国境線上の蟹 34

27 長い余震の中にいる(1)
 国境を越え、しばらくの間、実に場末感の漂う通りを歩く。とはいえ、この通りはチワワ州シウダ・フアレスの目抜き通り、その名もベニート・フアレス通りのはずだ。
 この通りの名、いや、そもそもシウダ・フアレス(フアレスの街)という地名は、1861年に先住民の出身者として初めてメキシコ大統領となり、ナポレオン三世のフランスがメキシコシティを占拠して建てた傀儡国家・メキシコ帝国の打倒を主導したことから今なおこの国で最も尊崇される政治家であるベニート・フアレスがここに亡命政権を置いていたことから取られている。その歴史を名に冠した、この街の、この国の背骨のような通り。
 それを疑いたくなるほどポツポツと安っぽい日用品店、埃っぽい歯医者、借主がいなくなって久しそうな店舗物件、穴の開いたままの街路などが現れるだけの全体的にグレーがかった街並みを眺めつつ不安な気持ちのまま10分ほど進むと、ようやく風景の彩度が上がり始め、そして程なく、拍子抜けするほど明るいムードの一角に出た。
 ここはシウダ・フアレスの旧市街。自分はほんの数年前まで「世界の殺人の都」と呼ばれていたこの街の、二本の目抜き通りがぶつかる交差点に立っていた。
 
 たった今歩いてきたベニート・フアレス通りが、東西に延びるもうひとつの目抜き通りと交差する。通りの西端には、二本の塔を伴った教会と思しき建物が見えた。
 交差点の付近はプロムナードのようになっており、そこにはフアレス=Juarezの略である「jrz」を象った(ただし「j」の字の点の部分がハートマークになった)巨大オブジェが鎮座し、付近に設置されたスライダーやトランポリンといったエア遊具では子供たちが楽しげに遊ぶ。その周辺に点在するコンクリート製のベンチには、それぞれ絵柄の違うカラフルなペイントが施されている。実に平和な春の午後を、街は謳歌しているように見えた。
 教会を目指して少し歩けば、そこは旧市街の中心部だ。雑貨屋の店頭に置かれたCDデッキからけたたましく鳴るマリアッチ、山ほどのストラップハイヒールが並ぶ靴屋、路上に年代もののカラオケセットを設置して、おそらく長い年月の間そこで「Let It Be」だけを歌っていると思われる男、けばけばしい色柄のタイツを売る露店、明らかに有名ブランドのパロディのようなローカルスニーカーを売るショップ、公共の運営なのだろうが一つひとつバラバラの手描きでデコレーションしているバスの数々。グローバル経済の権化のような隣国の目と鼻の先にあり、その有形無形の影響も多分には受けながらも、こちら側の景色はどこか「ならされていない」色彩と造形と音に満ちている。
 そして、香ばしいトルティーヤの香り。我慢ができなくなり、そのへんにあった軽食堂で、日本ではあまり食べる機会のないモレのタコスを頼んだ。モレとは、カカオをすりつぶしてチリやオニオン、ラードにニンニクなどを混ぜた甘さのほとんどないソースである。もともと、アステカやインカといった中南米の先住民社会においては、カカオはこのようにチリなどを混ぜた甘くない飲み物にして高貴な人々が嗜むものであったようで、このモレはその名残といえる。ついで水を頼もうとして「ウォーター」ではなく「アーグア」と、風景に言わされる。スペイン語の風景。

