国境線上の蟹 32

インタールード
最も暗い時間、どこにも行けなかった魂たちのために
 見渡す限りの地平線。というのが、自分の原風景であった。と言ってもなんのことはない、実家を背にして見える風景が一面に広がる田園であったというだけで、夏は青々と茂る稲が風に揺れ、冬は刈取りを終えた水田が冬枯れの色に覆われて次の春を待つ、単なる日本の田舎である。今では遠くに高速道路ができたりして厳密な意味での地平線は見えなくなってしまったが、基本的な景色は十年一日の如く変わらない。
 この場所で生まれて育った自分にとって、幼少期の世界はほぼモノカルチャーであった。多忙な両親に代わって祖母に育てられ、その他に周囲にいる人間もその祖母の兄弟や近所の友人など、ほぼ高齢者。田舎ゆえに空襲で家族が離散するようなこともなく、ほとんどが地元を離れたことのない人々である以上仕方のないことだが、その会話は常に田畑の具合や共通の知人の噂話、あるいはどこそこの土地の権利に関する紛争など、全てが半径2キロ圏内の、かつ具体的なイメージを伴った話題に終始した。もちろん両親の買い与える絵本や図解つきの世界地図などによって二次元に固着された「世界」を見ることはあっても、それは絵本の中の物語と同じような感覚であり、自分のいるこの現実と同じ地平の上に存在しているとは到底思いもしなかった。
 そんな自分に、実感的な意味での「世界」は1980年代末から90年代初頭の数年間にかけて訪れた。1989年の昭和天皇の死は生まれた時から漠然とこの社会に前提として存在していた「昭和」という概念が単なる虚構であったことを自分に示し、続く11月9日のベルリンの壁崩壊と翌年のドイツ統一、さらには1991年のソビエト連邦におけるクーデター及びソ連そのものの崩壊によって、永遠に自明であるもののように書物に固着していた世界がこれほどまでに簡単に無効になり、新たな局面に向かって流動していくものなのだということを知った。これらの全てを、自分はテレビにかじりつき、親に就寝を促されても可能な限り深夜まで、ニュースを貪るように見ていた。インターネットもない時代のモノカルチュラルな環境下にあって、小学校の低学年のうちに起こったこれらの出来事が、その後の自分に決定的な影響を与えたように思える。世界はどこまでも未知であり、どこまでも見知らぬ顔をして自分を待っている——冷戦という一つの時代の終わりのダイナミズム、その高揚とともに、田舎の山裾の家で「いつの日か、必ずここを出ていくだろう」と感じながら生きていた。

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 だが一方、地方の古い家にひとりだけの男子として生まれ、それこそ物心つく前から「家の跡取り息子」と日に五回も十回も言われながら(比喩でなく、それくらいの記憶がある)育った自分にとって、まず直面した困難は「この世の片隅の田舎にへばりついて暮らしている家族」という、最も身近な人々への認知の変化だった。
 生涯のうちに半径10キロ圏内をほとんど出たこともなく、夫亡きあと家と屋敷を守ることをただ自らの存在証明としてきた祖母と、その長男であり、大学時代までを地元で過ごしてそのまま県庁に務めに出るかたわら自治会などの活動に従事し、休日には祖母とともに畑に出る父。彼らが自分に「跡取り息子」という言葉を投げかけるのを何百回聞いたかしれない(いっぽう、港町生まれで祖母には「お町の人」と言われていた母親だけは一度もそれを口にしなかったように記憶している)。自分の抱く世界の像とはかけ離れた、ぐるりと見渡せば集落のすべての構成員が顔見知りであるような環境で、土着的な文化とともに生きる人々。「家」や「土地」といったものに価値を置くその姿、またその生き方から発せられてくる言葉の数々は実に鈍重に移り、自分は小学校を出るあたりから家族のカルチャーとあからさまに距離を置くようになった。
 本人たちの名誉のために書き置くと、祖母は非常に情け深く、また身内のためには労を厭わない働き者であり、父も非常に生真面目かつ堅実な人間で、英語を一切喋れないにも関わらず仕事で知り合った海外の友人を家に招くなどしてまだ幼かった自分に「世界」への扉を示してくれた本人でもある。そもそも、自分が多くの書物や外界の情報に囲まれ、またそれらに興味を持つように育つことができたのは、この人々のおかげである。
