演劇に流れる時間の旅
山本ジャスティン伊等
私は今、『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』の公演のために、パリにいる。二〇二三年八月初演のこの作品を上演するのは、だからもう二年目ということになる。だいたい数ヶ月〜半年に一度のペースで、これまで二十回ほど上演してきた。私の今回の役割は演出助手で、本来であればすでに作品から離れてもおかしくないような気がするのだけど、舞台上で衣装を着てプロンプター(俳優がセリフを忘れた際に教える)をやることになっており、ありがたいことに国外のものを含めてすべての上演に参加している。
これまでに自分が演出した作品は、一度かぎり、それも一週間程度のものしかなかった。そして今のところ、過去作の再演をしたこともない。
十二月にロームシアター京都で上演する『想像の犠牲』もそうだ。4回の公演、上演時間を2時間と考えると、たった十時間たらずのために、九月から稽古を進めている。戯曲を書き、劇場と打ち合わせをする時間を含めれば、二月か三月までさかのぼる。
演劇作品に流れる時間のことを考えると、いつも不思議な気持ちになるのだ。
チェルフィッチュの公演は私の作品のように一度で終わるものではない。そして、その都度俳優の演技はもちろん、セリフや演出も微妙に変化している。
たとえば、私は初演の東京では、最初から最後まで舞台空間の端っこにいて、俳優の話を聞くことに徹していた。それが上演を重ねるにつれて今年五月のブリュッセルでは、あるシーンで劇場の中央に座るようになった。パリでは、ほんの一言だが言葉をいうことにもなっている。
もちろんそれは自分がプロンプターで、物語に影響を及ぼさないがゆえの変更でもあるのだけれど、それでもたしかに作品は変わっていると言えると思う。その全てを知る私と、変わっていく作品のなかのただ一度を見る、観客の経験がある。
そしてそのすべての上演が、『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』と呼ばれているのだ。
ある作品を、おなじ作品であると呼べるフレームはどこにあるのか? 断続的な海外ツアーで、それと名指せるような確固としたものが、溶けていくような感触を、私は味わっている。
ところで今稽古をしている、『想像の犠牲』の基本的な設定はこうだ。
ソ連の映画監督タルコフスキーの遺作『サクリファイス』という映画をもとに書かれた戯曲の公演が、上演中に起こった事件のせいで、ただの一度で中止に至った。その経緯について、当時の出演者によるコメントも挟みながら作られた記録を、再現していく。
作品の枠組みがこうして入り組んでいるのも、やはりフレームそれ自体に興味があるからなのかもしれない。
ある時間に縁取られた時間が、個々人が思い出したり、繰り返し再現したりすることによって変容していく。
当たり前のことだが、それは陰謀論や歴史修正主義のような、過去の出来事について一方的な解釈を押しあてることで無関係なものを関係づけたり、あったことをなかったことにするようなものではない。
むしろ表面的な論理ばかり通っていてそれ以外はあまりに粗雑であってもこちらを黙らせてくるそれらに対する抵抗の手段ではないかと思うのだ。
ロシア上空を避けてパリに向かう長いフライトの中で見ていた『ゴジラ S.P.』のセリフが、繰り返し頭によぎる。過去は変えられないというまやかしへの抵抗、いやそれがまやかしであると信じることから始まる行為や思想がある。
「過去の大部分は未来によって構成されています。」