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 16世紀に黄金や奴隷を求めてこの地にやってきたスペイン人は、すぐにカカオという、先住民社会において特別な存在である果物に気がついた。アステカ帝国を滅ぼすことになる征服者エルナン・コルテスは、スペイン王カルロス一世への報告書の中でアステカの都・テノチティトランへの行軍の最中、アステカ王モンテスマよりの使者が〈金の皿を一〇枚、衣類を一五〇〇着のほか、鶏やパンや彼らが飲む一種の飲み物であるカカオをたくさん〉持ってきたことに触れ、別の書簡では〈当地ではあまねく貨幣の役目を果たし、市場でもそのほかの場所でも、必要なものはすべてこれで買うことができます〉とも書いている(『チョコレートの文化誌』八杉佳穂著、2004世界思想社)。カカオはその他にも、儀式の際の重要な供物にも使われる「神の食物」でもあった。その神を騙りながらこの地に分け入ったコルテスによるアステカの滅亡後、スペイン人たちによる組織的な虐殺、あるいは疫病や労役によって、先住民人口は激減した。
 1517年のヌエバ・エスパーニャ「発見」以来、ドメニコ会の修道士バルトロメ・デ・ラス=カサスが有名な『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(改訂版=染田秀藤訳、2013 岩波文庫)に記録したところによると、約2500万人いたメソアメリカ全体の先住民人口は、85年後の1603年には100万人程度にまで減ったという。アステカ王家への献上品でもある高品質なカカオの生産地であったソコヌスコ(現在のメキシコ南部・チアパス州とグアテマラの国境付近)の人口も、征服以前の三万から1563年には1600人にまで減っている(前出『チョコレートの文化誌』より)。だが、この頃にはこの地域の金銀をあらかた掘り尽くしてしまっていた植民者たちによってカカオが中米各地で商品作物として栽培され始め、現在のエクアドル、ベネズエラ、コロンビアあたりの生産量が増加。1630年頃までには上流階級が砂糖や香辛料などを混ぜて飲む嗜好飲料、あるいは薬や菓子の原料としてヨーロッパでも受け入れられ始め、世界へと広がっていく(現在のような固形チョコレートが生まれたのは19世紀の産業革命以降である)。
 
 メキシコをはじめとした中南米やカリブ海、あるいはアフリカ西海岸の植民地では、カカオのプランテーションが盛んに築かれた。言うまでもなくそれは自然の植生や生態系を無視した、交易商品製造のための単一栽培の場であり、現地住民や奴隷に対する厳しい収奪的労働の場でもあった。のちにブラジルの国民的作家となるジョルジェ・アマードは1933年に発表した初期作品『カカオ』(田所清克訳、2001 彩流社)において、カカオ農園で新たに働くことになった青年ジョゼーが農場主の非道な収奪と厳しい労働の中で次第に政治意識に目覚めていく様を描いた。中産階級の出であったジョゼーは、その初日にこのような言葉をかけられてショックを受ける。
〈「これでお前さんは親方の賃借人になったんだな」
 その賃借人という言葉はおれには奇異に思われた。
 「農具や馬なら貸し借りするけど、人間はそんなことないよ」
 「だがなあ南部のここらの土地じゃ人間も貸し借りされるのさ」
 その言葉はおれを傷つけた。借りもの……。おれは人間よりもっと価値のないものになったのだ……。〉
 労働者を「人間よりもっと価値のないもの」として扱いながら、金持ちや植民者たちの利潤を最大化するプランテーション作物のひとつとして、カカオは世界へと広がっていった。その原初の地であるここメソアメリカにおいては、その生産を担うのは本来この場所にいて、カカオを通じて神と通じ合っていた人々であった。
 スペイン語に塗りつぶされた風景の中で、そうした営みがかつてここにあったことをわずかに証すかのように、沈黙のうちに黒光りするモレを味わう。「アーグア」を入れて渡された紙コップには、コカ・コーラのロゴがプリントされている。日本からわざわざこんなところまでやってきてそれを眺めている自分もまた、彼らに苦難を強いた歴史の先端にいることを実感する。

