土の上 11

 大学生の時、学校での制作とは別に妹とイラストを載せた小さな冊子を作っていた。私と妹は同じ大学に通っていて、一緒に住んでいた。relaxという雑誌を見て作り始めたその手作りの冊子は、ジン(zine)と呼ばれるものだった。
 大学が長期休みに入ると、帰省中によく梅田のCD屋のチラシ置き場に勝手にジンを置いていた。私たちは近くの休憩所でジュースを飲みながら、それを手に取る人たちを眺めていた。どんな人が自分たちの作ったものを持って行ってくれるのか、見た時にどんな反応をするのか、そういうことを知りたかった。よく観察していると、新しい号を置く度に持ち帰ってくれるリピーターのような人も現れた。店員が日の過ぎたチラシを処分しに来て、ジンに目を通すとちゃんと元の場所に戻してくれたこともあった。すごく嬉しい瞬間だった。

 ある夏、大阪の音楽フェスの会場で外国人の兄弟に会った。仲良くなれそうな気がして、勇気を出して拙い英語で話しかけ、二人にジンを渡した。すると、ちょっと待ってて、と言って彼らは姿を消した。再び現れると、同じように手作りのジンと缶バッジをくれたのだった。予想外の出来事に私たちは驚いた。面白いことがあるもんだな、と思った。
 彼らはアメリカから来ていて、弟がバンドのドラマーとしてライブに出演していたらしかった。ジンを気に入ってくれたらしく、後日メールが来てバックナンバーを送ることになった。向こうからもジンやCD、ステッカー、手作りの羽飾りなどが送られてきた。彼らはまだ高校生くらいだったけど、自分たちでレーベルを作って音楽活動をしているようだった。当時の私たちには想像できない世界で、アメリカの自由な空気を感じた。そして、彼らとのやり取りを通じて、私たちの小さな部屋が世界に繋がっているんだ、とすごくワクワクしたのを覚えている。学校では味わうことのできない楽しさだった。

 ある冬の年が明けてすぐの頃、私たちのメールボックスに一件のメールが届いた。リトアニアの写真家の青年からだった。以前に妹が彼のウェブサイトを見てそこに載っていた住所宛にジンを送ったらしく、それが彼の元に届いたようだった。
 年の近かった私たちはすぐに友達になった。何回かのメールのやり取りで、リトアニア語で「こんにちは」は“labas”ということ、リトアニアの冬はマイナス二十五℃にもなるから子供たちは学校に行く必要がないこと、おじいちゃんの家の近くで月の表面みたいな場所があったこと、彼の住む地域は霧深く、山はないけどトローリーバスと羊とヤギ、そしてたくさんの湖があること、などを知った。それらを読んで、行ったことのない遠いリトアニアという国を想像した。
 やり取りを始めて間もない頃、“maybe we should do a collab ?”というメッセージが届いた。返事はもちろん“yes!”だった。
 私たちは一緒にジンを作ることにした。彼は写真を撮っていたから、彼の写真と私たちの絵を組み合わせるものだと思っていた。でも、意外なことに彼はショートストーリーを書く、と言った。初めの頃から、英語のメッセージの端々からは詩的な雰囲気を感じていたから、素直にそれを受け入れた。彼はすぐにいくつかのショートストーリーを送ってくれて、私たちはそれに合わせて絵を描いた。
 それからお互いにアイディアを出し合いながら、どんなページにするかを決めていった。彼は次々と良いアイディアを提案してくれた。おまけにステッカーを作ろうとか、色んな紙を使いたいとか、この本ができるまでの経緯と過程を書こうとか、リトアニア語と日本語の辞書のページを作ろうとか。

 春が過ぎ、夏の半ばにようやく完成した。全部で一七七冊製本し、五〇冊をリトアニアに送った。一七七という数字には特に意味はなかったけど、二〇〇よりも素敵な数字だ、と彼が決めた。やっと完成したときは嬉しかったけど、少し寂しくもあった。
 私たちはその後も時々連絡を取り合っていた。東日本大震災の時にも心配してメールをくれた。彼はドイツに住んだり、スウェーデンに住んだりしているらしかった。いつか会おうと言っていたけど、私たちは未だに会えていない。彼は今どこに住んでいるのだろうか。久し振りにメールを送ってみようか、という気になった。

◇◇◇◇◇
《著者プロフィール》
宮崎信恵(みやざきのぶえ)
1984年徳島生まれ。
STOMACHACHE.として妹と共に雑誌などのイラストを手がける。
その他、刺繍・パッチワーク・陶芸・木版画・俳句・自然農を実践する。
http://stomachache.jp
http://nobuemiyazaki.tumblr.com