老いを追う 20 〜年寄りの歴史〜

第七章 老いらくの恋の顛末 2

 近世以前においては、一休や一茶のように老いても恋の花を咲かせ、精力的に異性を愛することは決して特異でなかったと思われる。
 一休は一流の知識人だったし、一茶も苦労は多かったものの流派をなした文人だった。だから二人は共通して、文字で記録を残す手段をもっていたのである。彼らが残した歌や日記は年寄り下ネタとしてではなく、芸術作品とみなされている。
 一茶は二番目の妻きくと交合した回数を克明に記した。夜も昼もという頻度は、現在の目からは「好色」とか、「絶倫」などと言えそうだが、また別の見方もある。江戸時代の農村部では農作業がないときには、大した娯楽もなく、セックスぐらいしかすることがなかったというのだ。また幼児の死亡率が高かった時代に、ひとりでも子孫を残すため励んだという人もいる。それこそ記録が残っていないので証明は困難だが、近代的な尺度から彼らの交合の多さに眉をひそめても偏った見方にすぎない。
 
 「老いらくの恋」という言葉が誕生したのは、戦後まもなくのことである。六八歳の歌人川田順が弟子と恋愛し、家出する。そして「墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし」と詩によんだことから用いられるようになった。
 川田順は東京帝国大学法学部を卒業後、住友本社に入社。理事、常務理事を経て、住友のトップである総理事就任を、自己都合で退職した。その後は歌人として、また『新古今和歌集』の研究家として、多くの歌集や評論・随筆を刊行。第一回帝国芸術院賞を受賞した。
 脳溢血で妻を亡くしたあと、六三歳のとき、元京都帝国大学経済学部教授の中川与之助夫人で、三〇歳代後半の俊子と出会った。中川夫妻には三児があった。
 作歌の指導や研究の手伝いなどをつうじて川田と俊子は恋仲となり、中川にも知られることになる。
 「わが娘には 隠さず告げて 出で来しと 言ひつつ君の 日傘をすぼむ」
 一度は別離を周囲に誓うが、関係は復活。中川夫妻の離婚が成立したものの、川田は自責の念から自殺を図った。
 「死ぬることを 決めし心の 吾が顔に 見えもやすると 怖れつつ逢ふ」
 亡妻の墓に頭を打ちつけるという壮絶な手段だったが、一命を取りとめる。しかし川田が、谷崎潤一郎など友人に遺書を送っていたことなどから、自殺未遂と俊子との交際が明らかになり、「老いらくの恋」と騒がれることとなった。
 川田六八歳、俊子四一歳でついに結婚。京都から神奈川県の国府津に転居し、俊子の二人の子を引き取り、余生を送ったのである。

 谷崎潤一郎の小説『瘋癲老人日記』(一九六二年)は卯木督助という七七歳の老人が、息子の嫁の颯子に抱く倒錯的な「性欲」を日記に形をとって描いた作品である。
 督助が夢見るのは息子の嫁、颯子の足に踏まれたいという異様なフェティシズムとマゾヒズムである。その究極が、颯子の足型で作った石の下で永眠することだった。
 「彼女が石を踏み着けて、『あたしは今あの老耄(おいぼ)れ爺の骨をこの地面の下で踏んでいる』と感じる時、予の魂もどこかしらに生きていて、彼女の全身の重みを感じ、痛さを感じ、足の裏の肌理(きめ)のつるつるした滑らかさを感じる。死んでも予は感じて見せる。感じないはずがない」(原文片仮名。以下同)。
 督助は肥満で、「きたならしく皺くちゃ」、高血圧で神経痛に悩まされている。この変態的な夢想は、そんな年寄りの願望なのだ、
 「泣きながら予は『痛い、痛い』と叫び、『痛いけれど楽しい、この上なく楽しい、生きていた時より遥かに楽しい』と叫び、『もっと踏んでくれ、もっと踏んでくれ』と叫ぶ。………」。
 谷崎の死後、颯子のモデルが明らかになり、主人公のようすが当時の谷崎の生活を彷彿させることから、瘋癲老人は作家自身の映し鏡だとみられる。
 川田と谷崎の「老いらくの恋」は、近代以降の年寄りの恋と性への執着を異なる形で体現しているのであった。

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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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