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 中世以降のヨーロッパ世界の膨張によって各地で不可視の存在あるいは収奪するのみの対象とされてきた世界の先住民たちは、20世紀半ばから1990年代末にかけて、その権利獲得のための運動を少しずつ拡大させてきた。ここメキシコでも、それは様々な形で現れている。
 その代表格は、メキシコ革命の英雄エミリアーノ・サパタを信奉するサパティスタと呼ばれる人々が結成したEZLN(サパティスタ民族解放軍)である。1992年、クリストバル・コロンによるアメリカ大陸「発見」から500年という年にサン・クリストーバルで開催された記念式典に突如乱入、スペイン語でなくマヤ語で会話することで「征服者の歴史」を公に拒絶して見せたこの集団は、前章でも述べた北米自由協定(NAFTA)に反対し、NAFTAは国外資本や大資本のみを潤し自らが立脚するチアパスの零細農民たちの生活を圧迫するものであるとして、その発効と同時に武力蜂起。現在は闘争路線から対話路線へと転換しながら先住民や低所得者、農民らの権利獲得や法改正のため政府と交渉を続けている。彼らは国内外の様々なNPOや研究機関と連携しながらインターネットやSNSで活発に情報発信を行い、彼らの自治区には観光客の受け入れなども行なっている。2017年には「現体制が定めた政治制度を拒否する」というそれまでの方針を転換し、メキシコの大統領選挙に先住民女性の候補者マリア・デ・ヘスス・パトリシオ・マルティネスを擁立。自らアップデートを続ける先住民運動の先駆的存在として、広範な支持を集めている。
 サパティスタや、それ以降この世界に少しずつ現れ始めた新たな先住民運動を見ていると、実に巧みにインターネットや各種メディアを利用していることに気づくだろう。だが、彼らが駆使しているテクノロジーやインフラは、そのほとんどが、彼らが抗議の対象としてきた帝国主義に端を発する近代資本主義や新自由主義的な世界の産物である。NPOの世界的な連携や先住民運動の間の連帯といった事象も、すべて例外ではない。
 一見パラドックスとも解釈できるこのような事柄は、しかし同時に、安易な純粋主義に陥らない新たな運動の可能性を十分に示してもいる。そこにはマヤ文明の昔に回帰しようというのでも、現在の政治体制や制度を完全に否定するのでもなく、先住民の権利や、必ずしも先住民のみによって代表され得ない、グローバル資本主義の収奪の対象になっている労働者や農民の権利といったものを、多数派によって決定された「中心」的構造の中に、コンクリートの建築に浸透する雨水のように広げていこうというリアリズムがあるのだ。そして、そうした声が一つでなく多響的・同時多発的に様々な単位から発されていくことで、未だ多くの人々が不可塑であると信じ込まされている「中心」やそれを作り上げた構造の強固さが揺らぐこともある。
 そして、そのとき私たちは初めて、私たちの近現代もまた真の意味では決して不可逆ではないことを知るのだ。
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 現代の生活において、時間というものはほぼ「暦」によって規定され、あたかもそれが同義であるかのように考えられている。しかし、近代に至るまで、いや今でも、この世界には様々な文化の中で作られてきた独自の暦が無数に存在してきた。身近なものだけでも月の満ち欠けを基準とした太陰暦や季節を基準とした二十四節気などがあるし、世界を見渡せばまさにマヤの人々が使っていたマヤ暦、ムスリムたちの使うヒジュラ暦など有名なものから、もはや滅んだ文明の暦や明文化された暦法が残されていないものまで含めると、数え切れないほどの暦が存在する(した)。それはつまり、「時間の流れ」というものそのものをどう解釈し重ねていくかという感覚自体が地域の風土や文化・人々の価値観によって異なっていたということになる。
 現在スタンダードとされている1年=365日のグレゴリオ暦も、いわば単なる「その一つ」である。古代のローマ暦、エジプトに遠征したユリウス・カエサルがエジプト暦の合理性に着目しローマ暦を改訂したのを祖とするユリウス暦といった暦法が長く用いられてきたキリスト教世界において、それを太陽周期とより正確に合わせるため1582年にローマ教皇グレゴリウス一三世が改暦を行なったのが、このグレゴリオ暦である。ローマ教皇、つまりカトリックの守護者の制定した暦ということで、グレゴリオ暦はまずイタリア(正確には現在のイタリアを構成する諸小国)、スペイン、ポルトガルといったカトリック圏に広まりはしたが、プロテスタントのイギリスやスウェーデン、またはロシア正教会を奉ずるロシア諸国などはその後二百年以上、これを取り入れることはなかった。非キリスト教国では1873年1月1日を「明治六年の元旦とする」とした日本が最初の例のようだ。
 このように、太陽周期に対する正確さ(厳密には正確さへの近さ)という意味での利便性ゆえに全世界に広まりはしたグレゴリオ暦ではあるが、それは一方でキリスト教世界の拡大とヘゲモニーの移ろいに従って、すなわち政治の力学とともに「スタンダード」として伝播していったものにすぎない、とも言える。その過程は、この世界の様々な場所でその土地の風土や暮らしに即して刻まれてきた暦法、すなわち時間の感覚や世界観の数々が効率的で強い単一のものに統合され塗りつぶされてきた、近代そのものの輪郭と軌を一にしている。つまり、現代の我々が生まれた時からまるで単一の時間の概念を唯一無二の真理のように教えられることそのものが、すでに私たちの近代の構造の再生産であると言えるのだ。
 暦は便宜上、一方向にリニア(線形)に進むものであり、基本的には蛇行も停滞も遡行もしない。そして、近代的な思考もまた、基本的にはそのようにできている。人類は、あるいは社会は、古く蒙い過去を離れ、新しくクリアな未来へとリニアに、そして不可逆に発展していくものであるというのが近代の大前提であった。それゆえ、それにそぐわないものは「前近代的である」とされ、捨象・忘却・あるいは破却の対象となってきた。それらは「進歩」の歴史の下に埋め立てられ、なかったことにされた。
 
