老いを追う 46 〜年寄りの歴史〜

最終章 老いに追われて 1

 去年の10月から始めたこの連載も、これから3つの話で最後となる。いま「さいご」と打ったら「最期」と変換された。近頃、臨終や末期のことばかり書いているからだろう。
 連載タイトルを「老いを追う」と決めて1年近く、とりとめのないことばかり綴ってきたのだけど、週いち更新の締切りに追われてなんとか続けてきた。そして、この1年間は、老いに追われてきた。
 私は来月、56歳になるのだが、「アラサー」「アラフォー」「アラフィフ」のような呼びかたで、60歳前後のひとのことを「アラカン」というらしい。「アラカン」は「アラ還」であり、「around還暦」の略だという。「アラ~」は、プラスマイナス3歳、あるいは4捨5入を目安にする場合があるようだが、私はほぼ「アラ環」だといえるだろう。
 なぜ「アラウンド・サーティー」などと違って、60歳前後だけ、還暦のような古くからの言葉を使うのだろう。
 連載の最初の頃、「還暦」や「60歳」をめぐって、なんどか書いた。還暦は、「十干十二支」による生れ年の干支に戻る年で、「本卦(ほんけ)がえり」ともいい、数え年61歳をいう。古くから61歳を隠居の年齢とし、年祝いの一つで、長寿の賀を祝った。さらにまた、「60歳」は姥捨山にすてられにいく年齢だった。つまり私は、「隠居」にしても「棄老」にしても、カウントダウンの状態に入っているわけだ。
 もちろん隠居ができる身分でもないし、背負われてすてられにいくような山も近くにはない。ただ寄る年波を、ひしひしと感じるばかりである。

 この連載では、「若返り」や「不老」の伝承についても語ってきた。私自身が若返りたいか、老けたくないかと問われれば、老けたくないという気持ちはある。またいっぽうで「年相応」という言葉をたよりに、年齢なりの生活が送れればじゅうぶんだとも思う。
 自分の年齢を思いかえすような機会に、いまを生きている同年代の人のことより、過去のだれかが、同じ年齢の頃になにをやっていたかと、先人の年譜をみることがある。すると私が気になる先人の多くは、56歳にもなるとかなりの仕事を果たしている。私もこれまで10冊以上の本を書いてきたけど、どの本も満足した出来栄えだとは思っていない。それでもこれから先も、性懲りもなく本を出し続けていくのだろう。

『生物と無生物のあいだ』や『動的平衡』で知られる分子生物学者の福岡伸一は、細胞レベルでみたとき、「私たちの身体は、1年前と今ではすべてが新しくなっている、と言えるほど変化している」と言っている。たいへん魅力的な説だが、するとこの連載を始めたときの私と、現在の私はほぼ別人だということになる。しかし、自分が別人だと主張しても、周りが認めてくれないだろう。
 社会というものはおそらく、記憶や約束によって成り立っているにちがいない。そうしてだれもが、自分に都合のいい記憶だけが残ることを望んでいるのである。

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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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