眠る/柴田葵

 おじいさんとおばあさんは今晩も幸せになった。さ、目を閉じよう、と私は子供に言う。
「めは、とじない」と子供が答える。
「ねたら、めをとじるけれど、ねるまでは、とじれない」
 きっぱりそう言った子供は、うす暗い寝室の布団に横たわり、たしかに一点を見つめつづけた。しばらくすると、まぶたが落ちはじめる。日が沈むように抗えない動きだ。寝息が安定してから、私は布団を後にする。廊下のシーリングライトが爆発したように眩しい。
 今年の夏はほとんどアイスクリームを食べなかった。自分の体温とアイスクリームとの温度差に「しんどさ」を感じてしまう。アイスクリームのアイデンティティも大崩壊だろう。代わりに今は、しょっちゅうラーメンを食べたくなる。もともと好きだったけれど、近所にもの凄く好みの店を見つけてしまった。ラーメンはしょっぱくて、あぶらっぽくて、あたたかいから好きだ。甘くて冷たいアイスクリームよりも今の私自身に近い。
 ふと、高校生のころに友人たちと食べた「長後のパフェ」を思い出す。長後というのは神奈川県にある地名だ。それは、とにかく大きかった。肘から指の先までと同じ高さがあった。コーンフレークにソフトクリーム、あとはイチゴやチョコのフレーバーソースというシンプルなものだったが、とにかくサイズが圧巻だ。シンプルな造り(もはや「作り」ではなく「造り」だ)のせいか、高さがあるのに倒れない。柄の長いパフェ用スプーンを人数分出してもらって、二人か三人で一つを崩さないように食べる。まれに一人で挑む猛者もいる。たしか六百円くらいだった。
 高校生のころの私たちは、楽しいことがあると長後のパフェを食べにいった。たとえば、テストが終わったり、夏休みが始まったり、短縮授業だったときだ。
 いや、何かが違う、と私は気づく。
 長後のパフェには、ポッキーも刺さっていたような気がする。
 
 早速、「長後」「パフェ」で検索をした。すると数秒で店名がわかり、私たちが卒業した数年後に閉店したらしいこともわかった。
 しかし画像は出てこない。あたりまえだ、私が高校生だったのはもう二十年も前なのだ。あのころは携帯電話にカメラなど搭載されていないし、デジカメすらなかった。もしかしたら、誰かがフィルムカメラや使い捨てカメラで写真を撮っているかもしれないけれど、この広いインターネットにその姿はなかった。ポッキーの有無もわからない。私の記憶のなかの長後のパフェは、ほとんどのクラスメイトの名前や顔のようにぼんやりとしている。
 このところ、なかなか眠れない。一生懸命にヨガをしたり、漢方を飲んだり、養命酒を飲んだりしているけれど、それでも寝つけないことが多い。私は大人なので、眠れなくても朝がくることを知っている。知っているけれど、睡眠不足はもろもろの元凶だ。私は目を閉じる。眠れなくても目を閉じる。情報を遮断する必要がある。睡眠を迎えにいく。睡眠はどこにもいないから探しにいく。草の根まで掻き分けて探す。それでも睡眠はいない。見つかるのはぼんやりとした長後のパフェ、総理大臣になると言っていた女の子、ルーズソックス、制汗剤、シナモンロール、でもやっぱり、昨日パッとひとりで食べにいったあのラーメンはおいしかったな。眠りたいときには、昔の記憶を追わない方がいい。いろいろなことを考えすぎてしまうから。今の私が手を伸ばせるのは、はるかなパフェではなく近所のラーメンだ。
 この先、私は何を食べるんだろう。元気に、いろんなものを食べたいな。
 夢のなかで食べるものに匂いはなく、けれどおなかは一杯になる。
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《著者プロフィール》
柴田葵(しばたあおい)
現代短歌と文章に取り組んでいる。
第二回石井僚一短歌賞次席。第一回笹井宏之賞大賞受賞。
2019年12月、歌集『母の愛、僕のラブ』(書肆侃侃房)を出版。