヴェルナーの笑顔はひどい。「メジャー誌行きたいなら歯茎を描くな!」。こういうギャグを見ると、大山先生本人を思い出します。しかも彼は持ち込みの原稿にも歯茎を描くような人です、多分。西村ツチカもやるけれど、漫画の絵で歯茎を描写することはアイロニーなんです。
■ヴェルナーの笑顔(単行本P145より)

 彼は「頭部」の頃から、私漫画でよく扱われる抒情性や内省的な表現よりも、グロテスクな奇想や、暴力への渇望があったように思えます。もっというとわかりやすく派手なホラー/アクションよりのエンタメも描きたそうに見えたのです。そこに長編への志向が加わると、どうしても「語り」の構造を複雑にしなければなりません。そこで私漫画の一人称の語りを、複数使用することになったのでしょう。それが町田康さんの言うところの「分魂」となるのです。『奈良へ』の奇妙な三つの世界からなる多層構造、「分魂」はいずれも作者が取るべきして取った方法論だと思います。
 大江健三郎でもバルガス・リョサでもいいし、「巨匠とマルガリータ」でも、最近なら「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」でもいいですけれど、2つの世界を交互に描写してゆく語りは色々な可能性がありますね。「奈良へ」は交互にではないですが、この橋渡しのやり方が「文学的」だと思いました。文学的だというと、何か難しいことを言ったり、曖昧な表現を使うことだと取られる向きがあるのですが、現代文学のもつ堅牢な構造それ自体に私は惹かれることが多いので、とても好ましいやり方だと思いました。
 私は作者と知り合いなので、どうしても先輩風吹かしてるみたいな文章になってしまうのですが、25歳でこんな漫画描いてしまって…本当に立派だと思います。自分が恥ずかしくなります。今後も立派な作品を描いてください。予言ですが、次回作の「令和元年のえずくろしい」はそのうち映像化されると思います。とてもかないません。頑張ってください。
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(※1)なんと発売3日目の売り上げから『奈良へ』がまさにヒット作になりそうだとのこと、おめでとうございます!
(※2)メジャー誌がどうだとか、本文で書いてますが大山先生に言ったのは5年以上前の話です。ここ最近は漫画業界を取り巻く趨勢が随分と変わりまして、もう何が正解かわかりません。大手資本出版社に持ち込むべきか、同人作家で行くか、縦スクロール漫画のWebToonに対応するのがいいか、色々な方法があります。漫画業界はこれまでにも何度かメディアが大きく変わる時期がありましたが、最近がまさにそれなのかもしれません。みんな頑張ってください。

お知らせ

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    【この「奈良へ」という作品を読んでまず思ったのは、これは途轍もない傑作だ、ということで、私は読後、暫くの間、虚脱していた。(町田康)】

    古都・奈良。三つの世界遺産を擁する日本を代表する観光地。

    売れない漫画家、マイルドヤンキー、パンクス、やる気のない野球部員、冒険のパーティーからそこはかとなくハブられている航海士、街頭で奈良の崩壊を訴える謎の男……名所旧跡で繰り広げられる若者たちの群像劇は、やがて人間の業を深々とえぐり出し、世界の虚を暴き出す衝撃の展開へーー

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