トーチ

「どこかの爆弾より目の前のあなた、か?」

山本ジャスティン伊等

新作公演『想像の犠牲』の公演から大体2ヶ月経った。私にとっては一年半ぶりに戯曲を書いて演出する舞台作品だった。
場所は京都のロームシアター京都という劇場で、客席数は前回にくらべると2倍近い大きさ。いつもより大きな劇場でやれるのは、やっぱりなにかしら気合いが入るものである。
そういうわけで、カンパニーにとっても自分にとっても大事な作品にしたいという気持ちでほぼ毎日パソコンに向かいはするものの、なかなか書き進まない。少し前にこのエッセイ欄で自分が書く方法について偉そうに書いたくせに、自分が実際に書いてみたら、まったくダメなのだ。気分転換にと思ってNetflixで『美味しんぼ』を見ていたらいつのまにか夕方になっていて、一日が終わる、という日もあった。
これではまずいと思って、『美味しんぼ』は夜だけにすると決めてパソコンに向かう。ノートパソコンにPCスタンドを立てて、うやうやしくキーボードとマウスにスイッチを入れる。これが自分の中である種の儀式となっていて、その動作によって書くことのなかに入っていける感じがある。この儀式的な雰囲気を忘れてナチュラルにパソコンを立ち上げると、日がな一日『美味しんぼ』を見ることになるから注意しなければならない。
『美味しんぼ』は内容以前にバブル期の明るさに満ちていて楽しいし、一方で『想像の犠牲』で扱った主題は重くて、なかなか食指が伸びなかったのだ。

今回は、かなり込み入った設定の作品だった。まず、SNSでとある戦争の映像を見てしまったことをきっかけに「演出家」と呼ばれる人物によって書かれた戯曲『想像の犠牲』がある。この架空の戯曲は、ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキー『サクリファイス』をもとに書かれたものである。登場人物たちは、今はアメリカに移り住んで人工透析をしている「演出家」の代わりに、かつて『想像の犠牲』を上演した。ところがその上演はただ一度のみ行った後で中止に追い込まれることとなる。そこで、その経緯についての注釈やコメントをもとの戯曲に付した『「想像の犠牲」アーカイブ版』が、登場人物らの手によって出版された。この作品は、そのアーカイブ版戯曲をもとに上演を再構築する。……というのが、今回作った『想像の犠牲』の設定だ。
『サクリファイス』をもとに書かれた戯曲の主題や表現、また過去の上演で起こった出来事についても検討していく今作は、いわゆる物語のある、ドラマチックなものではなく、地道な話し合いや議論を重ねていくものになった。

『サクリファイス』は、タルコフスキーの遺作だ。冷戦の末期にあって、核戦争の恐怖と、そこからの救いを、キリスト教的な視点から描いた映画である。調べてみると、この作品はタルコフスキーのなかでもひときわ評判が悪かったらしい。
それまでは遠回しに描いていた「世界の終末」という主題が、核戦争という、あまりに具体的でアクチュアルなモチーフになったことで、作品の持つ射程が狭まったということだったらしい。
そうしたことを少しずつ調べはじめていたところで、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。もちろん、現実の出来事と作品を結びつけずに作ることもできなくはないけれど、そのときの私にとってはむしろその方が意図的に無視しているというか、不自然である気がした。
とはいえ、東欧の込み入った歴史と現状についてリサーチし、『サクリファイス』に則して物語にするようでは不十分なのは明らかだった。そういう作品がごまんとあるが、それは正義面じゃないのかと、肉体的にも、また思想としても(作者自身の「真摯さ」もあいまって)批判されにくい安全な場所から作っているだけじゃないかと、私は政治や歴史を扱う作品にたびたび感じることがあった。
どんな政治/社会問題でも、当事者やそれに近い人間と、そうでない人間との間には距離がある。私はウクライナやパレスチナや、そのほかにも諸々の問題について、関わりなく生活することができる。あるいは、関わりがないかのように振る舞うことができる。反対に、デモに行ったり街でプラカードを掲げたりすることもできる。私が中学から高校の頃、一番聞いていたブルーハーツは、〈どこかの爆弾より 目の前のあなたの方が 震えるほど大事件さ〉と歌った。それがかっこいいなと思いながら青春を過ごしてきた。しかし三十歳にさしかかって直面したのは、作品で扱う問題(今起こっている遠くの戦争)と、自分との距離、それ自体についてだった。
ジャーナリズムはしばしばその距離を忘れる。それは現場で起こっていることを伝えるために、必要な忘却だと思う。しかし作品制作ではそうはいかない。何かを描くこと、それを演じること、観客に想像させること、そこには必ず、描かれるもの、想像されるものとの避けることのできない距離がある。死んだ人について書く私は、生きていなければならない。今回の作品ではそれを、「裏切り」と呼んだ。

〈これらを眺めながら歩くこと、こうして言葉として描写し、いつでも想起できるようにすること、それは裏切りに等しかった。だがこの裏切りという関係においてだけ、私は彼らと入れ替わることができるのかもしれなかった。私は加害し、私は死に、そして私はそのどれとも関係がなかった。想像し、想像させ、演じるだけだ。これは予兆だ。しかしこれから起こることではなく、すでに起こっていることの予兆なのだ。〈核の戦場ではばたばたと斃れつつあるのだから。戦争はすでに起こっている。〉〉
(引用は、アンドレイ・タルコフスキー『タルコフスキー日記Ⅱ 殉教録』(1991年、キネマ旬報社、鴻英良、佐々洋子訳)から。)

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◾️プロフィール
山本ジャスティン伊等
カリフォルニア州サンタモニカ生まれ。
Dr. Holiday Laboratory主宰。演劇/テキスト制作。
主な作品に『うららかとルポルタージュ』、『脱獄計画(仮)』『想像の犠牲』など。

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