 だが人には同時に短所もあるもので、祖母はやや思い込みが強く地元と家への思いに関しては頑迷なところがあた。 何しろ、東京で暮らし始めた頃「東京の女の子は全員整形していると聞いた。ついては早く地元に帰って同じ高校(地元では名門校と言われ、外に出れば誰も知らない学校)を出た女性と結婚しろ」という手紙を送ってくるくらいである。もちろんこの手紙や、それに代表される彼女のドグマは一笑に付すことができた。なぜなら相手は「ばあちゃん」だからである。
 しかし、よりダイレクトに関係する父親になると少々話が違う。特に若い頃の父には、生真面目さと裏表に「理不尽にキレやすい」という欠点があった。例えば小学校の頃、晩餐中にうっかり味噌汁をこぼしたところ「注意散漫である」という理由で手を上げられたりもしたし、議論が行き違うと「それは屁理屈だ」と激することもしばしばであった。中学高校にもなると完全に気持ちが「世界」に向いていた自分には、こうした短所が土着の「家」の文化の圧力とともに旧世代への反感を育て、前述したような長所を相殺して余りある斥力となったことも事実だった。それら/彼らを面と向かって侮る態度を見せているうちに「家を継がないなら養子を取る」と言われたこともある。家業というものがないので、この場合の「家を継ぐ」は「地元に残って(あるいは帰って)家や土地の面倒を見る」というくらいの意味だが、無意識に「家」という概念を個人の上位に置くこうしたタームが出てくること自体が実に前時代的な感覚に思えた。そして、自分は大学進学とともに家を出て自分の周囲のすべてから土着性を排除し(た気になり)、「世界」を学び始めた。
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 90年代初頭に見た、人や価値が流動していく世界への高揚。そして、成長とともに己を形成したものごとから自らを引き離していく、数年来の心の動き。そうしたものが自分を「人が動くこと」というテーマに向かわせた。そこから「移動し、越境した人たちが何を見、考え、作ってきたか」を考えることが始まり、百五十年ほどの近現代のタイムラインの中で誰かが辿った道のりを追うように神戸から沖縄および先島、アメリカ、ブラジルやメキシコなど中南米、あるいはアジア各国、ここ数年ようやくヨーロッパにも足が向き始めて、ごくわずかながら「世界」の奥行きを垣間見つつ生きてきた。サン・パウロで日系人たちが残した俳句を読んで人によっては「まだ見ぬ」故郷に寄せる思いの濃さに震えながら、マーファでチカーノたちが自らの個人史を語るプロジェクトに参加しながら、サルヴァドールの突堤で出会った少年にビリンバウを教わっているうちに気づいたら6人に囲まれていてリュックを奪われかけながら、かつてそこに住んでいたユダヤ人の痕跡を探してフランクフルトの街を前かがみで歩きながら。
 できるだけ観光的消費から遠くへ行くことを志向し、名もなき路地裏や虚無の砂漠を歩く。土地のことばを聞き、そこにしかない風景と感情にまみれ、遠くへ、深くへ、また遠くへ。その先で様々な人の営みに出会う。あるいはただそれを通り過ぎる。もう50年は何ひとつ売れていないのではないかと思うくらいに埃をかぶったメガネがうず高く積まれたテカテの眼鏡店の店主のおばさん、コザの街中で唐突に自分を呼び止め勝手に占い初めて500円をせびり、素直に渡したのに「金額が少ない」と怒り始めた爺さん、日も暮れた頃にようやくたどり着いたこちらを尻目に呼びかけるまでクリケットの中継に夢中で仕事を放棄していたグレン・イネスのモーテルの駐車場管理人、クリスマス真っ只中でどの店も開いていない極寒のトロントで「関係ない」と言わんばかりに営業していた中華料理屋の女将と思しき女性の尋常ではない肌艶のよさ、そういうものを見ているうちに頭をよぎり始める思いがあった。
「どこにも行けなかった人や、どこにも行かなかった人は、何を思って生きてきたのだろう」

