ホームフル・ドリフティング 35

♯35 「浮浪」する自炊
 
 
 料理ができない。とにかく下手なのだ。分量も時間もきっちり測るのが億劫だからレシピどおりにつくれることなどほとんどなく、大抵の場合は味がぼんやりした、あるいは大して味のしない平面的な料理ができあがる。だから日常的に料理をすることはほとんどない。もっとも、家にいないことが多いので料理をしようにもできないのだけれど。

 以前この連載で、ダイニングがホームにとって重要であるらしいと書いた。いろいろな人がやってくる食卓の場がホームらしさのようなものをつくっているのだ、と。それは食事ではなく「食卓」の重要性について考えていたのだけれど、一方で食事をつくることそれ自体もホームに絡みついているのだなと最近よく思う。

 というのも、不摂生がたたって体調が悪化の一途をたどっており、自分の肉体年齢が五十九歳であることを医師から通達されたからだ。実年齢のほぼ倍。細かいことは気にしないようにしているずぼらな自分でも、流石に生活を見直して健康に気を使いながら自炊をした方がいいんじゃないかと思える数値である。

 しかし冒頭にも書いたとおり、生活が不規則なのでなかなか自炊に踏み切れない。外食より自炊が安上がりだというのが一般的な考え方なのだろうが、あれは毎日きちんと自炊することが前提とされているのだろう。つくったりつくれなかったりする人にとっては自炊も外食も変わらないくらい金銭的にも心理的にもコストがかかるのではないか。

 ……と、別に外食を悪、自炊を善とする考え方に難癖をつけたいわけではない。ただ、前回ルーティーンがホームをつくっていくと書いたように、自炊もまたホームをつくっているものであり、ホームこそが自炊を成り立たせているともいえるだろう。

 よくよく考えてみると、自分で料理をするというのはなかなか不思議な営みだ。寝室をホテルに、洗濯機をコインランドリーに、お風呂を銭湯に、冷蔵庫をコンビニにするのは概ね振る舞い的にも機能的にも置換可能だが、家での料理をスライドさせる場所は街の中に見当たらない。自炊を食事と読み替えるならもちろんレストランや居酒屋にスライドできるだろうが、自炊においては食べることと同じくらい、あるいはそれ以上につくることが重要な意味をもっている。料理をできる場所など、街のなかにはない(もちろん、オフィスのキッチンスペースで料理したり、キッチンを貸し出したりするようなサービスを使うことはあるにせよ)。

 大げさにいうならば、自炊こそがもっとも狭義の「ホーム」と密着した振る舞いなのかもしれない。逆に言えば、ぼくがフラフラとホームフルな生活を送れているのは、ホームと癒着してしまった自炊を真っ先に切り捨てているからなのだろう。だから切り捨てられてしまったぼくの自炊は、すっかりホームから離れた場所に流されてしまっていて、ぼくはそれをどうやって取り戻せばいいのかわからないでいるのだ。

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《著者プロフィール》
もてスリム
1989年、東京生まれ。おとめ座。編集者/ライター。
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