 だが、おそらく本来、人というものはそうはできていない。もっとファジーに、あるいは自由に、自らの固有の身体感覚や個人あるいは集団的な記憶の中で過去や未来へと往還しながら非線形的な揺らぎの中を生きているものなのではないか。
 例えば世界の各地に残る「むかし、むかし」の物語に、または自らの氏族や部族の歴史を過去に求め、トーテムや歌に託してきた人々の営みに、あるいは米軍基地のフェンスの中に閉ざされた生まれジマ(生まれ育った集落)の記憶を語る沖縄の老婆の語り口に、「東日本大震災から10年」を盛んに繰り返すメディアや行政の声に遠い目をする東北の友の顔に、おそらく人の数だけその感覚は存在している。その感覚をもって過去と向き合うとき、人は自らを今いるこの場所に運んできた時間の流れと再び向き合いながら、己を現在に接続し直している。それを単なる懐古や現状否認であるということは誰にもできないだろう。それはむしろ「ここからどこへ向かうか」、つまり現在地から先のどこかを指向するための導を求める切実さを多分に含んでいる。その繰り返しの中で、本当は誰もがときには急いたり、ときには遠い昔を昨日のことのように振り返って悔やんだり、またときには決定的な何かを引き延ばしたりしながら、必ずしも「24時間×365日=1年」といった画一的な基準では説明できない固有の時間感覚を生きている。ときには、己個人の人生の長さを超えて。
 人がその感覚を失い、そのために「他者にも固有の時間がある(あった)のではないか」という想像力も失い、現在性のみに依拠してすべての価値を計る身ぶりに卓越してしまったことによって到来した健忘症の時代に我々が目にしているものといえば、結局は捨て去った記憶のジェネリックに過ぎないポスト・トゥルースや陰謀論で構成された世界像、人も空間も全てを数値化し換金していくバズやネオリベラリズムが大手を振って歩くメディア空間、あるいはほころびかけた「中心」やその構造をなんとか強固に保とうという歴史修正主義者や差別者によるバックラッシュの跋扈である。歴史、人種、性、あらゆる場所において、自分が唯一無二と考える「構造」以外のあり方が存在する可能性を否認したいというものが増えていく。
 この荒野がもし近代やその時間感覚の行き着く先なのだとしたら、私たちはまず自らが自明のものだと考えてきた時間の枠組みそのものを一度再考し、単なるリニアな「未来」ではなく蛇行や遡行の可能性も含めた、己の近代的自我の外にある時間感覚について、もっと考える必要があるのではないか。埋め立てられてきた複数の可能性、複数の時間、複数の歴史、複数の軌道、複数の因果について、もっと。

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 街のシンボルになっている、二つの塔を持った教会へ向かう。ラテンアメリカなどカトリック圏においてはこうした旧市街の中心には必ず教会があり、広場を伴うのが定番だが、ここでも例に漏れず、木漏れ日の降り注ぐ石畳の広場がある。なぜか鳩がやたらと多く、どこか日本の公園の昼下がりを思わせる弛緩したムードが漂っている。昼から仕事をサボって、いやそもそも無職なのか、話し込む中年男性二人。めいめいの子供を遊ばせる若い母親たち。穏やかな午後。
 
