老いを追う 34 〜年寄りの歴史〜

第十二章 老人と子どもの絆 1
 日本の中世において大人の区分は、十五歳から六十歳までだった。
 村の寄合や一揆に参加するのは、この年齢幅に入る大人の男たちであり、六十一歳以上の「翁」と十五歳未満の「童」は、政治的な行動には加わらなかったとみられる。
 翁と童は賦役を免除され、童は刑事責任を追及されないといったように、老人と子どもは一人前とみなされることがなく、社会的責任や義務がなかった。その一方で、翁と童は神に近い存在として位置づけられていた。
 説話集や社寺の縁起、絵巻物などによると、中世の神は「翁」の姿をもとにしていた。
『今昔物語集』では道祖神や八幡神や稲荷明神が老翁の姿で、『一遍上人絵伝』では熊野権現が白髪の山伏姿で出現している。神はまた童の姿でも現れた。
 大人の男を中心に成立していた中世の社会では、その周縁に位置づけられていた翁と童は、かえって神の化現にふさわしかったのである。
 また、神に近いということは、死に近いということも意味した。
 こうした区分の面以外でも、老人と子どもは強い絆で結ばれていた。
 中世の絵巻物を読み解くと、杖をつく腰の曲がった老人とその手を取る孫の姿は、年寄りを表す典型的な図柄であると同時に、老人と子どもの身近さを示す表現でもあった。
 また老人の介護は、子どもの仕事の一つだった。そして子守は、年老いた老人の仕事だった。子どもが赤子を背負う姿は、中世には見られない。
 一人前の仕事ができなくなった年寄りは、糸を紡いだり、孫のお守りをするなど、補助労働の担い手になった。子どもと老人は、介護と子守によって互いに支え合い、深く結ばれていた。そうして老人が蓄えてきたさまざまな知恵が、子どもたちに伝えられていったのである。
 民俗学者の宮本常一は、七歳まで祖父母に育てられたという。
 山口県の周防大島で生まれ育った、宮本の祖父市五郎は、弘化三年(一八四六年)に大島で生まれ、昭和二年(一九二七年)にそこで死んだ。
「八、九歳になるまで、私はこの祖父に抱かれてねた。そして多くの昔話をきいたのである。はじめは童謡のようなものをきかされた。いまから考えると早物語といわれるもので、口調がよいのでおぼえやすかった」。
 市五郎は常一と夜一緒に寝るだけでなく、山へも連れて行ってくれた。
 常一は背負い籠の中に入れられて山へ行くと、石を拾って来て積み重ねたり、木の葉をとったりして、ひとりで遊んだ。そしてさびしくなると「じいやァ」と呼び、「おーい」と返事があると安心した。常一が五、六歳になると畑の草引きをさせられるようになった。「おまえが一本ひいてくれるとわしがそれだけらくになる」。最初のうちは一畝も取るとうんざりしたが、ほめられるうれしさから、仕事の根気が出るようになった。
 草取りのご褒美は、ツバナ、スイバ、イタドリ、野ブドウ、グミといった田畑の畔に野生している果実や草花だった。
 常一が十歳を過ぎると、ふたりで寝ることはなくなった。それからのち、祖父は夜になるとひとりでうたをうたっていた。それは市五郎が亡くなるまでずっと続いたのだった。
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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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