スタジオジブリ・鈴木敏夫より

 自分のべッドのそばに置いてある本の中で、漫画はバロンさんの作品だけです。『柔俠伝』シリーズが全巻置いてあります。
 雑誌で連載されていた頃から数えると、『柔俠伝』はもう何回読んだのか分からないくらい読みました。勘九郎、勘太郎、勘一と、代々続いていく主人公たちは一貫して柔道が強くて冷静沈着、質実剛健。だけど皆、いざというときに客観的に状況を見て判断し行動する力がある。本来は父親の仇を討つため東京に来たのに、色々な人と出会っていくうちに当初の目的がどっかいっちゃう。そんな主人公、かつていなかった。実に恬淡としている。僕自身、普段は色々はぐらかしたり、冗談ばかり言ってますから、柔俠伝シリーズの主人公にはものすごく影響を受けているんです。ヒロイン・茜ちゃんのモデルが風吹ジュンさんであることは連載当時から知っていて、その時から「本物と会ってみたいな」と思っていました。皆には言ってなかったけど、風吹さんを指名してジブリの作品に出てもらうようになったのは柔俠伝シリーズの影響です(笑)。
 僕らの大学時代って学生運動が全盛で、卒業して会社に入って、自分の生きるスタンスをどこに置くべきか悩んだ時期に、『柔俠伝』に描かれている生き方が大きなヒントになりました。ヤクザも学生も夜の女たちも、皆が同じ空気を吸っている。世界が分断されていない。その中で主人公が見せるリアルな明るさというのは、「前向き」というのとは違って、いつも「今、ここに生きている」姿です。「今、ここを生きていたら、結果としてこうなっちゃった」という方が人生の描き方として説得力がある。僕自身、大学卒業後に入った出版社も、すごく入りたくて入ったというよりは気がついたらそこにいた感じだし、そもそも宮崎駿に出会わなければ映画だってやってないわけですからね。
 この何十年間、目的を持ちそれに向かって前向きに努力するべきという考えが幅を利かせてきたように思いますが、人間の生き方はそれだけではないと思います。前なんか向かなくていいから、今、ここに生きる……柔俠伝シリーズで描かれる人間像に昔も今も変わらず惹かれています。

お知らせ

  • /////上下巻絶賛発売中/////

    十九歳の若き柔術家・柳勘九郎は父の遺訓である「打倒・講道館柔道」を胸に上京する。文明開化に揺れる東京の街。青春の彷徨。理不尽と不条理、矛盾と欲望ー男の胸を、誰が知る。

    学生運動の嵐吹き荒る1970年代、右も左も読んでいたーー困難な時代に、強く優しくあろうとした一人の青年の物語。「今」を生きる全ての人に。バロン吉元の最高傑作が蘇る。

    雑誌掲載時のカラーページを再現。画業60周年記念 新装・新編集版!

    <下巻特別収録>
    ■「本書刊行に寄せて」バロン吉元 ■初公開の描き下ろしを含む、カラーイラスト10点&墨絵4点 ■作品解題(あがた森魚/荒俣宏/かわぐちかいじ/草森紳一/栗原良幸/佐藤信/鈴木邦男/鈴木敏夫/竹宮惠子/前田日明/山下裕二/夢枕獏/四方田犬彦)