 かつてこのフアレスは、現在は国境の向こうに隔てられてあるテキサス州エル・パソとひとつのエル・パソ・デル・ノルテ(北の道)という名の街だった。この広大無辺の乾いた大地は見渡す限りヌエバ・エスパーニャ(新しいスペイン)と名付けられたスペイン植民地であり、そこに神の教えの慈雨をもたらそうと考えたスペイン人によって数々のミッション教会が建設された。テキサス、アリゾナ、ニューメキシコ、カリフォルニアへと至る中西部には、今も美麗なスペイン風建築のミッションが多数残っている。シウダ・フアレス大聖堂ことグアダルーペの聖母大聖堂も、1659年にフランシスコ会の修道士たちが建てたミッションを起源としている。
 
 スペインの征服者がほしいままに奪い、殺し、荒野に変えていった場所に、宣教師たちは教えを植えつけていった。先住民に神の救いをという宗教的情熱は当然あったかもしれないが、そもそも彼らの生活や文化、もともとそこにあった多神教的信仰を破壊し、救いが必要な状況に彼らを追い込んだのは、他ならぬスペイン人ではなかったか。だが、長い時間の中で、その教えは人々の中に根付き、例えば1531年に現在のメキシコシティに現れたと伝えられる——文化的にはアステカ古来の女神信仰とキリスト教の聖母マリアへの崇敬が混合していると見られる——グアダルーペの聖母のように、先住民の文化や習俗とも融合しつつ、その土地土地のローカリティも獲得していった。例えばブラジルでは黒人奴隷の多く渡来した北東部を中心に、アフリカ西部のヨルバ人の信仰における風と雨の女神イアンサンを表向きにはキリスト教の聖人・聖バーバラとして祀るなど、カトリックに改宗した体でアフリカの信仰を保ち続けるという形での混交が起こったりもしている。
 こうした共存を、歴代のカトリック法王庁は基本的に容認してきた。そのことでヨーロッパで千年以上続いた凄惨な宗教戦争が回避され、ラテンアメリカにおいてカトリック勢力が長きにわたる優位を確立したという側面がある。しかし、この数十年の政治・経済における自由主義の広がりや宗教教育の廃止など社会の変化に伴い、プロテスタントや他宗派に転向するものも増えているという。メキシコでは依然カトリックが圧倒的な多数派ではあるが、2020年の国勢調査によるとその五歳以上人口比は77.7%と過去最低で、2010年の89.3%から10%以上も落ち込んでいる。
 代わって先住民地域やアメリカとの国境地帯を中心に勢力を伸張しているのは、プロテスタントだ。この土地にカトリックが伝来した歴史的経緯への異議申し立て、カトリックの保守性を規範のベースとする社会に対する意識の変化、インターネットによって可能になった世界の思潮との同時代的リンク、アメリカとの地理的要件も含めた関係性の変化など、複合的な、そしてそれぞれレイヤーの違う理由によって、この国の宗教地図は少しずつ塗り変わりつつある。特に先述のサパティスタの本拠地、すなわち先住民運動の重要拠点であるチアパスでは、プロテスタント人口は35%前後にまで増加している。
 カトリックであろうとプロテスタントであろうと、それはスペイン人の到来によって発生した諸状況の長い余震とでもいうべき「モーダス・ヴィヴェンディ(modus vivendi)=暫定の決めごと」の時間である。だが、もはやキリスト教やスペイン語の到来以前に戻ることはできない現実の時空間の中で、それでも人々は現在に至るまでにあり得たであろういくつもの分岐を検討した上で己の拠って立つべきものを逆算したり、今そこにある諸条件の中でもっとも適切と思われるものを選択的に取り入れながら自分たちのローカリティやアイデンティティ、あるいは思想や信仰の現在の座標を設定し直していくというリアリスティックな手法を通じて、来たるべき状況や来たるべき言葉を迎えに行く。その場所に確実に流れた時間を否認して別の時間で塗りつぶそうとする原理主義のような仕方ではなく、複数の時間の中で入り乱れ影響しあってきた複数の因果や文脈を認識しながら、デスクトップやスマートフォンで動画を見ているときにつまみを左右に動かしてタイムラインの任意の場所に移動するように時には時間軸を前後に移動しつつ、都度都度に直面せざるを得ない己の不確定性と向き合いながら、少しでも望ましい「暫定」の現実を目指し続けることの切実な実践。それが長い余震を生きる術として、かつては生活の中で何代ぶんもの時間をかけながら、そして今では多分に自覚的な理論や理念とともに、この大地のあちこちで立ち上がってきたのだ。

