老いを追う 35 〜年寄りの歴史〜

第十二章 老人と子どもの絆 2

 山口県周防大島出身の民俗学者、宮本常一の幼少年時代の記憶をとおして、ひきつづき老人と子どもの絆についてみていきたい。
 若い母親は子どもができても、朝早く家を出て、山で働かなければいけない。だから老人のいる家なら、子どもはその間「ばァさん」が世話をする。ばァさんのいない家では、親類の娘を子守りに雇う。こうして六、七歳になるまでは、祖父母のもとで育てられる。宮本も親類の子どもに背負われたことはあるが、祖父母がいたので、年寄りに面倒を見てもらった。
 周防大島にも、この連載の第五章「隠居はかなえられたか」で取り上げたような「隠居」の制度があった。しかしこのあたりで隠居というのは、老人夫婦だけで隠居家に移り住むことだった。隠居家は「ヘヤ」と呼ばれ、土間の向こうや母屋に葺き下げて造った小さな一間で、かまどを築いて煮焚きができるところもあった。宮本家のヘヤには寵がなく、食事は祖父母と母屋で一緒にした。
 男が六十一歳になり還暦を祝うと、それから後はヘヤ住まいになる。女の方は「シャクシワタシ(杓子渡し)」と言って、嫁に杓子を渡すと、米や穀物を入れた俵戸棚に手をかけなくなる。
 年寄りたちが隠居後も働くのは、周防大島でも同じだった。
 婆さまたちは苧績みをして小遣いをかせぎ、爺さまたちは菜園の手入れをした。筵織り、菰編み、草履作りなどの稟仕事も、老人の役目だった。五月や一〇月の忙しい時期などには田畑の仕事を手伝った。隠居をしても仕事の分担が変わるだけで、楽をするのでは決してなかった。
 常一は幼少のころそんな祖父母たちにヘヤで育てられた。

 山仕事から戻ると、必ず夜は祖父の肩を叩いたり、足を揉んだりして、その代わりに昔話をしてもらった。常一はそれが楽しみで、祖父に抱かれていつも寝た。ところが話をぜんぶ聞き終わらないうちに眠ってしまう。後年に、記憶する昔話を書きとめるとかなりの数にのぼったが、忘れてしまったものの方が多かった。
 昔話は祖父ばかりでなく、年寄りたちはみんなよく知っていた。常一の祖父は三人兄弟で、祖父以外の二人は早くに死んだが、祖父は八十三歳まで、祖母は七十八歳まで生きた。法事などがあると年寄りが数多く集まり、子どもを相手に遊んだ。そのときに語られる昔話は、恐ろしい話やおどけた話が多かった。子どもが好んで聞くのはお化けの話で、年寄りはそれがほんとうにあったことのように話して聞かせた。

 このようにして常一は六歳まで祖父のもとで育てられ、七歳の春から父母のもとに入った。それでも一〇歳頃までへヤへ泊りに行くことは続いた。六歳の暮れに母方の祖父が小さな「負い籠(おいこ)」をこしらえてくれて、七歳からは労働を教え込まれた。
 母親の里は東隣りの家だったので、常一は四人の祖父母に毎日接することができた。この外祖父は孫の成長への心づかいがあり、端午の節句に立てる幟を買ってくれた。祖父が素朴な昔話をしてくれたのに対して、講談が好きな外祖父は小栗判官や宮本武蔵の物語を「史実」として話してくれた。
 この母方の祖父も、常一にとって絆がなつかしい老人だった。

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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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