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 1926年に電子の動きを規定する波動方程式を導き出し、量子力学の発展に寄与した物理学者エルヴィン・シュレーディンガーは、科学者でありながら東洋的思想にも多大な興味を抱く哲学者でもあった。彼は1956年、ケンブリッジ大学トリニティカレッジでの講義(収『精神と物質 意識と科学的世界像をめぐる考察』中村量空訳、1999改訂 工作舎)において、このようなことを述べている。
〈世界描像とは自我そのものなのである〉
 これだけだとやや唐突だが、彼はその前段で自然科学において「これはこういう客観的な真実である」といった定義づけが当然のこととして受け入れられていることに懐疑的な立場をとり、それを〈自然の複雑な問題に精通しようとして私たちが用いる、ある種の簡略化に等しい〉と述べている。そこに自らの精神というフィルターがかかっていることを無視して客観的真実を認定できることなどあろうはずがない、というのだ。
〈世界描像を造りあげている素材は、精神の器官である感覚器官の産物なのでして、それゆえすべての人の世界描像は常に精神の構造物としてあり、それ以外の物になるという説明などできるわけがありません〉
〈世界は私にただ一度だけ与えられたものなのでありまして、たった一つの存在でも、たった一つの知覚対象でもありません。(中略)つまり意識が複数形で体験されずに、単数形で経験されるという経験的事実によって、この教理は裏付けられているということなのであります。私たちのうちの誰一人として、一つ以上の意識を経験したことはないのです〉(引用すべて前掲書より)
 自分はある時点まで、自らを「どこかに行った人」「どこにでも(ある程度は、という留保はつけておくが)行ける人」と定義して、その意識で世界を見てきた。かつて海を渡った日本移民たちや現在アメリカに流入する「不法移民」と呼ばれる中南米の人たちのことを調べるようになり、あるいは、かつて欧州で住む場所を離れたり追われたりしていったユダヤ人たちの痕跡に触れ、現在欧州に流入する難民たちをこの目で見た。彼らのように生まれた場所から引き離され、あるいはやむを得ない事情によって離れざるを得なかった人たちのことを考えながら、そうした力学が作ってきた近代史の果てにいる自分のことを考えてもきた。それは自己形成の過程における周囲の環境への反発も含め、自ら選んで是としてきた世界観である。
 だが、自らの土着性からも消費的欲求からも離れて遠く、深くへ行くほど、そこで出会うのはそれこそ自らが切り捨ててきたはずの「どこにも行けなかった人」「どこにも行かなかった人」たちだった。
 曇り空の下、「こんな場所を誰が?」というような標高6000フィートの山間のバイパス沿いを歩いていたネイティブ・アメリカンの老婆。山形のスナックで出会った、高校を出て40年中国で働きこのほど帰国したという友人と卒業以来の再会を果たした男性の「おれはずーっと、ここで待ってたからなぁ」というひとこと。鉄道駅の廃止以降衰退の一途を辿り消滅を待つばかりのテキサスの小さな町を永遠にのんべんだらりと照らすような西日の中、ひび割れた窓を「TRUMP – MAKE AMERICA GREAT AGAIN!」というお馴染みの文句が書かれたステッカーで留めた家の中で、微動だにせずテレビを見ていた男。自主的な選択、あるいはやむを得ない事情によって、ほとんど同じ場所で人生を過ごし、恐らくはそのまま終えて行く人たち。彼らは何を思い、何を見ながら生きてきたのか。
 人を生まれた場所から遠ざける斥力と同じくらいに、人をある場所、あるいはある文化や慣習に縛りつけ、縫い止める引力も存在する。そのことに完全な充足を抱く人生もあるだろうが、一方では幾日も幾日も通り過ぎていくだけの足音や車輪の音を聞きながら、ころころと移り気に吹き抜けてゆく時代の風を聞きながら、どうしても動くことのできない場所から遠くばかりを見るような人生や、目の前の限られた世界の中に最大限の宇宙を見出そうと努める人生も、そこにはある/あったはずだ。そして、それらは常に、「どこかに行った人」の帰れない魂と合わせ鏡をなしている。

