国境線上の蟹 23
安東嵩史
20
ソウル・トレイン、ソウル・ステーション(1)
〜消えていった声のために
初めてアメリカを訪れた学生の頃以来、この国に来ると食べたくなるものがある。甘辛く煮付けた牛肉を米や申し訳程度の野菜と一緒にざっと炒めた、だいたいにおいて「ビーフ・フライド・ライス」などと表記されているアメリカのチャーハンである。
そこらのチェーンやフードコートでも滞在中に必ず一度は食べるこの食べ物だが、とりたててうまいというわけでもないし、どちらかというとぼんやりした味付けで、日本の飲食店でこれが出てきたらその店の経営を心配したほうがいいという程度の代物ではある。とはいえ、このぼんやりした食べ物が自分にとってはアメリカで初めて食べた食事であるという、その一点において未だに食べている。
ロス・アンジェルスのユニオン・ステーションは確か夕刻だった。そろそろ光が赤みを帯び始める物寂しい雰囲気の中、LAX=ロス・アンジェルス国際空港から「flyaway」という高速バスでほとんどわけも分からず降り立った身に、そこからほど近いと地図に示された(当時はまだ紙の地図を見ていた)チャイナタウンとリトルトーキョーの文字がとても心強く映ったのを覚えている。そこから宛てもなくチャイナタウンへとくだってゆき、路肩の安っぽいスタンドのような店で食べたのが、このぼんやりしたビーフ・フライド・ライス。それゆえに、自分にとってはこれがアメリカの始まりの味だし、LAユニオン・ステーションと、そしてチャイナタウンが始まりの場所だ。
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今ではすっかり道路によって規定されているアメリカを最初に無尽蔵に拡張(スプレッド)してゆく概念の帝国に変えたのは、鉄道だ。東海岸のちっぽけな旧植民地にへばりついていたアングロ・サクソンたちは、最初に蒸気機関車が登場した1830年以降この大陸のあらゆるところに鉄道網を延ばし、金を掘り、石炭を掘り、ネイティブ・アメリカンたちの土地を奪い取るための兵員と、膨大な物資、そして家族や牧師やならず者を送り込みながら「アメリカ」を拡張してきた。
特に、1862年のホームステッド法制定(第8章参照)に伴って60年代に進められた大陸横断鉄道の建設によって中部の大平原に群れをなしていたバッファローたちは急速に姿を消し、彼らの存在に大きく依拠していた平原系部族の文化は大きな打撃を受けた。大陸横断鉄道は3社の競合によって6年間で3069キロメートルが建設され、「ゴールデン・スパイク」と呼ばれる最後のひと釘は1869年5月10日、カリフォルニア州サクラメントの枕木に打ちつけられた。その100年と2か月と10日後、アポロ11号が初めて月面に着陸し、船長のニール・アームストロングが最初に月面に足跡をつけるに至るまで、「アメリカ」は拡張し続けた。
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鉄道が東海岸に建設され始めた18世紀後半、その労働力となったのは、当初はイタリアやアイルランドなどからやってきた貧しい白人移民だっただろう。だが、時代がくだり、またその延長が中部から西部に及ぶに至って、そこにチカーノ——もともとそこに住んでいたにも関わらず、アメリカとの戦争の結果として領土ごと譲り渡されたメキシコ人たち(第2章参照)——、そして中国人たちが加わり、やがては大多数を占めていった。
