老いを追う 23 〜年寄りの歴史〜

第八章 恍惚の人々はどこにいたのか 2

 古来中国では「小、少、丁、壮、老、耄、耋」というふうに人生を区分していたという。「老」人よりも年寄りには「毛」をつけて「耄」と表わし、もっと年寄りは「老」を「至」るという字に乗せた。
 「私は享保十八年癸丑九月十三日の生まれだから、今年齢正月九日の節分までに、齢は八十四歳、日数で言えば二万九千九百十九日を経たことになる」。
 こんなふうに書いたのは蘭学医の杉田玄白で、『耄耋(ぼうてつ)独語』という随筆の一節である。有名な『蘭学事始』を玄白が書いたのは八三歳のときのことで、『耄耋独語』はその翌年に綴ったのである。この本で玄白は、「上の七竅」(きゅう。穴のこと)と呼ばれる眼、鼻、耳、口が不自由になったこと、さらには「下の二竅」、肛門と陰茎の不便と苦労についても、さすがに医者らしくリアルに記す。
 玄白は、人が老いぼれることを恥だとし、自分はそうならないように努力してきたが、どうもそれは無理みたいだと慨嘆する。最近では同じ話をなんども繰り返し、人や物の名前を忘れるようになった。しかもいまさら役に立たない古いことだと憶えているのに、新しいことは覚えられない。「老人八変」という古い言葉にある、「古きを記して新たなるを記せじ」というのは、いまの自分を述べたものだ……。
 『耄耋独語』は最後に、「老境のみじめさを知らない人びとのためにと思って、この身に経験したことどもを、いま八十にあまる老いの手で、書きとどめてみた次第である」としめくくられている。玄白は多くの門弟に看取られ、文化一四年(一八一七年)に数えの八五歳で亡くなった。

 柳田国男の晩年にも「耄耋」というべき逸話がある。
 『歌のわかれ』や『むらぎも』などで知られる作家の中野重治は、自身は社会主義だったが、民俗学者の柳田を敬愛していた。中野がある日、大間知篤三(おおまち・とくぞう)という民俗学者と、東京成城の柳田邸を訪ねたことがある。中野は柳田家への手土産に、草餅を持っていった。すると柳田はこういう意味のことを言った。
 「世田谷四丁目へんよりも、餅草はこのへんのほうがいわば本場だ。こっちでつくって持って行くのが本筋だが、そっちから持ってきてもらって恐縮だ」。
 さらに柳田は「時に君は高椋(たかぼこ)でしたね。大間知君は越中でしたね……」と、訪ねてきた二人の生まれ故郷を話題にする。するとしばらくしてまた柳田は、「時に君は高椋でしたね……」と繰り返す。四、五分もすると話がまたもどってくる。
 中野はやがて事態に気づき、息を呑んだ。
 「脳中枢というのか何というのか、矍鑠(かくしゃく)として見えるこの人のなかで、大脳生理とか神経生理とかいうところで、大木のコルク質にぽくぽくの部分が出来たような変化が生じてるのらしい。私はただ悲しくなってきた」。
 柳田邸を出た中野は、打ちひしがれて家まで帰り、家人にそのようすを話してからも腰の抜けたような気持ちでいたという。
 杉田玄白が『耄耋独語』で吐露したのと、まったく同じ症状を柳田国男も示している。しかし柳田は、中野が福井県「高椋」生まれで、大間知が「越中」富山の出身であることを忘れてはいない。話の繰り返しはともかく、民俗学者柳田にとって、ひとりの人間の顔と名前と故郷は、切っても切り離せないものだったのだ。

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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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