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 近代はいつも、他者の姿を借りて〈どうして旅に出なかったんだ〉と語りかけてきた。〈きのうあいつは旅に出たけど/おまえは行かなかったのさ〉(友部正人「どうして旅に出なかったんだ」)と。直接そうは言わず、また本人にその意図はなくとも、古くは旅先からの手紙や絵葉書、あるいはちょっとした小包、現代ならメールやメッセージやSNSに投稿された数多くの画像や動画が、さらには不特定多数に向けたメディアの映像や、言葉や、音楽が、そう語りかける。それらは世界のごくごくわずかな表層に過ぎないが、それでも見るものの世界像、すなわちシュレーディンガーの言うところの自我の輪郭は少しだけ揺らぐ。自分は行かなければ/帰らなければならないのではないか。あそこへ、あるいは別の場所へ、ここではないどこかへ。望むと望まざるとに関わらず「どこかに行った人」が近代のさまざまなメディウムを通してこの世界に放流し続ける「移動」のイメージは、無数の人の意識を己の拠って立っていたものから遊離させ、流動させてきた。それは物理的な場所に限らず、状態や境遇、思考や関係性といった、近代的自我を取り巻く環世界そのものの流動でもあった。
 人が科学、あるいは情報を手にして世界を客体化し、経路や手段の発達によって物理的な存在として、そしてその環世界ごと流動することを覚えて以降、精神の中で距離や時間をも超えてゆく世界像と、一方で常に瞬間的には「今、ここにしかいられないこと」を繰り返しながら老いてゆく身体という物理的制約との距離は開くばかりだ。無限に拡張も遡行もする精神と不可逆の時間がセットされた身体の近代的パラドックス、と言ってもいい。そして、その間にある虚空には無数の「どこかに行かなければならなかった人」や「どこにも行けなかった人」の声、あるいはその中間のグラデーションをなすあらゆる人の声がこだまし、それが近現代を内側から形づくってきた。そのすべてのケースにおいて、どこまでが自由意志でどこからが不可抗力なのかという命題に100%の答えを出すことは、おそらく本人にもできはしない。
 ブルース・チャトウィンが旅の空で自らの死を悟りながら最後の書名にした「どうして僕はこんなところに What Am I Doing Here」という言葉だけが、実は近代のあまねく人々にとって最大の自我の主題なのかもしれない。誰しもがその内面に抱えた虚空にこだまする声のありかを探すことこそ、政治の力学や社会の風潮によるバイアスから離れて己の立つ場所を見極め、そして他者との距離やそれをどのように設定/再設定しながらどのように共にあることができるかを考えるための処方になりうるだろう。ニヒリズムに耽溺しながら分断を嘆くよりも、おそらくは。

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 昨年、ちょっとした用事で郷里に帰り、父親と会話を交わしているうちに、彼は一言「自分も若い頃は、外に出たいと思うこともあった。しかしながら、この家の長男である自分は地元で進学して地元で就職するしかなかったのだ」ということを言った。これは大きな驚きだった。自分は長らく彼を「当然のようにこの地元で生きることを宿命づけられ、何の葛藤もなくそれを選んだ人物である」と認識していたからだ。今にして思えば一個の人間として何の葛藤もないわけがなかろうと思うが、少なくとも自分の記憶にある範囲の父は、そのような物言いや振る舞いをしていた。祖父亡きあと祖母からの期待を一身に背負い「家」を自ら内在化していった部分もあったのかもしれないが、まだ今の自分と同じくらいか若い30代半ばだったことを考えると、その重圧(と、善意ではあれ何かにつけ家長代理として干渉してくる祖母)は本人も気づかぬうちに重荷となっていたことだろう。祖母もすでに他界し、あれほど激しやすかった父親は、今ではすっかり穏やかになり、父祖伝来の土地を耕して生きている。
 彼の「どこにも行けなかった魂」は、今では満たされているだろうか。それを訊ねることは、おそらく今後もない。我々にはどこまで行っても、単数的世界像を越えて他者の魂を覗き見ることなどできはしない。ただ、考えるだけで。