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 前章でも述べたように、このシウダ・フアレスは2000年代後半に勃発した凄惨な麻薬戦争の舞台となった。国境の北に居座るアメリカのツケを常に払わされてきたような二国間史の澱が溜まりに溜まって燃え上がったその期間、2008年から2011年の4年間だけで、実に1万人以上が殺された。麻薬カルテルが乱立する状況から寡占化が進んだ2012年以降は殺人件数が徐々に減少したが、それでも年間数百件はあり、さらに2018年以降は増加に転じて再び千人を超えながら推移している(ちなみに、この街のおよそ100倍の人口を擁する日本国の2020年の殺人件数は全体で307件である)。誘拐されたりなどして行方不明扱いのままのものも多い。
 これは当然ながらマフィア同士の抗争などという規模で済む人数ではなく、例えば抗争を取材していたジャーナリストや非暴力を訴える活動家、取り締まりを目論む政治家、そしてそうした人々の家族など、暴力は容赦無く一般市民にも向かった。警察も軍隊も麻薬組織と癒着していたり己の保身や権力の濫用にのみ余念がなかったりで、ほとんど頼りにはならなかった。
 自分が訪れた2018年の春の終わり、今思えば街の雰囲気は再び少しずつ不穏の度を増していたのだろうが、それでもそこかしこにこの街は荒廃から立ち直るのだという意思、あるいは立ち直ろうとしているはずだという祈りが溢れていた。街角のコンクリートベンチは塗料メーカーの協力によって子供や学生が思い思いに描いたカラフルな絵で溢れ、外壁を真新しい壁画で美しく塗り飾っている建物も並び立つ。中心街を歩いているぶんには、その破壊と暴力の痕跡はそれほど目立たない。だが、少し中心部を離れて1キロほど歩いたところにある市場に向かうと、窓ガラスが割れたまま空き家になった家、敷石や舗装が明らかな人為によってどす黒く変色している路肩など、すべてが「回復した」とは言い難い空気は、少し注意深く見ればそこかしこに漂っていた。
 アステカの昔から、そしてこの数百年は征服者のイコンに身をやつしながらこの大地を見守ってきたグアダルーペの聖母。その名を冠した大聖堂の扉を静かに押し開けて中に入った。
 極彩色の街並と生温い薄曇りの外気に慣れていた体を、ぷつりと肌の粟立つような冷気とほの暗い空間が迎える。礼拝堂の中には、まばらに座った人々。最後尾に座っていた女性がこちらを振り向く。小さな額に収められた誰かの近影を抱き、その頬には涙が流れている。止めどなく、という言葉があまりにもふさわしく。
 ここは紛れもなく、生活と祈りの空間だった。遠い暴虐のあと、異郷の言葉の響きとともに植えつけられた神の教え。その教えとその言葉を数百年かけて身のうちに取り入れてきた人々が、近しい場所で起こった暴虐のあと、あるいはその隣で、生活を続けながら祈る場所だ。近しい誰かの写真を抱いて泣くのは人類の罪を被って刑死したイエスの遺骸を抱くマリアなどではなく、何の罪もない自分たちを守る責任を放棄した神にそれでも何かを求める、切実な生活者だ。不用意に足を踏み入れてしまい、そこに流れる涙に愚かにも面食らっている自分の顔が、せめて逆光で見えていないことを願うほかなかった。
 
 街に戻ると、またも弛緩した喧騒が身を包む。しかし、その中を歩く心持ちはすでに先ほどと同じではない。この街も、人々もまた、長い余震の中にいる。
 

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年生まれ。編集者・著述者。
都市計画とメディウムの関係の研究を経て境界文化研究へと移行した経緯から「人はなぜ動くのか」というテーゼをもとに「長い時間軸を考える」を旨として編集・執筆・ディレクションなどの活動を行う。
TISSUE Inc.代表/出版レーベルTISSUE PAPERS主宰。
https://tissuepapers.stores.jp/