老いを追う 11 〜年寄りの歴史〜

第四章 『養生訓』を読む 2

 『養生訓』ではじつは、全巻の冒頭、巻一「総論上」の最初に養生の目的と意義が述べられている。貝原益軒はそこで、私たちの身体の由来を説く。
 「人のからだは父母をもとにし、天地をはじまりとしたものである。天地・父母の恵みをうけて生まれ、また養われた自分のからだであるから、自分だけの所有物ではない」。
 つまり益軒は、私たちの身体は「天地」(宇宙)と「父母」によってつくられたものだから、よく養生し、天寿を保つべきだというのである。そして、「これが天地・父母に仕える孝の本である」、「生まれるのも養われるのも、みな天地・父母の恩である」と、繰り返し説教するのだ。つまり人が養生をするいちばんの理由は、「親孝行」のためだという主張である。
 この本の最後、巻八「養老」では、老人に対する接しかたや老後の過ごしかたを説いて全巻がしめくくられている。
 「人の子である以上、親を養う道を知らなくてはいけない。親の心を楽しませ、親の志にそむかず、怒らせず、心配させず、季節の寒暑に応じて、居室と寝室とを快適にし、飲食の味をよくし、誠実をもって養わないといけない」。
 ここに縷々(るる)記されているのは、介護の心得というべきものだろう。つまり父母に報いるために健康に過ごし、父母が老いたときにはつつがなく介護せよというのが『養生訓』の基調となっているのである。

 益軒はただし、年寄りの加齢にともなうわがままもちゃんと指摘している。
 「世間では若い時はたいへん抑制している人が、老後になって逆に多欲になり、多く怒り、深くうらんで晩年の節操を失う人が多い。用心しないといけない」。
 だから、老後の境遇にふさわしい生活を送るには、怒りを抑え、欲をこらえ、ものごとに寛容で、子どもの不孝を責めず、つねに楽しむようにとすすめる。そして子どものほうでも、父母が怒らないようにふだんから気を配り慎むべきだ。父母を怒らせるのは子どもにとっては「大不孝」で、自分の不孝を親にとがめられて、「親も耄碌(もうろく)した」などというのは、最大の不孝であるという。
 「不孝をして父母をうらむのは悪人のやることだ」などという言葉に、耳が痛いのは自分だけではないはずだと私は周りを見わたすのである。

 ところで江戸時代に流行った大道芸に、「親孝行」というのがあった。
 年寄りを背負って「親孝行 親孝行でございます 一銭恵んで下されや」などといいながら町をめぐり、物乞いをする門付の一種である。背負われている老人はほんものの場合もあるが、人形を首からぶら下げ、背負っているように見せかけることも多かったそうである。いってみれば「姥捨山」に親をすてにいく、あの姿にほかならない。歩くこともままならない親を負い、「親孝行」を演じることで小金を受け取る、こんな奇妙な芸がなぜ成り立ったのか。
 ひとり芝居の滑稽さもあっただろうが、「親孝行」と聞くと耳が痛い親不孝者が、思わずお金を恵んだのが実際だったのではないだろうか。なかには故郷を捨てて都会に出てきた人々が、残してきた親を思い、些少でもと施したのかもしれない。そのまま再現するのは無理でも、現代でもありえそうな、人間の心の機微をくすぐるものではなかろうか。

 益軒はこんなこともいっている。
 「年とってから、寂しいのはよくない。子たるもの、時どき側について、古今のことを静かに語って親の心をなぐさめるがよい」。
 友人や妻子とは仲よく会話をするのに、父母に対しては、堅苦しがって敬遠し、たまにしかよりつかないのは徳に悖(もと)り、最高の不孝で愚かなことだと断じるのだ。
 歳末や正月など、年寄りはきっとさびしいにちがいない。「親孝行」の見世物が近所を通りかかったら、私は迷わず奮発するつもりだ。

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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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