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 自分はといえば相も変わらずあちこちを落ち着きなく動き回り、今年はすでに6か国ほどを訪れる予定が立っている……いや、いた。これを書いている最中に、現在の世界を取り巻くコロナウイルス禍の余波によってそのうちの2つが飛び2つが延期された、そのことをどう考えようか。
 現在、新型コロナウイルス感染症のパンデミックを受け、アメリカやカナダ、EUのほぼ全ての主要国やアジア各国において国境が(条件つきで)閉じられ、内部における人々の移動さえも制限されるという有史以来の事態が発生している。望みさえすれば好きなだけ流動することができるようになったはずの現代人たちが不可視の脅威、そして時代遅れになりつつあった国民国家の概念に足枷をはめられたかのようにどこにも行かず、文化に触れる機会を削がれ、隣人とさえ距離を取ってじっとしていなければならないという「アンダー・コントロール」な状況は実に皮肉であり、また同時に、「開かれていること」が無上の価値とされてきた冷戦以降の歳月に対して世界中で噴出してきた疑念や不満、あるいは孤立主義や排外主義、そして人々の中に眠っている「他者を統制したい」という潜在的な欲望に、この状況が奇妙なお墨付きを与えたようにも感じている。
 国家は緊急事態だからと法やテクノロジーによって本来はもっと慎重な議論が必要なはずの監視強化的な決定を行い、市民社会においては病だけではなく疑いや恐怖が感染する。そこかしこで新たな線引きがなされ、誰もが見ないことにしていたり理性によって無化しようとしていたはずの境界線が改めて露わになっていく。政治的あるいは観念的には分離や閉鎖、あるいは孤立がより大きな引力になっていくであろう今後の潮流の、今がまさに分水嶺となるはずだ。一方でこの30年の間に経済が分かち難くグローバル化した以上、実態と観念とのコンフリクトはこれから数多く現出するであろうし、そこで力を持ち始める言葉も、おそらくはこれまで無批判に近代における人間の条件とされてきたものが根底から崩落するような性質のものが増えてくるだろうと思うと、やや気が重くなる。しかし、自分自身も含めこの30年の間に「どこにでも行ける」ようになった人間たちが引き起こしてきたパンデミックや富の偏在、あるいは気候変動といった負の影響は今後確実により大きな思想的争点となり、そして「どこにでも行ける」ことは新たな時代、閉じゆく世界の原罪となるだろう。
 だが、このコロナ禍の前から、それは明らかにそうだったのだ。「我々には常によりよい未来がある(べきである)」という人間の条件、換言すれば人間という種に固有の思い上がりは、もはや足元からとっくに崩れていた。
 英国の若きトラックメイカー・Mura Masaは2019年に発表した楽曲「No Hope Generation」において、私たち「どこにでも行ける」人たちが食い散らかした世界の外側で閉塞していくもうひとつの世界(と、私たちは軽々しく口にする)を生きる感覚を、こう歌っている。
〈Everybody do the no hope generation
The new, hip sensation craze sweeping the nation
Gimme a bottle and a gun
And I’ll show you how it’s done
And if you look real close
You’ll see it’s all a joke
(中略)
Living in a dream, saccharine
Face away and leave the scene
I need help to quit, I need help
I need help, I need help
誰もが「希望のない世代」だってさ
最新の流行が国じゅうを席巻する
火炎瓶と銃をくれ、どうなるか教えてやるよ
よくよく見てみれば全部お笑い種だってことがわかるさ
(中略)
偽物の甘い夢の中に生きてる
見たくないし向き合いたくもないんだ
こんなのやめる助けをくれよ、助けてくれ〉(対訳;筆者)
