ひまの演出論9

鍋の手がいちばんリアルだった

山本ジャスティン伊等

海外にいる間は普段より何倍も、話すときの身振り手振りが増えることに気づいたのは、去年の五月に行ったブリュッセルの夜だった。

ブリュッセルの演劇祭「クンステン・フェスティバル・デザール」のフェスティバルセンターの前にはキッチンカーとテラス席の大きなテーブルがいくつか置かれていて、夜になるとアーティストやディレクターが集まる。もちろん観客もそこにいる。建物の二階にはDJブースもあって、その周りでさっき舞台上で見たことあるようなないような人たちが、踊ったり酒を飲んだりしていた。

大学院まで行ったのに結局話せるようにはならなかったなけなしのフランス語で、私は、多分ただの観客ではない、というか多分ディレクターの人と話していた。私は日本ではDr. Holiday Laboratory というカンパニーで演出家をしています。今はタルコフスキーの映画をもとにした演劇を準備しています。でも今回は、チェルフィッチュの演出助手としてここに来ました。

ほとんど定型文みたいな言葉なのに毎回トチりながら、私は自分の言っていることをなんとか伝えようと、持っているビールをこぼさないように手振りしていた。日本語話者は身振りが少ないし、外国語を話すと身振りが多くなるのは当然なのかもしれないけれども、身振りの多さよりも、言葉と身振りの関係が、普段のそれとはちょっと違うような気がするのだ。

先月ソウルで、韓国人の俳優とご飯を食べていたときもおなじことを思った。私たちは二人で鍋を囲んでいた。その俳優は日本語を勉強していて、本人は通じてるかどうか心配していたけどまったく問題ないほど上手いのだが、気がつくと私たちはふたりとも忙しなく手を動かしていた。手というか首も表情も忙しなかった。そのくせほとんど止まることなく喋り続けていて、いつ鍋をすくったり箸を持ったりしていたのかちょっと分からない。今のは言い過ぎたが、私たちは鍋の湯気のなかで日本列島と朝鮮半島を示して手を飛行機にし、そうかと思えばからだ全体が劇場のなかにすっぽりと入り、右手と左手をそれぞれイテウォンとテハンノに置いたりして、自分を飾りたてていた。

演技といえば演技かもしれないし、ダンスといえばダンスかもしれないそれは、むしろラッパーの身振りに似ている気がした。それ自体意味とはかけ離れているが、発話者が話すための身振りを、ビートジェスチャーというらしい。ラッパーがリズムに乗るようにして手を前に繰り出し続ける動きといえば分かってもらえるだろうか。ラッパーはリズミカルな手で飾りたて、それを見る者に共振させ、ひとつの空間を作っている。すこし踏み込んで言えば、ラップの身振りは、貧困街に住み差別されてきたアフリカンアメリカンの人々が、一方では同胞へ呼びかけ、他方では階級の異なる人々へ語りかけることを意味するだろう。

孤児として育ち、ゲイであり、泥棒をはたらいて人生の前半を刑務所で過ごしたジャン・ジュネも、身振りを特権的に描いた作家の一人だ。ジュネは自身のパレスチナ滞在を書いた『恋する虜』でフェダイーン(兵士)らがカードなしで行うトランプの仕草を描き、『屏風』や『女中たち』のような戯曲でも、上演における身振りについての考えを、事細かに書いている。

ジェスチャーひとつひとつが意味するものは文化や歴史に左右されるものだが、あの忙しないが親密さを感じる身振りは、固定化した意味をかき乱して相手を対話の圏内へと誘惑することで、階級と社会と言語を越境するのかもしれない。ソウルではSPAFという舞台芸術フェスティバルがやっていて、いくつか作品を見たけれども、リアルという意味では私はあの鍋がいちばんリアルだった。

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◾️プロフィール
山本ジャスティン伊等
カリフォルニア州サンタモニカ生まれ。
Dr. Holiday Laboratory主宰。演劇/テキスト制作。
主な作品に『うららかとルポルタージュ』『脱獄計画(仮)』『想像の犠牲』など。

web https://drholidaylab.com
制作日記 https://justin-holiday.fanbox.cc/
X https://twitter.com/ira_they