土の上 5

 一九七一年八月十四日、父はイギリスのガトビック空港へ到着した。横浜を出港してからわずか四ヶ月後のことではあったけど、父はすっかりヨーロッパ生活に溶け込んでいた。時々、日本を懐かしがる日本人に話しかけられ、その度に日本人でない振りをした。苦労してやっとの思いでやって来たヨーロッパで日本語を喋るのは勿体ないと思った。
 空港から電車でロンドン西部のリッチモンドの高級住宅街にある教会を目指した。駅から十分ほど歩いたところに教会はあった。その三階建ての大きな豪邸は一七〇〇年頃に建てられ、かつてはパブとして使われ、何年もの歳月を経て改造を加えられた歴史的にも価値のある建物だと後に知った。
 勇気を出してドアのベルを鳴らすと、愛想の良い金髪の青年がドアを開けてくれた。玄関ホールへ通され待っていると、威厳のある中年の黒髪の牧師が現れてニコニコしながら手を差し伸べてくれた。父はそれが歓迎の握手であることを悟って安心して思わず笑みがこぼれた。
 早速執務室に連れて行かれ、教会の活動内容から父をここに置いてくれる目的や意義などを教えてくれた。報酬は宿泊料と食事代のみである事、そして、すべての教会の集会に参加しなくてはいけないとの事だった。
 教会で初めに任された仕事は芝刈りや掃除だった。仕事の合間には必ずティータイムがあり、皆で大きな居間で紅茶とビスケットを飲み食いし、談笑しながら一時間も座っていなければならなかった。父にとってそれは退屈で仕方なく、お茶を飲み終えるとさっさと立ち上がって次の仕事に取りかかってしまった。牧師はそんな父をたしなめるどころか父の勤勉さに好感を持ってくれた。父はここでもよく働く日本人だった。
 三ヶ月経った頃、父は大工仕事を任されるようになった。大きな平たい舗装用の石をチズルとハンマーで叩いて切り、その石で庭園の傍の石畳を作った。そして、近くにベンチも据え付けた。天気の良い日はそこでティータイムを楽しむようになり、父は教会を訪れるたくさんの人々の賞賛を浴びるようになった。この頃から、父は物作りの才能を発揮し始め、英語もかなり流暢に話せるようになっていった。
 教会には多種多様の文化圏の人々が礼拝にやって来ていて、知らず知らずのうちに国際感覚を身につける事ができた。これは、父の語学熱にますます火をつけた。父はまともな語学教育は受けられなかったけど、仕事をしながら生きた言語を無償で習得する事ができた。ちなみに、父は帰国して間もなく英語検定一級を取得することができた。
 イギリスでの滞在が十ヶ月になろうとする頃、スウェーデンのパン工場の工場長から一通の手紙が届いた。今年もうちの工場で働いてくれ、との事だった。おまけに宿泊は自分の家に来てくれてもいい、と。スウェーデンでは約一ヶ月の夏の有給休暇制度が国で保障されているから、毎年夏になるとその労働力の穴埋めをすべく、父のような臨時雇いが不可欠となる。
 スウェーデンに向かう途中、父は初めてまともなヨーロッパ旅行をした。イギリスで知り合ったノルウェー人がベルゲンの友人宅へと招いてくれたのだった。ベルゲンはノルウェーの西海岸に位置するフィヨルドからなる七つの山に囲まれた美しいノルウェー第二の都市である。
 ロンドンのキングスクロス駅から電車で五~六時間かけて北部のニューカッスルまで向かい、ニューカッスルの港から船に乗った。船から見える景色はこれまで見た事のない美しさだった。
 ノルウェーでは一週間の楽しい思い出の残る休暇を過ごす事ができた。特に父の目に焼き付いたのは、綺麗な風景とそこに点在する美しい家屋だった。父は思わず「将来こんな家を建ててみたい」と思った。

 ベルゲンを後にしてオスロから電車に乗り、六時間ほどかけてストックホルムの中央駅に着いた。そして、ほぼ一年ぶりに再び顔なじみの連中がいる職場に復帰し、再度帰国するイギリスでの生活費を稼いだ。
 宿泊していた工場長の家は職場から近く、毎朝工場長の車で工場まで通う事ができた。朝食は工場の食堂でパンとヨーグルト、コーヒーで済ませた。仕事は朝早くに始まって午後一時には終わり、シャワーをしてから工場長と一緒に帰宅した。家の台所を自由に使わせてくれたから、毎日自炊することができた。父は現地の食事にはすぐに順応することができた。イギリスではイギリスの、スウェーデンではスウェーデンのものを食べてそれなりに味を楽しめるまでになっていた。たまに出逢う日本人の多くが、こちらの食事はまずい、とか、美味しい日本食が食べたい、などと愚痴をこぼしていたけど、父には何の苦痛も問題もなかった。むしろ反対で、日本で貧しさのためろくでもないものしか口にできなかったことが皮肉なことに役に立つ結果となった。
 そして、三ヶ月間の労働を終えてイギリスに再入国する時には、稼いだ金額はイギリスでの一年間の生活費を賄えるほどの額に達していた。

