老いを追う 37 〜年寄りの歴史〜

第十三章 カフカの『変身』は老人問題を描いているのか 1

 幸田文の『父』、有吉佐和子の『恍惚の人』など、介護文学の名作と呼ばれるような小説を、これまでにいくつか取りあげてきた。深沢七郎の『楢山節考』は母親をすててしまうので、決して介護文学とはいえないが高齢者を扱った問題作だった。長谷川町子の『いじわるばあさん』が、さまざまな素材を提供した漫画だったことも述べた。ほかにも老人にかかわる多くの作品が机の上に積まれたままである。
 そんなとき、だれもが知っている海外文学が老人介護を扱っているふうにも読める、という説を耳にした。その作品はフランツ・カフカの『変身』である。
 
「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。彼は甲殻のように固い背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓形のすじにわかれてこんもりと盛り上がっている自分の茶色の腹が見えた」(原田義人訳。以下同)。
 主人公のグレゴールは、布地のセールスマンをしている。家族は、父と母と妹。両親は商売の失敗で多額の借金を抱えており、彼はそれを返すために働いているようなものだった。この日も出張にいくはずだったグレゴールが、時間を過ぎても部屋から出てこないので、母親がドア越しに声をかける。グレゴールは返事をした自分の声を聞いてぎくりとした。
「それはたしかにまぎれもなく彼の以前の声であったが、そのなかに下のほうから、抑えることのできない苦しそうなぴいぴいいう音がまじっていた」。
 グレゴールは外見の変身とともに、みにくい声に変わってしまったことに愕然としたのである。
 とにかくベッドから出ようとしたグレゴールだったが、下半身を自由に動かすのも難しいことは理解できた。動作のあまりの鈍さに、ベッドのうえでもがくばかりだった。しかし、もがいてももがいても、変身してしまった体はいうことをきいてくれない。
 グレゴールは、いま正気を失うわけにはいかないと心に決め、ベッドにとどまることにした。そして溜息をもらし、体を横たえ、たくさんの小さな脚が争い合っているのをながめるのだった。

 出張の用を果たさないグレゴールのようすを知るため、勤め先の支配人が家にやってくる。グレゴールは部屋の中から弁解するが、こちらの言葉がまったく通じない。
「人びとはもう彼が何をいっているのかわからなかったのだ。さし迫っている決定的な話合いのためにできるだけはっきりした声を準備しておこうと思って、少し咳払いしたが、とはいえすっかり音を抑えてやるように努力はした。おそらくこの物音も人間の咳払いとはちがったふうに響くだろうと思われたからだった。彼自身、それを判断できるという自信はもうなくなっていた」。
 グレゴールが苦労の末に鍵を開けて姿を現わすと、母親はへたり込み、父は泣き出し、支配人は逃げ出してしまう。
 無自覚のうちに突然訪れた老いの状況を、グレゴールの変身にみることはできないだろうか。他人からは醜くおぞましく見え、正視するのを避けられる。体は自分の思うようにならず、声もすっかり変化してコミュケーションを取れない。
 しかし、グレゴールの妹のグレーテは変身した兄の、介護を試みていくのであった。

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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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