 曲のサビでは「バスルームでハッパを決めさせてくれよ、俺はリラックスしてる、俺はリラックスしてる、俺はリラックスしてる……」と呪文のようなヴァースが繰り返される。ミュージックビデオに映し出されるのは、それこそまるでロックダウンでもしたかのように寂れ果てた周縁都市の公営住宅と、そこで閉塞しながら暮らす人々。水面ギリギリに顔を出して浮かんでいるような、少しのきっかけで水没してしまいそうな、そんな人々だ。むしろちっともリラックスなどしていない。が、厳しい状況の中においては、砂糖ではない人工甘味料サッカリンを摂取するように、偽物の夢に耽溺するしかない。時には自らを肯定するために排斥や分断の言葉を吐きながら。彼らはよりよい未来にも、年長の世代がすがる栄光の過去にも、ましてや現在において恩恵をこうむる側の人生にも、「どこにも行けなかった」。その原因がこの30年、あるいはその間の自らの振る舞いのどこかにある可能性がゼロではないと考え、慄然とすることがある。今や世界は巨大なバタフライ・エフェクトの中にあるのであり、我々は等しく共通の罪を負うているのではないか——誰もが等しく動くこともできず閉塞していくこの時間は、そのような問いの時間でもあるのではないか。だとすれば、この夜の時代が終わった後に語られるべき言葉は、どのようなものか。
 静まる街の真夜中の底、一人で巡らせるそんな思考に倦んだ時にふと思うのは、ニューヨークやロンドンで出会うようなメディアや美術関係のコスモポリタンな人々、ではない。サンドストームに巻かれるアリゾナの路傍の小屋で眠っていた工事夫であったり、客の誰もいない旧跡の入り口で30分ほど戦争やリゾート開発の話をしたあとに「もう40年も、ここでこんな話してるんだけどね」と言って貝殻をふたつくれた西表島の露店のおばさんであったり、ニューメキシコの先住民居留地で「どこから来た?東京?よくここまで来た。I’m proud of seeing you」と声をかけてきた地元の男の目であったりする。「空気」に巻かれることなく、さりとて積極的に選び取るでもなくただ淡々とそこにいて、世界が開こうが閉じようが、己の暮らしを続けてきた人々。彼らは圧倒的に世界から離れて独立しており、そして圧倒的に個である。自分はそうした個を幸運であり、美しいとさえ思う。そうした美しさにただ打たれ、そこから遠く離れた己のことを考えるために、自分はこれからもやはり海を渡り、車を走らせるだろうとも思う。もしかしたら自分は彼らの中に、そのどこにも行けなかった/行かなかった魂の中に、自分自身が切り捨ててきたものと己を接続するよすがを見ているのかもしれない。不可逆の身体をせめてもとあちこちに運び、過ぎ去った時間を遠くに望み、新時代の罪を重ねながら。重ねた罪のそのあとに来たるべき言葉、今はそれを考えている。
〈都市は残らぬ、残るのは吹き抜けてった風、ばかり。
家ってものはごきげんなエサ、食う者は食いに食う。
ぼくらは知っている、ぼくらはさっさと行く者であり
あとへ来る奴らだってが、名もとおらねえご連中。〉
〈ぼくは、アスファルトの町へ打ちあげられたベルトルト。
くろい森から、母の胎内から、はるかむかしから。〉
(ベルトルト・ブレヒト「あわれなB.B.について」 収『ブレヒト詩集』野村修訳、1959 飯塚書店)
 現代においては、物理的にはどこにいようと、拡張し遡行する精神と不可逆の身体は乖離し続ける。であるならば、どんな人間にも時おり、その狭間で魂が引き裂かれるような夜はあるのだろう。どこにも行けなかった魂、あるいはどこにも帰れなかった魂、遠くばかりを見ていた魂。それらは詩となり、ジョークとなり、俳句となり、ブルーズとなり、文章となり、絵画や写真となり、独り言となり、リズムとなってこの世界に響いている。あるいは自由を求める声となり、誰かを排斥する声となり、愛や憎しみや歓喜や恐怖や孤独に震える声となって。煮えたぎるマントル層にごく薄っぺらく浮かぶ地殻の上、物理的にはわずかなものである空間を、それらのエーテルが満たしている。終わりの見えない夜明け前、最も暗く長いこの時間に。

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
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