〈何マイルもの線路を敷いたら、一番重い岩をどけたら金貨をやるとか、トンネルを突貫した最初の組に特賞をやるとか、鬼たちは作業を早めるために勝負をさせた。昼間班が夜間班と競い、チャイナ・メンがウェールズ人と競い、チャイナ・メンがアイルランド人と競い、チャイナ・メンがインジャンや黒人鬼と競った。自分の班に賭けては勝負するチャイナ・メン対チャイナ・メンの競争が最も速かった。(中略)セントラル・パシフィック鉄道あるいはユニオン・パシフィックのどちらかが、敷いた鉄道の両側の土地を手に入れた〉(『チャイナ・メン』所収「シエラネヴァダ山脈の祖父」マキシーン・ホン・キングストン著、藤本和子訳 2016 新潮社)
単純労働者となり、「白いアメリカ」を築き上げるための捨て石として黙々と働いた彼らは、しかし、「アメリカ人」として扱われることは決してなかった。
〈(筆者注:鉄道の開通後に)鬼どもが写真を撮るのでポーズを取っている間に、チャイナ・メンは散って行った。そこにうろうろしていることは危険だった。すでに「追放」が始まっていた〉(前出「シエラネヴァダ山脈の祖父」より)
こうした労働に従事するものは未婚であったり、住所不定であったり、土地や共同体に所属しないという点で「アメリカ的」とはいえず、むしろ道徳的・倫理的に劣ったものとされた。そして、中国人をはじめとするこうした単純労働者たちは大量に換えがきいたがゆえに、1850〜60年代、インフレ景気により多くの白人たちの賃金が上がっていく最中も給金は最低ラインのまま据え置かれ、いよいよ人種による所得階層の固定化が進んでいった。つまり、「白人がやらないような汚く、危険な仕事をやる階級」が誕生したのである。仕事が終われば彼らは速やかに追い払われ、またどこか別の場所で別の労働に従事する。
それは奴隷制が建前上は終焉し、それでも使い捨ての奴隷的労働者を必要とした社会構造の中で、白人がそこに転落することを防ぐため、もしくはすでにそうなっているものがそれを認めないための防衛本能として創造した、新たな労働者階級の姿であった。ヘレンフォルク(支配階級)共和主義と呼ばれるこの心理に基づいて、アメリカは彼らを「苦力(クーリー=サンスクリット語の〝卑しい仕事をする人間〟を転じて、アジア系の低賃金労働者)」と呼んで痩せても枯れても自由労働者である自分たちから切り離し、「なかったこと」にすることで、「神の自由なアメリカ」を保った。
〈阿公は鉄道写真には写っていない。離散して行ったチャイナ・メンは、あるいは北極星に導かれてカナダに向かい、あるいは鳳凰座を前方に見つめつつ南アメリカへ、あるいは白虎座を見つめながら西へ、天狼星を見ながら東へ向かったのだった。(中略)このくにのあらゆる土地に、彼らは鉄道を建設したのである——(中略)チャイナ・メンは十字形に交差する鋼鉄で、このくにの北と南、東と西を結びつけたのだ。彼らはこの地を一つに結び建てた父祖であった〉 (前出「シエラネヴァダ山脈の祖父」より)
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だが、やがて鉄道や鉱山といった現場労働とは関係のないところでも、すでに中国人労働者たちはこの国に必要不可欠なものになっていた。アメリカの産業界においては、1850年代を皮切りに、アングロ・サクソン的な職人ギルドによって支配された小規模の家内制手工業を主とする生産体制から機械を駆使して労働やその成果そのものを均質化した工場生産、つまり大量生産・大量消費への転換が行われつつあった。靴ひとつを作るにしてもそれまでの職人たちの専門的な職能は無用となり、マッケイ社のミシンがあれば誰にでも靴が作れるようになったのだ。もちろん、給料の安い中国人にも。
