老いを追う 33 〜年寄りの歴史〜

第十一章 父を看取る。幸田露伴とその娘 3

 昭和二十二年(一九四七年)の七月二十八日、病床にあった幸田露伴の容態が急変する。前日の停電を境に何かがあったのだろうか。ひと晩で顔にやつれが見えるようになった。
「からだ中にがっくりした漬(つい)えが見えた。骨太なだけに筋肉が萎えはじめては、胸や肋骨がむごたらしく浮きだし、鎖骨の窪みは気味がわるかった。胃部が断崖のように落ち窪んで、腹がたふたふしていた。酒焼けの領(えり)もとがV字型に赤く、全身美しく白い皮膚だった。これが私のよく知っている四十余年間の父の、臨終の肉体だった。」(幸田文『父』)
 娘の文(あや)は子供のころ、姉と弟のようには父に気に入られることがなかった。それでも、疎んじられることがわかっているのに、父の肥ったお腹のあたりにまとわりつくことがあった。
 十六、七歳のときには欅がけで大きな背中を流した。嫁いでからは、老いて行く父を遠くから見ていた。出戻りになって、また一緒に住むようになってからは近くに仕え、晩年は看病の日々だった。
 文は、父にして父にあらざるものを見て、恐れおののく。露伴のからだの上には、死が這いあがってきていたのだ。「私は死の顔を知らなかっただけである」。他人は涙ぐんだりしたが、文はつまらなくなっていた。「こんなものならいやだ、もういらない」「こんなからだだけならいやだ」と思うのだった。
「瀕死の状態であってもなお高い処に寂として父の姿でいた。一人のこして行く文子をいとおしみつつ愛しみつつ憫れみつつ、微笑していたその眼、まことに慈父であった。いま私はみずから愛子文子と信じて疑わない。」
 空襲が激しかったころは、病床の父とともに、どこで焼け死ぬか、のたれ死ぬかも運命だと決めていた。そして今、きびきびした看取りとは言えないまでも、誠実さに欠けた手落ちのなさより、ずっといいと思うのだった。文豪の名声をかちえた人の周りにしては、あまりにも人が少なかったけれど、もともと親と子と孫の三人きりだったのである。
 昭和二十二年七月三十日、幸田露伴は千葉県市川市の菅野の寓居で生涯を閉じた。享年八十。江戸っ子の露伴は、東京には戻れぬまま生を終えた。葬儀に参列したのは、露伴が文化勲章を受賞した関係でやってきた政治家がほとんどで、文壇からの参列者は数えるほどだったという。

「母さん玉子来ました。お部屋移ったのね、昨夜苦しかった、今つらいとこある」
 露伴の孫で、文の娘の玉(玉子)も祖父の介護につとめた。そして母文の看取りも綴っている。
 入院中の母に声をかけると、ゆっくりと瞬きをして大丈夫という表情だった。口を利くことのない母との話は、止めどなく一人でしゃべりながら表情を読むことしかできない。
 一人しゃべりの中身と言えば、あたりさわりのない天気のこと、家のもののこと、飼っている猫のこと、植木屋を頼んで庭の手入れをしてもらったら、竹がさっぱりしたけど、雀はようすが変ったから来なくなってしまった。でも蹲(つくばい)の水をうまく案配してくれたから、そのうち水浴びに来るだろうといったことなどであった。
 聞いてはいても、天井を見ている母の目は動かず、何か別のことを考えているようだった。蜜柑を剥いて、
「食べてみる」
 と、差し出した幾房かを見ているものの、食べようとするようすはなかった。
「私は小さい時に父に死なれて以来、人の亡くなる時、看り手は死魔にくらまされるということを度々言われて来た。ちょっと離れて見れば死は鮮明な影を落しているのに、病人の状態を見馴れている家族などはかえってそれを見落すというのだ。すなわち眩(くらま)されるわけである。」(青木玉『小石川の家』)
 玉もまた、父、祖父、母を看取ることによって、文章を書くことになっていく。老いを追い、死魔にくらませれながら、冷めた眼と抒情を育んでいったのだ。

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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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