トーチ

中国公演と全集の時間

山本ジャスティン伊等

演出助手として参加しているチェルフィッチュ『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』で、八月に東京での初演を終えてから、その後少しの間をおいて九月末に京都、十月末に中国は上海近郊の烏鎮(ウチン、英語ではWuchenと書く)で公演をした。
旅行にほとんど行かない私には、一週間ちかく家を空けるということ自体が久しぶりだったし、特に中国公演の後はそのまま韓国で一泊したので疲労もそれなりに溜まっていて、「早く家に帰って自分で作ったご飯を食べたい」と思いもした。これは私がそう感じるだけかもしれないが、劇場という建物には逃げ場がない。自分を他者に開くことが前提となっている空間で、疲れて少し気分が落ちたときにも、感覚を閉じて(例えば混んでいるカフェでひとりになれるように)ひとりになることができない。こう書くと単にホームシックになっているだけだと思われるかもしれないし、実際にそれを否定する気もないけれど、東京の、自分の家から近い劇場で公演をしている最中にも、時折同じように感じるのだ。

ところで実際にわたしが自分が生活している場所に戻ってきたことを実感したのは、羽田空港に着いた時でも、家のご飯を食べた時でもなく(彼女が蒸し野菜と炊き込みご飯を作ってくれていたのはありがたかったけれど)、読んでいないものばかり並んでいる、自分の家の本棚を、ほんの数秒、眺めたときだった。
ちょうど私が立った時の目線の高さに『フーコー思考集成』とラカンのセミネールが並んでいて、その少し斜め下には修論を書くときに使ったサミュエル・ベケット関連の資料を入れている。一冊七〜八百ページで十二冊ある『中世思想原点集成』は、本棚の上にビニールをかけて置いてある。きちんと入れると他のものが入らなくなるからだ。
そういう全集ものは、どれも年上の作家や友人から譲ってもらったもので、気が向いたときにちょっとずつ読んではみるのだけど、難しくてどれも手に余るというか、「読めている」という手応えには程遠い。それよりも私は本をくれた人たちの書き込みや傍線に興味がいき、それを読んでいるときの彼らの表情とか風景を想像している自分に気づく。私は古本屋ではなるべく書き込みのないものを買うが、顔が浮かぶ友人の場合はべつだ。
かつて友人が読み、自分もいつか読みたいと思いながら、今年も読まないことをなんとなく確信してしまっている本棚の「全集もの」は、「かつて」とか「いつか」とかいった曖昧な時間を含みながら、いつも私のリビングに置かれている。他人の痕跡をとどめて、どの家具よりも存在感を放ちながら、しかし夏休みが始まってすぐの漢字ドリルみたいに「まだやらなくていいもの」として全集はある。
どんな本であっても、読まれている時間よりも、読まれていない時間の方が長い。今本棚にあって、かつて/いつか読まれるべき本は、「読むことができる」という可能性ばかりを、ひたすらに澱ませている。

中国に行くトランクには読みもしない本を七、八冊入れていたし、読みもしないのにホテルから出るときにも必ず一冊は持ち歩いていた。ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』とか残雪『突囲表演』とかだ。ちょっとした隙間時間に読めるようなものではない。
「みんてぃえんちぇん」
隣にいた安藤さんが言った。わたしたちは劇場を出て、ホテルのレストランで中国粥とかワンタンとかを食べていた。〈明天见〉と書くそれはまた明日という意味だと、徐さんが教えてくれたと安藤さんは言った。
朝食のビュッフェで、安藤さんは焦げ茶色の液体に漬けられた卵を食べていた。
「醤油」
と安藤さんは言っているが、あれは本当はお茶に漬けられているやつだと、彼女がコーヒーを取りに行っているあいだにロバートさんは笑っている。
「醤油の卵、おいしい?」
「お茶、お茶。さっき気づいた。」
しかし私がビュッフェに降りてくるのはもう少し後のことだ。私はこのときまだ自分の部屋で眠っている。毎朝私たちがビュッフェを食べていたバルコニーのすぐそばにはちいさな池があって、黒鳥がたむろしているのが見えた。私はそこにいなかった。安藤さんがまた明日と言ったその次の日ではなかった。

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◾️プロフィール
山本ジャスティン伊等
カリフォルニア州サンタモニカ生まれ。
Dr. Holiday Laboratory主宰。演劇/テキスト制作。
主な作品に『うららかとルポルタージュ』、『脱獄計画(仮)』など。

web https://drholidaylab.com
制作日記 https://justin-holiday.fanbox.cc/
X https://twitter.com/ira_they

 

 

 

 

 

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カリフォルニア州サンタモニカ生まれ。
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