ホームフル・ドリフティング 31

♯31 ホームをささえる物語
 
 
 先日、とある舞台美術家の方のワークショップに参加していたら、住宅展示場の話になった。いわく、住宅展示場には「物語」が用意されているのだという。
 たとえばこの家に住む家族はこういう構成で父親はあの仕事をしていて家族同士の関係はこんなふうになっている、とか。その場にいた別の舞台美術家の方も住宅展示場に行ったときのことを振り返り、最近は猫の通り道が予め設計されている家もあるのだと言っていた。住宅展示場は、さまざまな家で暮らすさまざまな人びとの「物語」が展示されている場でもあるというわけだ。そしてこの物語にはこんな家が合っていますよとさまざまな家のあり方が提示されるのだろう。
 しかし、当たり前ながらわたしたちの人生は予め決まった「物語」として進んでいくわけではない。ひとつの家に住み始めたときは夫婦に子どもふたりの四人家族だったとしても、半年後に離婚して夫ひとりが家に残されるかもしれないし、あるいは二十年も経てば子どもは家から出ていってしまうだろう。もちろん子どもが大きくなったときのことを見越して子ども部屋をつくっておくことは可能だ。将来的に高齢の両親とともに暮らすことを見据えて家をつくったりすることもできる。でも、結局のところはそれらは予定でしかない。
 住人が全員死んでしまえば家は取り残されてしまうのだし、事実大体の家は取り残されていくだろう。だから決まりきった「物語」に最適化した家をつくることはどこか虚しい。でも、物語なしの家なんてありえるのだろうか?
 そもそも、現代の日本で暮らすわたしたちが住んでいる家は近代あるいは戦後にできあがった「家族」の物語のためにつくられたものだろう。みんなが集まるリビングやダイニングとそこから隔てられた個人の部屋があるとか、あるいは父親が会社に通い母親が家で家事をしているとか。そんな物語を支えるためにいまの家は設計されているし、それゆえにこの物語は生きながらえ続けてきたともいえる。
 この連載で扱ってきたような、あるいはいま巷で話題になっているような「家」「ホーム」「住む」「住居」の変化は、ホームをめぐる「物語」の変化だといえるのかもしれない。だからわたしたちの住み方が変わり、ホームが変わるなら、わたしたちの物語も変わっていかなければいけない。
 新しい家のための新しい物語はどんなものになっていくのだろうか。建築でも経済でも社会でもなく、物語からホームを考えることだって必要なのかもしれない。

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《著者プロフィール》
もてスリム
1989年、東京生まれ。おとめ座。編集者/ライター。
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