老いを追う 38 〜年寄りの歴史〜

第十三章 カフカの『変身』は老人問題を描いているのか 2

 毒虫に変身したグレゴール・ザムザは、家族や勤め先の支配人に醜い姿を見せたため、父親にステッキで追われ、傷つけられる。部屋に閉じこもったグレゴールに、妹のグレーテは、その姿を嫌悪しつつも食べ物を差し入れる。
「そこには甘いミルクを容れた鉢があり、ミルクのなかには白パンの小さな一切れが浮かんでいた。彼はよろこびのあまりほとんど笑い出すところだった。朝よりも空腹はひどく、すぐ眼の上まで頭をミルクのなかに突っこんだ。だが、間もなく失望して頭を引っこめた。」
 虫に化したせいだろか、食べるのがむずかしいだけでなく、これまで好物だったミルクがまったく美味しく感じられないのだ。
 妹はグレゴールの好き嫌いを知るため、いろいろな食べ物を運んできた。
 半分腐った古い野菜、固まってしまった白ソースにくるまった夕食の食べ残りの骨、一粒二粒の乾ぶどうとアーモンド、二日前にはまずくて食えないといったチーズ、なにも塗ってないパン、バターを塗ったパン、バターを塗り塩味をつけたパンといったものである。
 どの食べものよりも、チーズがグレゴールを強くひきつけた。勢いよく、満足のあまり眼に涙を浮かべながら、チーズ、野菜、ソースと食べていった。ところが新鮮な食べ物はうまくない。匂いが我慢できず、妹がせっかく持ってきてくれたのに、部屋の脇に引きずっていくのだった。
 人は老いるにつれて、食べ物も嗜好が変わることがある。これまで大好きだったものが受けつけなくなり、嫌いだったはずのものが苦手ではなくなるといったことである。またアルツハイマー病をはじめとする認知症でも、味覚の変化が生じるという指摘もある。グレゴールが、急速かつ過度に味覚が変わったのは、こうした老耄の症状をも思わせる。

 グレゴールはそのうち、部屋の壁や天井を、縦横十文字にはい回る習慣を身につけた。兄の習慣に気づいたグレーテは、邪魔になる家具を部屋からどけてやろうと、母親と一緒に運びはじめた。しかし、母親は思いなおして、「たんすはやっぱりこの部屋に置いておくほうがいいのでないか」と言うのである。
「家具を取り片づけたらグレゴールがどう思うことかわかったものではない。自分は今のままにしておくほうがいいように思う。何もない裸の壁をながめると、胸がしめつけられるような気がする。そして、どうしてグレゴールだってそんな気持がしないはずがあろうか」。
 グレゴールは部屋の家具に慣れ親しんできたから、がらんとした部屋では見捨てられた気がするにちがいない。家具を片づけるのは、私たちが、グレゴールがよくなることをあきらめたと見せつけることになるのではないか。グレゴールが元の姿で自分たちのところへ戻ってきたとき、なにも変っていないことを見て、それまでのことが忘れられるようにしておくことが望ましい。母親はこんなふうに娘に主張した。

 母親の言葉を耳にしたグレゴールも、自分の頭の混乱を整理する。
 先祖伝来の家具が気持ちよく置いてあるこの部屋を、洞窟に変えてしまってよいのか。がらんどうになれば、なんの障害もなくあらゆる方向にはい回ることができる。しかしそんなことをすれば、
「自分の人間的な過去を同時にたちまちすっかり忘れてしまうのではなかろうか。今はすでにすっかり忘れようとしているのではないだろうか。そして、長いあいだ聞かなかった母親の声だけがやっと彼の心を正気にもどしたのではあるまいか。何一つ取りのけてはならない。みんなもとのままに残されていなければならない」。
 と考えるのである。
 急激な老化、あるいは認知症を思わせるような症状に陥った家族を、どのように遇するか。もちろん本人も自身の扱いに苦悩し、周囲の変化に居所を見失おうとするのである。

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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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