ホームフル・ドリフティング 9

#9 モンテーニュとホームシック

「マクシムスよ、どこにでも住む者は、どこにも住んでいないのだ」(マルティアリス『エピグラム』)

 一六世紀のフランスを生きた哲学者ミシェル・ド・モンテーニュは、著書『エセー』のなかでこの一節を引いている。マルティリアスがこう書いているように、「目標の定まらない魂は、さまようしかない」のだ、と。

 長い間、ホームフルという概念があればこうした考え方をハックできるのではないかと思っていた。どこにでも住む者は、どこにも住んでいない、わけではない。単なる同語反復だけれど、どこにでも住む者は確かにどこにでも住んでいるのだ。

 しかし、どうやらそれはぼくの思いすごしだったのかもしれない。というのも、この一カ月あちこちを転々として過ごしていたのだが、色々なところに住んでいるはずなのにどんどんホームレスな気持ちが増してきたのだ。

 平日はオフィスに泊まり続け、週末は出張で台湾や中国に行き、Airbnbで押さえたこじんまりとした部屋や綺麗なホテルに泊まる。家では寝ることさえなくなり、荷物を取り替えたりシャワーを浴びたりするだけになった。週ごとに滞在場所が変わる生活はまさしくホームフル的だったし、ホームシックになることもない。ただ、なんだか様子がおかしい。

 ホームフルとは、どこにでも住むことではない。そんな思いが強まっていた。ホームシックにならないこともホームフルに過ごしていることの証左かと思っていたが、そうではなくホームシックの対象となるべきホームを失っていたとしたらどうだろう。

 人はいつでもホームシックに罹ることができる。自分の家にいるときでさえ、ホームシックはやってきうるだろう(それは離れた実家を恋しく思うのとは違う)。ホームシックにならないのは自分にとってホームと思える場所がないからであって、それはまさしくホームレスな状態だ。

 ホームは本当に遍在するわけではなく、ぼくらは世界のあちこちにただホームの影を見出しているだけなのかもしれない。だから単にどこにでも住むだけではホームフルに到達できない。ホームフルであるためには、影を生み出している大元のホームがどこにあるかを知っていねばならない。それはいまあなたが住んでいる家/部屋でも、実家でもないかもしれない。ただし、それはどこかに必ずある。

 奇遇にも、モンテーニュは同じく『エセー』のなかで次のようなことを書いている。これはホームや住むことについて書いているわけではないだろう。しかし、ぼくにとってはこれこそが「ホーム」の核心に迫っているような気がしてならないのだ。

「他者におのれを貸しだしたまえ、ただ、おのれはおのれ自身に与えよ」(モンテーニュ『エセー』)

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《著者プロフィール》
もてスリム
1989年、東京生まれ。おとめ座。編集者/ライター。
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