国境線上の蟹21

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「そこにあった生」につまずく
 
 
 ミュンヘンの中心部・マリエンプラッツ(マリエン広場)を歩く。ここはカトリックとプロテスタントの争いがヨーロッパを二分する国際戦争に発展したいわゆる三十年戦争の最中の1638年、プロテスタント国家のスウェーデンに占領されていたミュンヘンの解放を祝って整備された広場だ。
 現在は新市庁舎——〝新〟とは言っても建造されたのは1874年だが——が前に建っているせいか、デコボコだらけのクラシカルな石畳が多いミュンヘンでは、地面はかなりフラットに整備されているほうだ。そのため、家族連れや読書する老人はもちろん、この街ではなかなか珍しい(ような気がする)スケーターの若者もちらほらいる。
 歩いているうち、後ろから来たスケーターに追い越される。彼はカシカシと小気味よく交互に斜めのタッキング(チックタック=TICK-TACKという基本の動作)をしながら時おり足で地面を蹴りつつ進んでいたかと思うと、10メートルほど先の歩道の入り口でテールを踏みこんでジャンプ。そのままスケートを小脇に抱え、すたすたと歩いて行った。
 彼の姿をのろのろと歩きながら追いかけるともなく追いかけていた自分はおや、と思う。彼がジャンプした歩道の端は数メートル後方から見ると広場となんら変わらない平坦な石畳で、そのまま滑り続けていてもなんら問題はないように見えたからだ。興味を惹かれて彼がジャンプした地点まで向かうと、広場と歩道の境目には2センチに満たないくらいではあるが、段差がある。
 この程度の段差は、成人男性の歩行者である自分にとってはほぼ平地と同じだ。自分はよそ者だからもちろん初見ではあるが、この街に住んでいる人も、意識して見てようやく「こんなところに段差があったのか」と思うだろう。それくらい些細な段差だが、ウィールの小さなスケートボードにとっては確かにけっこうなハードルではある。

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 街という空間は、そこを移動する人それぞれの方法やスピード、何に注意を払うかといった固有の要素によって、人の数だけ、そして観念的にではなくフィジカルにその姿を変える。スケーターの彼がもし歩きだったらわざわざそんな段差でジャンプしたりはしないだろうし、なんなら20センチ程度の段差もひょいと越えてしまうだろう。
 20センチくらいならスケートでもジャンプで越せるかもしれないが、重い荷物をぶら下げて、しかもベビーカーを押していたりすると持ち上げるのがやや億劫になりそうな高さだし、仮に車椅子だったら、それは壁にも等しいハードルだ。そうした場合は迂回ルートを取らざるを得ず、例えばGoogleマップで見る平面の地図が示す近道は、その人にとってなんの意味も持たなくなる。それぞれの人間にとって、街を歩くための地図は高低差や交通量の激しさ、よく吠える犬のいる家といった立体的な情報を伴ってGoogleマップとは別レイヤーに生成される。それはその時々の状態やコンディション、あるいは天候などによって日々変容していく場合もあれば、人によっては十年一日のごとく同じルートを取り続けるものもいるかもしれない。
 街を捉える視線は移動のスピードによっても変化するため、日頃車で通る道を歩いていたらそれまで気づかなかったパン屋や鉢植えなどにふと目が留まる、といったこともしばしば起こる。私たちの知覚は空間を構成する多種多様な情報・要素からその時々のスピードで認識可能なものを認識するようにできているので、単純に考えるとスピードが遅ければ遅いほどその空間の解像度が高まることにはなる。だが、多くの場合、人は自分の好みや思考の枠内でしかその空間を捉えないので、毎日同じ道を歩いたからといってその沿道の全てを把握できるわけではない。私たちは、あくまでもその時々の状況に応じて自分に都合のいいように再構成した世界の中を生きている。