こうした新来の安価な労働者たちに対して脅威を感じ、怒りを燃やすのは、常にその前から住んでいた人々である。大陸横断鉄道の建設が終了した1870年代には、全米で中国人排斥の機運が高まった。特に中国人移民の多かったカリフォルニアをはじめとする西部ほどそれは激しく、例えばロバート・ジョージ・リーが著書『オリエンタルズ 大衆文化のなかのアジア系アメリカ人』(貴堂貴之訳、2007 岩波書店)で引用したところによると、1876年にカリフォルニアの『マリン・ジャーナル』誌が「州の労働者とその家族を守るため」として印刷したタブロイドの内容はこのようなものだ。
〈中国人とは奴隷であり、乞食のような最低の地位にあるため、アメリカの自由人にふさわしい競争相手ではない。
(中略)
中国人には、妻も子どももいない。それを持とうと期待してもいない。
中国人の女たちは、みな売春婦である。それは、本能、宗教、教育、利益から、彼女の周りのものすべてを貶めている。
(中略)
中国人が、州から白人人口を追い出そうとし、働く男性を絶望においやり、働く女性を売春婦にし、少年少女たちをチンピラや犯罪者に押し下げている。我々の国の健康、富、繁栄、幸福を守るために、我々の住みかから中国人を追放すること。〉
時代もあるとはいえ、このような露骨なヘイトが一応は公器であるメディアにおいて流されたことに驚きを禁じ得ないが、この時期の中国人に対する思潮は概ね同じようなものだった。「イタリアやケルト(アイルランド)は白人だからまだしも、黄色い肌の中国人は人種的にも倫理的にも劣った人間であって、議論も連帯も不可能である」という、ある種素朴ともいえる人種観が社会に生きていた。
アメリカを代表する科学エッセイストとしても知られる進化生物学者スティーブン・ジェイ・グールドは、その極端に鋭く偏屈な舌鋒で書き上げた『人間の測りまちがい 差別の科学史』(鈴木善次/森脇靖子訳、1989 河出書房新社)において、アメリカでは建国当時よりベンジャミン・フランクリン、リンカーンといった元勲から科学者に至るまでが〝アングロ・サクソン的〟な美醜の基準を大前提にして黒人や「モンゴル人」、インディアンなどの有色人種を「先天的に劣等で知能の低い存在」とみなしてきた偏見の系譜を列挙する。
〈彼らは「男性」(すなわち、ヨーロッパの白人男性)を基準とし、その他の人々は、その基準に対して劣って評価されるべきであるとみなして、「男性」を研究した〉
冒頭でグールドがそう記したように、アメリカの人種差別においては常にアングロ・サクソン的な美が一つのものさしとして機能してきた。18〜19世紀にはその考えを基調に「人種の優越や劣等は何によって決まるのか」が科学として大真面目に議論されており、その思潮は実際、さすがに科学の分野ではその馬鹿げた説が採られなくなった20世紀を通じてもなお、政治家や軍人を含む一般的なアメリカ人の「気分」として残っていた。多くの中国人や、まだ数少なかった日本人は当然それにそぐわないものとされ、「チャイナ・ジョー」とか「ジョン・チャイナマン」などという一般名詞としてしか認識されなかった。
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1877年に結成されたカリフォルニア勤労者党は主にアイルランド系アメリカ人を中心に過激な排華主義を取る政党で、このような替え歌を作り、新聞に掲載し、サン・フランシスコやロス・アンジェルスの街角で歌ったという。
〈おお、親愛なる労働者諸君よ
こんなニュースが飛び交っているってのを聞いたかい?
