老いを追う 14 〜年寄りの歴史〜

第五章 隠居はかなえられたか 2
 この時代に「ご隠居」と呼びかけられて素直に応じるのは、落語のなかの年寄りぐらいのものではないか。しかし長らくテレビのなかには、日本人ならだれもが知っている「ご隠居」がいた。番組のクライマックスで毎回発せられる言葉を借りると「恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公」、通称、水戸黄門のことである。
 元禄時代のこと、水戸藩主を隠居した徳川光圀が、助さんと格さんをお供に諸国漫遊の旅に出る。「ご隠居」は庶民を困らせている代官や商人がいると、三つ葉葵の印籠を見せつけて、「ご老公」としての正体を明かし成敗する。だから「ご隠居」とは名ばかりでかなりの達者なものである。では実際の光圀はどうだったのか。
 水戸藩第二代藩主の徳川光圀(一六二八~一七〇一)は、六十二歳で幕府から隠居の許可がおり、養嗣子に藩主を継がせた。翌年五月、「西山荘」という隠居所を建てたものの、活躍は続く。日本で最初の学術的な発想によるとされる古墳の発掘調査をしてみたり、「八幡改め」や「八幡潰し」と呼ばれる神社整理を行い、神社を破壊し、祭神を変更させてもいる。
 六十六歳になる年の三月、五代将軍綱吉の命で、光圀は隠居後初めて江戸にのぼった。その際藩邸で、幕府の老中や大名、旗本らと能舞を観劇していたとき、光圀自身も能装束で舞ったのち、重臣の藤井紋太夫を楽屋で刺し殺した。光圀引退後、紋太夫が高慢な態度を見せるようになったためだとも、光圀の失脚を企んでいたためだともいわれている。
 六十八歳の十二月二三日、亡き妻の命日に髪を剃り、仏門に入る。七十二歳頃から食欲不振になり、元禄十三年十二月六日(一七〇一年一月十四日)に食道癌のために死去した。享年七十三。
 「水戸黄門」の諸国漫遊は作り話だが、実際の「ご隠居」は、古墳の発掘、神社の整理、殺人事件と恐れ入るほど元気な余生を過ごしたのである。
 水戸黄門と同じく、テレビの時代劇で名を馳せた「大岡越前」こと大岡忠相(おおおか・ただすけ 一六七七~一七五二)も、徳川光圀とは別の意味で、隠居の道が遠かった人物である。
 忠相は旗本大岡忠高の四男として生まれたが、同族の大岡忠真の養子になり一九二〇石の家禄を継ぐ。将軍直属の親衛隊である書院番から昇進を重ね、四十一歳の若さで江戸町奉行に登用され「越前守」となる。町奉行として二十年のあいだに、町火消しを組織化したり、小石川養生所の設立や目安箱の設置などの施策を実行した。
 忠相が大名格となったのは、寺社奉行に栄転した六十歳まぢかのことである。それでも正式な身分は旗本のままだったことから、大名である寺社奉行たちからいじめを受けという。忠相が三河国西大平に一万石を領して、正式に大名に昇格したのは、七十歳を越えてからのことである。町奉行から大名に昇りつめたのは、江戸時代を通じて忠相だけだという。
 還暦を超えてからの寺社奉行職でも、忠相は大いに仕事に取り組んだが、体を痛めることにもなったらしい。
 寛延四年(一七五一年)六月二〇日、長年にわたり仕えてきた徳川吉宗が死去すると、忠相は葬儀の担当者のひとりに任命される。しかし葬儀の準備中のある日には、午前十時に登城したものの体調がすぐれず、午後一時に早退している。七十三歳のころから忠相は悪寒や不快や熱気、腹痛、のどの痛みなどの症状を日記に記すようになっていた。
 忠相は吉宗の葬儀を終えて四か月ほど経った十一月二日、寺社奉行と、兼務する奏者番の辞任を願い出る。だが寺社奉行の辞任は受理されたが、奏者番の辞任は認められなかった。その後は自宅療養に入ったものの、十二月一九日に死去する。享年七十五。
 忠相はたたき上げから昇進、栄転を重ねて、還暦を過ぎてからも重職を全うした。五十五歳から六十歳に延びた戦後日本の定年退職年齢を考えても、老体に鞭を打って主君に奉公したのである。大岡忠相の隠居は、到底かなえられなかったのだ。
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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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