 都市と建築、そして人間の動態などについて興味深い研究を続けるジェフ・マノー(彼のブログ「BLDGBLOG」は非常に面白いのでぜひ一読をお勧めする)はその著書『A Burglar,s Guide to the City(泥棒による街のガイド)』(未邦訳、 2016 FSG Originals)において、他人の所有する建物に盗みに入ろうとする存在である泥棒の目や思考になってみることで都市や建築の構造を再発見/再定義していくというユニークな試みを行っている。このように自らのうちに他者性をインストールしてみるという行為を通過してみると、自らの存在する空間に対する考え方は大きく変わる。それはコソ泥でなくてもいい。腰の曲がった老人でも、障害者でも、言葉のわからない外国人でも。人の数だけ、その空間の見え方は存在する。そして、フィジカルな空間に貨幣や制度や思想といったフィクショナルな要素を加えた舞台装置であるところのこの社会や、その縦の連なりである歴史もまた、そうだ。
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 ミュンヘンは前章でも触れたとおり、バイエルン王国の首都としての地元愛と、ベルリンに対する対抗意識を強烈に抱いている。それがこの美しい街の矜持と、全体的な文化度の高さにもつながっている。
 そして、この街は、ドイツ第三帝国の総統アドルフ・ヒトラーと、彼が率いるナチス・ドイツを育んだ街だ。
 ウィーンに生まれて貧しい靴職人(諸説あり)から独学で公務員となり、学歴のないものとしては異例の栄達を果たした父・アロイスへの反発もあって学業を徹底的にサボったあげく落ちこぼれ、何者でもなかったヒトラーがミュンヘンに移住したのは1913年、24歳の時。第一次大戦が始まるとバイエルン王国の陸軍に志願して、勇敢な活躍で表彰されたという。終戦後、ドイツを代表する政権としてベルリンで成立したヴァイマル共和国に対抗するバイエルン民族主義の動きが当地で強まるとヒトラーは政治活動にのめり込み、その弁舌で頭角を表す。1920年には早くも所属していたドイツ労働者党を牛耳っており、党名を「国家社会主義ドイツ労働者党」(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei=NSDAP)に変更。これがナチス・ドイツである。自由主義的な傾向の強いヴァイマル中央政府の〝弱腰外交〟とインフレによる不景気への不満を募らせていたバイエルンの人々に、バイエルン人であるヒトラーがまくし立てる「強いドイツ」のヴィジョンは急速に浸透していった。
 ミュンヘン政界のライジング・スターとなったヒトラーは、やがてベルリン偏重で自由主義的な傾向の強いヴァイマル中央政府に不満を持つバイエルン右派勢力を糾合し、ベルリンへの進軍と武力制圧を図る。バイエルンの世論がヒトラーの「大ドイツ主義」あるいは元首相のグスタフ・フォン・カールらが唱える「バイエルン分離独立」に割れるなか、ヒトラーは反対派を制圧するため、強硬手段に出ることを決意する。
 1923年11月8日から9日にかけて、ミュンヘン最大のビアホール「ビュルガーブロイケラー」で演説を行っていたカールを、ヒトラーとナチスの突撃隊員たちが襲撃。カールをはじめ反対派の首脳を拘束し、ベルリン武力侵攻への支持を迫った。のちに「ミュンヘン一揆」と呼ばれることになるこの反乱は州政府によって鎮圧されはしたものの、決然と行動に出たヒトラーはミュンヘン市民に英雄視されるようになり、逮捕・収監されている間にも、裁判における彼の雄弁も相まってミュンヘンに限らず全ドイツ中の反ヴァイマル層に彼の影響力は増していった。
 その後のヒトラーとナチスの躍進、そして全ヨーロッパに吹き荒れた狂気の嵐については、ここで詳しく言及するまでもないだろう600万のユダヤ人、150万のポーランド人やセルビア人、20万のロマ、知的障害者、同性愛者、共産党員などが計画的に殺され、非戦闘員を含む4000万人以上のヨーロッパ人が死んだ、というだけで十分だ。今は。