 二年目のイギリスでは、牧師を始めとする指導者たちが父の器用さと芸術的センスを高く評価してくれるようになり、与えられる仕事内容はより高度なものになっていった。
 父が来た当初から、教会の敷地内に八十平方メートルほどの事務所を建てる計画が持ち上がっていて、いよいよそれを実行に移すことになった。建築設計は教会で執務をしていた五十代のデンマーク人の女性建築家が担当した。しかし、それ以外に集められた父を含めた五人のメンバーは誰一人として家を建てたことがなかった。
 お粗末な基礎の施工の後、三日かけて何か所もの解体現場を廻って壁用のレンガを調達した。レンガ集めにはかなり手間がかかった。イギリスのレンガは日本のレンガの倍ほどの重さがあり、足場の悪い現場から運び出すのは重労働だった。毎日汗と埃まみれで下宿先に帰った。日本のように疲れを癒す風呂はなかったから、唯一の疲労回復は夕食をガツガツ食べるしかなかった。しかし、イギリス人の夕食はとても質素で、腹ぺこの父には到底我慢できず、たまらずリッチモンド橋の麓のフィッシュアンドチップス屋で自腹を切ることにした。テムズ川の岸辺のベンチに座って油だらけになった手をズボンで拭きながら、古新聞に包まれたフィッシュアンドチップスを掻き込んで何とか胃袋を満たしたのだった。
 建築作業は続いた。集めたレンガを積んで壁を作り、木材を解体現場から調達して屋根を作った。秋の初めから始まった事務所の建築は、その年のクリスマスを間近にした頃に完成した。この頃、教会の主任牧師が父のところにやって来て、父に将来どの様な計画があるのか、もし特に何もなければ正式に管理人として雇っても良い、と言ってくれた。しかし、否応無しにここにやって来た父はこんな所に長くいるつもりはなかった。父のイギリス滞在の目的は熱心なキリスト教徒になることでも、管理人になることでもなかった。スウェーデンでの出国を余儀なくされ、切羽詰まった状況下ではここに来るしか他に行き場がなかったというのがイギリス滞在の第一の理由だった。
 
 教会にはヨーロッパの各国から様々な留学生がやって来て生活を共にしなければいけなかった。イースターの頃、一人のオーストリア人の青年がやって来た。清掃会社を経営する裕福な彼の両親は、何一つ苦労をしたことのないやんちゃ坊主の息子に手を焼いていた。運悪く父は彼の子守役も兼ねて同じ部屋で暮らすことになった。父にとっては良い迷惑だったけど、一緒に住んでみると案外素直で良い奴だとわかった。彼はしきりに裕福な家族のことやガールフレンドのことを得意になって話してくれた。そして、彼はどうして父がこんなつまらない所で働いているのかとしつこく聞くようになった。そして、もし良かったらいっその事オーストリアに来ないか、その気があるならすぐに父親に手紙を書いてあげる、とまで言ってくれた。やがて彼が帰国し、部屋に一人取り残された父は急に寂しくなった。それと同時に、オーストリアへの憧れが日増しに高まっていった。
 牧師にこのオーストリア行きの計画を話すと、頭ごなしに強く反対されてしまった。やむなくこの計画を断念せざるを得なかったけど、それ以降、父は密かに何とかここを脱出する機会を窺うようになった。
 イギリスでの三度目の夏を迎える頃、一人のフィンランド人の女性信者がやって来た。日本人の父が珍しかったのか、二人はすぐに親しくなった。彼女は父の脱出計画に同情的であると同時に、それに対する具体的な提案までしてくれるようになった。そして、父は快く首を縦に振らない牧師の元を去り、彼女がかつて在学したフィンランドの聖書学院に入学することとなった。

 夏が終わる頃、父は次の長期滞在地のフィンランドに向かった。ヒッチハイクでニューカッスルへ向かい、ノルウェーのベルゲンとトロンハイムで友人たちの家を訪ね、オスロを経由してストックホルムへ向かった。そして、再びパン工場の工場長の家に世話になり、しばらく工場で働いてフィンランドでの学費と滞在費を稼いだ。何かと良くしてくれた工場長夫妻に別れを告げ、父は再びフィンランドを目指した。
 フェリーでフィンランドのツルクに向かい、ヘメーンリンナ行きの長距離バスに乗り込んだ。リーヒメキで乗り換え、いよいよ聖書学院のあるリュッテッラへと到着した。八月の半ばで、新学期が始まるまでは三週間ほどあった。その期間の滞在費は自己負担とのことだったけど、校長の特別な計らいのおかげで、ここで働くなら食費・宿泊費は払う必要はない、と言ってくれた。施設で働く中で自然と言葉に馴れ、学ぶことがことができた。
 そのうちに九月になり、学院は新学期を迎えた。フィンランド中から約六十名の生徒たちがやって来た。彼らのほとんどは日本人を見るのが初めてだったから、父は注目の的だった。
 学院は全寮制で、皆と生活を共にしながら聖書を学び、賛美歌を歌い、祈祷する毎日だった。初めのうちは授業内容が理解できず苦しんだものの、だんだん解るようになっていった。

 やがてクリスマスもイースターも過ぎ去り、再び美しい夏が訪れた頃、父はそろそろフィンランドを去ることになった。そして、かつてイギリスで断念したオーストリア行きの計画を立て始めた。しかし、またもや計画を断念せざるを得なくなってしまった。海外宣教本部の事務局長が父の知らないうちに勝手に日本行きの切符を買ってしまっていたのだった。彼は父が学院を終えたらすぐに日本に帰国するものだと思い込んでいたらしい。父は例えオーストリア行きがダメになったとしても日本には帰る気はなかった。差し出された切符を見て無性に腹が立った。彼は日本宣教を始めて間もない宣教師を是非手伝ってほしい、と熱心に頼み込んできた。何度も拒否したけど、ついに断りきれずに帰るつもりのなかった日本に帰国するはめになった。
一九七五年五月、父は複雑な思いを抱えたまま、リーヒメキ駅でモスクワ行きの国際列車に乗ってしまった。(次回へつづく)

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《著者プロフィール》
宮崎信恵(みやざきのぶえ)
1984年徳島生まれ。
STOMACHACHE.として妹と共に雑誌などのイラストを手がける。
その他、刺繍・パッチワーク・陶芸・木版画・俳句・自然農を実践する。
http://stomachache.jp
http://nobuemiyazaki.tumblr.com