中国の蒸気船がまた この街に着いたってよ。
今日俺は新聞を読んで 一面記事を見て
俺の心が耐えらんないぐらいの悲しみで一杯になったさ。
ああ、また「千二百人も来る!」
(中略)
千二百人の真面目な労働者は
中国人野郎が来たせいで
今日も仕事から追い出されてる
サンフランシスコ湾では
俺が読んだ記事のなかでは
千二百人の無垢で貞淑な少女たちが
一切れのパンのために
貞潔を売り渡さねばならないんだそうだ
(中略)
こんなことは
この、俺たちの輝かしい土地で
絶対に続いてはならないことだ。
すぐにでもあんたはこんな恨みに満ちた叫び声を聞くだろう
「中国人野郎どもを追い出せ!」〉
1882年には時の大統領チェスター・アラン・アーサーがChinese Exclusion Act、中国人排斥法に署名。事実上、中国からの新規の移民が不可能になったばかりか、州をまたぐ移動も禁止された。さらに2年後の改正によってすでにアメリカに定住していた中国人や、さらには中国人の血を引いているアメリカ生まれの移民2世や3世にも、出国後の再入国や帰国が禁止された。故郷に家族を置いて来たものたちは妻や子、親と再び会うことは不可能になった。カリフォルニアをはじめ多くの州で中国人が白人と結婚することも禁じられたため、彼らは新しい家族すら作れなくなった。その後に新しい人生を望んで船に乗ってきたものには、そもそも、もはや始まりの場所さえも与えられなかった。
1885年、ワイオミング州ロックスプリングスの炭鉱で、「労働騎士団」と名乗る200人の白人炭鉱労働者が中国人労働者の居住区を襲い、家に放火。飛び出して来た中国人たちを次々に撃ち殺していき、数時間で29人が死亡、600人いた中国人の全てが家を追い出された挙句、その家々は灰になった。悪名高いこの「ロックスプリングスの虐殺」において、殺人罪に問われたすべての白人が「証拠が不十分」ということで無罪になった。この他、ロス・アンジェルスなどの大都市をはじめアメリカの各地で中国人が襲われ、殺された。かつて開拓者たちの間で殺したネイティブ・アメリカンの頭皮を剥ぐという蛮行が一般的であったように、中国人に対してはその辮髪を切り落とすという行為も横行した。
こうして労働市場から中国人を排除していった白人たちだが、「苦力」を最下層として成立する彼らの社会構造は何も揺らぐことなく、安泰を保った。なぜなら、中国人の代わりに他の劣等人種が来たからだ——大して見分けのつかない「日本人」が。彼らも中国移民に負けず劣らずよく働き、その結果、1924年に日本では俗に「排日移民法」と呼ばれるImmigration Act of 1924、すなわち全ての東アジア系移民の排除を命ずる法律が作られることになる。
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その後、排華移民法のほうは一応、1943年に廃止された。その背景には、アメリカと中国(中華民國)が、ともに日本と戦争をしていたということがある。
日米開戦直後の1941年12月、雑誌『LIFE』に掲載された次のような記事に、こんな記事が載っている。
〈アメリカ市民は、日本人と中国人の見分け方という悩ましい問題について無知をさらけ出してきた。全米の都市に散らばる七万五千人の在米中国人は、罪のない犠牲者である。彼らの祖国は信頼できる同盟国であるのに……。
この混乱を少しでも解消するように、『LIFE』は人体の部位による見分けからのちょっとしたコツを提示してみたい。それによって敵性外国人である日本人と友好的な中国人とは区別できるはずである〉
(訳文引用:前出『オリエンタルズ 大衆文化のなかのアジア系アメリカ人』)
ここに例示される「ジャップとチャイニーズ」の身体的特徴は明らかに偏見と固定観念に満ちたもので、中国人は高い鼻柱にヒゲのないつるりとした顔、またはスラリと長い脚に高身長のスマート体型という〝アングロ・サクソン的〟な特徴を与えられているのに対し、日本人には平たい鼻、モサッとした髭、単身の胴長短足という、いかにも〝黄色い猿〟的表象が押し付けられていることで、より憎悪や嫌悪をかきたてやすい内容になっている。
かつて〈奴隷であり、乞食のような最低の地位にある〉とまで言っていた中国人に対する露骨な手のひら返しではあるが、それ以上に重要なのは「友好的な中国人」は〝アングロ・サクソン的な〟容姿をしているというその設定である。この記者もさすがに強引であることは理解していたのか、ここでいう中国人の特徴は「北方の中国人のものである」というエクスキューズを付け加えてはいるが、結局のところ、表象として〝アングロ・サクソンに近いか否か〟が他者を受け入れる基準になっていることにはもはや苦笑するしかない。
人はその時どきの都合によって他者を排斥すべきエイリアンにもすれば、自分自身に都合のいいアクセサリーのように扱うこともある。だが、いずれもその固有性を無視した暴力であることに変わりはないだろう。
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1932年、アメリカの作曲家ルース・クロフォード=シーガーは、若き野心家であり、その当時大ヒットしていたパール・サイデンストリッカー・バックのノーベル文学賞受賞作『大地』よりも「よい作品を用意している」と豪語する中国系の若き作家にして詩人シー・ゼン・チャン(Hsi Tseng Tsiang)と出会い、彼の詩に曲をつけて発表した。「Chinaman, Laundryman」と題されたその曲は批評家たちの絶賛を受け、初演だけでなく2度のアンコール上演も行なっている。
〈“Chinaman”!