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 現在、ドイツをはじめとした第三帝国の旧領土の各地の街角を歩くものは、注意深く足元を見ていると、時おり正方形のクロームのプレートを目にすることになる。
 そこには、例えばこう簡潔に書かれている。
HIER WOHNTE
FERDINAND MARX
JG.1867
MARIANNE MARX
GEB FREUDENBURGER
JG.1873
FLUCHT 1940 HOLLAND
INTERNIERT WESTERBORK
DEPORTIET 1942
AUSCHWITZ
ERMDRDET
ここに住んでいた。
1867年生まれのフェルディナンド・マルクスと、1873生まれのマリアンネ・マルクス、旧姓・フロイデンブルガーが。
1940年にオランダのヴェステルボルクを脱出し
1942年に強制退去させられ
アウシュヴィッツで
殺された。
〈対訳=筆者。ヴェステルボルクはもともとドイツで迫害されてオランダに脱出して来たユダヤ人たちの受け入れ施設であったが、1940年5月14日にドイツがオランダに侵攻し(マルクス夫妻はおそらくこの時点でオランダを脱出した)全土を制圧してからは、逆にユダヤ人をアウシュヴィッツなどの〝最終地点〟に送るための通過収容所として使われるようになった。〉

〈写真=溝口シュテルツ真帆〉
 これは、1993年に美術家のグンター・デムニッヒが開始した「Stolpersteine(つまずきの石)」というプロジェクトの作品である。
 ヨーロッパ中で拘束され、収容され、そして殺害された無数のユダヤ人たちがかつて生活を営んでいたその場所を特定し、人為的な破壊や戦災によって跡形も無くなってしまったそこに、それぞれの名前と人生を刻んだプレートを貼り付けた石柱を埋め込むというプロジェクトだ。ホロコーストの記憶を風化させまいと、ヨーロッパでは各地に数多くの記念碑や記念館、モニュメントが残されている。それらが「二度と悲劇を繰り返すまい」という真摯な意志に基づいて作られたものではあっても、それはあくまでホロコーストという大きな事象を射程としている。それだけではなく、自分と同じようにミクロな生を生きた一人ひとりの固有の歴史に光を当てようというのが、その主眼である。ドイツ国内だけでも現在6万近い人々が、こうしてひっそりと記録されている。
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 私たちは基本的に、もちろん前を向いて歩く。遠くの駅へ、近くのパン屋へ、近い未来や遠い未来の目的があるその方へ歩く。時間がなくて急いでいたり、お腹がすいてイライラしていたり、単純にトイレに行きたかったりしていると特にその焦点は目的にのみ、自分にのみ集中する。近視眼的になり、大股になり、路傍の花など顧みることもなく。
 それでも、多くの場合はかまわない。それが自分の生を、自分の考える正しさにおいて、自分自身に対して行使できる範囲の力で未来へと運ぼうとする運動であるのなら。
 だが、しばしば、私たちはそうではない。この空間、この社会、この歴史に他者が存在している/いたことを忘れ、敬意と、畏れを忘れる。平気で他者を消費し、利用し、それがノイズであると判断すれば時には攻撃し排斥しさえする。そして忘却する。近視眼的になり、大股になり、他者の悲しみや喜びの機微、固有の事情や理由の数々を顧みることもなくまたぎ越し、まっすぐに歩き去って二度と思い出すこともない。
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 藤原辰史『ナチスのキッチン』(2012 水声社)は、19世紀から20世紀にわたるドイツの家政学史を掘り起こし、ナチスがその統治においていかに「食」を重要視し、日々の調理を効率的にして国民に栄養摂取をさせるかに心を砕いたかを分析した労作だ。大文字の歴史には登場しにくい女性たちの生活史の中にもナチスがきっちりと介入していたことがよくわかる本書に紹介された事例からは、例えば現在世界中で使用されているシステムキッチン(当初はフランクフルト・キッチンと呼ばれた)の発明もナチスによってなされたことであるし、「旬のものを食べなさい」「地産地消が一番」といった、それら自体はしごく真っ当なスローガンも、政策として国民に流布されていたことがわかる。そうした面と、例えばポーランド語を生活の場から消し去ることを目指し、効率的に意思の伝達ができるドイツ語の教育や地名のつけ直しを徹底したようなことはコインの裏表である。
 事実、ナチスは実に効率的で、功利的で、そしてまっすぐだった。システムキッチン、アウトバーン、フォルクスワーゲンの量産など実利を極めたモダニズム的思考、レニ・リーフェンシュタールのベルリン・オリンピック記録映画に見られる「ドイツ的な美」への徹底的な礼賛、全てがストイックで、それこそアウトバーンを疾走するフォルクスワーゲンのようにまっすぐで合理的である。ゆえに、ナチスの目的意識・美意識が向かうまっすぐな直線上に存在しないものたちはすべて視界から排除され、「なかったこと」にされた。ポーランドでは全ユダヤ人の90%以上が「なかったこと」にされ、生産性に欠けるとされた同性愛者や知的障害者も「なかったこと」にされた。ヒトラーがその直線的な「迅さ」で築こうとした第三帝国に、多くのドイツ人たちもまっすぐ、大股でついて行った。
 だから、つまずかなければならないのだ。
 このプレートを見るものは視界に突然現れた他者の生の痕跡につまずき、立ち止まり、考える。かつてこの空間を歩き、この場所で暮らし、食べ、学び、愛し、何かを夢見たもののことを考える。自分や、自分自身の目的とは直接関係がないとしても、歴史につまずき、ここにいたフェルディナンドやヘドヴィッヒ、あるいはエルゼやアンネの生の息遣いにつまずき、彼らもまた歩いたであろうこの空間のこと、この瞬間そこに立っている自身や近しい誰かのこと、そして、同じ時間を生きる他者のことを考える。つかの間でもいい。そこにあった生のため、そしてそこから地続きである今とこの先のために、つかの間、歩みを止めることくらいはしてもいい。

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 ちなみに、ミュンヘンにはこの「つまずきの石」はひとつも設置されていない。それは決してこの歴史を軽視しているからではなく、むしろ逆の理由による。国際的なユダヤ団体であるイスラエル文化協会のミュンヘン〜バイエルン支部が「犠牲者の名を踏みつけるようなことは許さない」と強硬に反対したことから、2015年に市議会で「つまずきの石」の設置を認めない旨が議決されたのだという。その決定に反対する運動も起こっているということなので今後どうなるかはわからないが、ひとつの事象に対しても人の数だけ見方があるということの証左ではある。
 それでも、ミュンヘンの公園には第二次大戦が終わった頃に採火され、それからずっと燃え続けているという篝火がある。同じ2015年にはナチスとホロコーストの歴史を記録・展示するための新たな記念館もオープンし、過去の過ちを後世に伝えていこうというミュンヘナーの意志は、非常に強いものがある。
 忘れないために。ナチスを育ててしまったことを、そのあとに起こったことを、熱狂した自分たちのことをも、忘れてしまわないために。この街は、今日も記憶につまずいている。

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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