老いを追う 2 〜年寄りの歴史〜

第一章 母をすてる 2
 老人をすてることはわたしたち日本人の慣らいであり、母をすてにいくことは決してひどい仕打ちでも、残酷なことでもない。そんなふうに自分に言い聞かせながら、姥捨伝承をしばし読みすすめていくことにする。
 『遠野物語』の遠野で、六十歳を超えた老人が追いやられる蓮台野(れんだいの)は、いくつもあった。『遠野物語』の続篇『遠野物語拾遺』では、蓮台野のことを「デンデラ野」と呼び、「方々(ほうぼう)の村のデンデラ野にも皆それぞれの範囲が決まっていたよう」だとある。つまり、老人をすておくための施設が、村ごとに準備されていたことになる。
 土淵町山口のデンデラ野は、いまでは遠野を代表する観光地のひとつとして、訪れる人も少なくない。「日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。そのために今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らに出ずるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリという」との言い伝えにちなんで、「あがりの家」という藁葺き小屋が建っている。こんなこれみよがしな建物はむかしはなかった。
 むかしというのはいまから三十数年前、わたしが初めて遠野を訪れたときのことである。伝承から湧きあがる想像では物足らず、目に見える物を必要としたのかもしれない。それにしても、現在の老人ホームが将来、名所になることはありそうにない。
 姥捨の風習を記した日本最古の書物は、平安時代に書かれた『大和(やまと)物語』で、信濃国(長野県)更級(さらしな)に住んでいた男の話である。
 男は母親を早くに亡くし、おば(伯母)に育てられた。しかし、男がめとった女房は腰の曲がったおばを疎んじ、「連れていって、山奥に捨ててきて」と男を責め立てていた。
 月が明るいある夜、「おばあさん。お寺でありがたい法要があるので、ご覧に入れましょう」と男がいうと、おばは喜んで背負われていった。高い峰に着くと、男はそこにおばをおいて逃げ帰った。月を眺めながら、男はおばとの暮らしを思い出し、たいそう悲しんで歌をよんだ。
「わが心 慰めかねつ 更級や おばすて山に 照る月を見て」。そしてとうとう男は引き返しておばを迎えに行った。
 この話は季節を明らかにしてないけれど、中秋の名月のイメージでこれまで読みつがれてきた。伝承のなかの姨捨はやはり風情がある。
 長野県には実際に、「姨捨山(おばすてやま)」と呼ばれる山がある。(『大和物語』では、「高き山のふもとに住みければ、その山にはるばると入りて、高き山の峰の、下り来べくもあらぬに、置きて逃げて来ぬ」と書かれているから、男がおばをすてた場所は、山の中腹よりも高いどこかだろうか。
 男が山から逃げ帰ろうとしたとき、おばは「やや」と言ったという。この「やや」は、現代語で「これ、これ」と訳される。男は「これ、これ」といって戸惑うおばに、返事もしないで逃げてきた。
 平安時代末期の『今昔物語集』にも似たような話があり、こちらのほうでは、「『をいをい』とわめけども、男、答えもせで逃げて、家にかえりぬ」とある。
 「をいをい」はまさに、「おい! おい!」としか言いようのない、取り乱した悲痛な叫びだ。中世びとは姥捨の残酷を、こんなにリアルに描いていた。
 ここにはまだ認知症の問題が含まれていないのもあって、かえって生々しい実感がこもっている。しかし記憶に障害をもった現代の年寄りのなかには、だまされるように、黙ってすてられにいくものも少なくないはずだ。
 『楢山節考』では、辰平が山から家に戻ると、辰平の息子はおりんの綿入れを着てくつろぎ、息子の嫁はおりんの帯をちゃっかり締めていた。この場面から母をすてた息子ほどには、ほかの家族は気にも留めていないようすがうかがわれる。またいっぽうで現代にも通じる、自宅での介護から解放された身内たちの安堵感を、わたしは感じる。
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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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