“Laundryman”!
Don’t call me “man”!
I am worse than a slave.
〝中国人〟〝洗濯屋〟
そんな言葉で呼ぶな!
俺は奴隷なんかじゃない。
Wash! Wash!
Why can I wash away
The dirt of others’ clothes
But not the hatred of my heart?
My skin is yellow,
Does my yellow skin color the clothes?
Why do you pay me less
For the same work?
Clever boss!
You know
How to scatter the seeds of hatred
Among your ignorant slaves.
洗う!洗う!
なぜ他人の服の汚れを洗わにゃならん、
この胸の憎しみではなく?
俺の肌は黄色い、だがそれが服を汚しでもしたか?
なぜ同じ仕事で、俺にだけ払いが少ない?
利口なボスよ、あんたは見ないふりして
奴隷どもに憎しみの種をまいてるよ
Iron! Iron!
Why can I smooth away
The wrinkle
Of others’ dresses
But not the miseries of my heart?
Why should I come to America
To wash clothes?
Do you think “Chinamen” in China
Wear no dresses?
アイロン!アイロンだ!
なぜ他人のドレスのシワを伸ばさにゃならん、
この胸の不幸ではなく?
なぜアメリカまで服を洗いに来なければならん?
お前らは〝中国人〟が
故郷でだってドレスを着ないとでも思ってるのか?
I came to America
Three days after my marriage.
When can I see her again?
Only the almighty “Dollar” knows!
俺はアメリカに来たのは結婚の3日後だった
彼女にまたいつか会えるのか?
全能のドルだけがご存知だ!〉
(抜粋・対訳=筆者)
どこまでも固有の人間として認識されず、家族に会う望みも砕かれたひとつの人生が、ここには描かれている。作詞者のチャン自身は本国やソビエトの大学に行き、そこからスタンフォード大学に入るためにアメリカに渡った知識層(非単純労働者ゆえに排華移民法の適用外になった)だが、彼が異国で見た同胞たちの苦境、あるいは〝自由の国〟の現実は、彼をしてこの詩を書かせるのに十分なものだったのだろう。
だが、チャンが見たその現実は、すでに100年以上(アメリカ政府の公式記録では1820年に最初の中国系移民が来たことになっているが、民間では18世紀後半からその存在が確認されている)にわたって無数にこの大陸に現れては消えていったチャイナ・メンの歴史のほんの1ページにすぎない。
東から西へと拡張していくというアメリカン・テーゼと逆行するように西からやってきた黄色い移民たち——鉄道を引き、金を掘り、野菜を作った彼らは、その固有の声を十分に響かせる間もなく、時代のうねりの中に黙したまま消えていった。現在のアメリカにおける中国系住民の割合は約350万人、わずか1%強である。1970年代以降、少なくない数の中国系詩人や作家、アーティストによってそれらの埋もれた声が掘り起こされようとしているが、もはや出会うことの不可能なものも多いはずだ。名もなき荒野の枕木に、鉱山の石塊に、路地の喧騒に紛れて、その命の数だけの歴史が永遠に失われていった。
私たちは、何かを記すということに関して、常に手遅れである。それゆえに、そこから何かを学び、受け入れるということにおいても。
だが、また、それだけではないことにわずかな希望をこめて、記すものは記すことを、作るものは作ることを続けるのかもしれない。
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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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