老いを追う 21 〜年寄りの歴史〜

第七章 老いらくの恋の顛末 3
 有吉佐和子の長編小説『恍惚の人』は高齢者問題、わけても認知症とその介護について扱った先駆的文学作品としてよく知られている。一九七二年(昭和四七年)に刊行されると一九四万部という大ベストセラーとなり、「恍惚の人」という言葉は流行語になった。
 この長編小説のことは改めて、詳しく考えていくことになると思うけれど、今回はここに描かれた「老いらくの恋」について綴ってみたい。
 おもな登場人物は四〇代の夫婦である立花信利と昭子、そのひとり息子で高校二年生の敏、信利の父で八四歳の茂造。信利は商社に務めるサラリーマン、昭子は弁護士事務所で働きながら家事に追われる。敏は大学進学の受験勉強のさなかである。
 茂造は長年つれそった妻が急死したあと、認知症が進んでいたことが明らかになる。それまで嫁の昭子にはつらくあたっていたが、彼女に頼らざるをえなくなる。昭子は勤め、家事、介護に忙殺されているが、信利は茂造の介護にはかかわろうともしない。
 茂造の妻の死後、立花家の近所に住む門谷家の七十代の女性が、茂造に近づき、世話を焼くようになる。老人施設に連れて行き、茂造が住む離れにあがりこみ、話し込んだり、うどんを一緒にすすったりもする。昭子にとっては、茂造の介護の負担が少しでも減るのだから悪いことではない。しかし周りの見る目は違った。
 「老いらくの恋って言うんだろ」と、茂造の孫の敏は二人の仲をからかう。
 「でもお爺ちゃんの方は閉口してるね、明らかに。僕が顔を出すと、救われたみたいに飛出してくるもの。押しかけ婆さんだね、あれは。面白いことになってきたな」。
 敏は祖父を施設に送迎するなど、昭子の唯一とも言える協力者だが、認知症の年寄りに対する老女の恋愛感情を興味本位でみているのである。しかし、「昭子は冷笑など思いも浮かばなかった」。夫の信利は、老化した父親を自分の「人生の延長線上」にいるように思えると言った。一方、昭子は舅にちょっかいをかける老婆に、自分の将来の姿を見て「凝然」とするのだ。
 「女は何歳まで色気があるものかと大岡越前守が母親に訊いたという話があるけれども、七十過ぎた寡婦が、八十過ぎた老耄の男に、その配偶者の死をまるで待っていたようにして近づくということがあってもいいものだろうか。昭子は自分がその方面で淡泊な女だと思っていたが、目の前の老婆の若やいだ躰つきや、華やいだ声を聞いていると、齢をとってからはどうなるか予想が立てられない」。
 『恍惚の人』は『瘋癲老人日記』などと違い、「老いらくの恋」をその周囲の目で見ている。しかも年老いた女性の恋愛感情や性欲に着目したところに関心の鋭さがうかがわれる。
 茂造と門谷家の老女の恋の行方について、「セックスをともなわないから安心だ」と見るものもいる。けれど昭子は、決して他人事として見ることができないのである。
 「自分の人生の行く末に、死よりもずっと手前にこういう悪魔の陥穽とでも呼ぶべきものが待ちかまえていようとは、若いときには考えも及ばなかった。齢をとるのか、私も。どういうお婆さんになるのか、私は」。
 この小説の「老いらくの恋」は、惚れられたはずの茂造がふられてしまうことで終わる。老女の恋心が冷めてしまったのだ。恍惚とした人のほうは恋愛関係にあったかどうかもおそらくわかっていない。この一方的な恋の顛末もまた、先駆的な認知症文学に現実味を与えているのだ。
◇◇◇◇◇
《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
・twitter