編者による解題(前編)

【1】

本書タイトルを『ソウル・サーチン』とした。Soul Searchin、(Soul Searching あるいは単にSoul Searchとも)という言葉は、直訳すれば「魂を探すこと」だが、イディオムとしては「内省」「自己省察」あるいは「自分探し」といった意味をもつ。それだけ見ると非常に個人的な言葉にも思えるが、その射程は単に個人の精神史の範疇には留まらない。

例えば起源の地から暴力的に切り離され、望まぬ旅路の果てにたどり着いたアメリカで何世代を経ても今なお安息を見つけられず、さりとてもうアフリカに帰ることもできないアメリカ黒人たちの精神文化において、「ソウル・サーチン」という言葉は奴隷船とリズム&ブルーズとブラック・ライヴズ・マター(*1)をつなぐ数百年の射程を獲得する。

人は誰もが何らかの出来事の「その後(アフターマス)」を生きるものである以上、望むと望まざるとにかかわらず自分自身が立つ地平について内省をする(あるいは、せざるを得ない状況にある)ことは、そこに流れ込む己の人生を超えた膨大な時間を考えることであり、その時間の中に立ち現れる無数の人々の語りに耳をすませることでもあるのだ。

漫画家・新里堅進の歩みをまとめた本書にこの言葉を当てたのは、体験していない沖縄戦をただひたすらに描き続ける新里の姿に、「戦後」とほぼ同じだけの時間を生きてきた己の人生の置きどころを探すかのような切実さを感じたからだ。

藤井誠二による執念の取材が結実した評伝のとおり、俗世の栄達にも人間関係の継続や発展にも興味をもたず、ほとんどの思考と時間を、綿密な取材や考証と執筆に注ぎ込んでいる。二十万を超える沖縄戦の犠牲者への思いはもちろんあろうが、それだけではあるまい。

己の生を取り囲み決定づけてきた戦後沖縄という時空間、そしてその大きな起点となった沖縄戦と向き合うことで、自分はなぜここに立っているのか、何が自分をここに運んできたのかを少しでも理解したいという渇望が、新里という人の根底にあるのではないだろうか。幼少期に見たおそらく戦争PTSDで心身を失調した男、兄からの虐待じみた仕打ち、社会や人間との折り合えなさ、漫画を描くこと以外のほとんどを振り捨ててきた人生。「私はどこから、何から始まっているのか」。その思いが新里を、齢八十を目前にしてなお絵に向かわせているような気がする。

翻って言えば、そんな新里の姿を追うことが、沖縄の、そして日本の今につながる「戦後」が何であったのかを照らし返すのかもしれないと考えた。

【2】

本書の制作中、少なからぬ数の人々に新里堅進という作家について問う機会があった。もとより〝内地〟での知名度は皆無と言ってもいいが、沖縄においても出版関係者や書店員、新聞記者、研究者といった人々を除けば、五十代以下の多くが知らない。時折「親が買ってきたのを熟読していました」という人もいるが、多くは知ってはいても「学校の図書館で、他に漫画がないから読んでました」という程度の反応であった。

『沖縄決戦』『水筒』といった作品が沖縄でも一般的にはそれほど受け入れられず、やがて忘却されたのはなぜだろうか。さまざまな人や団体が戦の記憶の継承に努める現在の沖縄を考えると、不思議に思う人も多いだろう。

だが、かつては沖縄にあっても、状況は現在とは異なっていたのだ。

玉城福子(*2)が「沖縄戦の犠牲者をめぐる共感共苦の境界線」(『フォーラム現代社会学』第10巻所収、関西社会学会、二〇一一年)において〈沖縄人の被害中心の沖縄戦の語りは、戦後すぐに確立されたわけではなく、「本土」の視点にたった沖縄戦の語りに対抗して、1970年代以降に徐々に形成されたものである〉と分析するように、メディア空間における沖縄戦の描かれ方や県民意識における受容のされ方は時代によって大きく変遷している。

メディアで沖縄戦が語られる際、アメリカによる占領初期は検閲の目を意識した戦場での人情エピソードの類が多く、また一九五〇年代から一九六〇年代後半あたりまで支配的だったのは日本軍や、軍人遺族のナラティブに沿った「殉国美談」である。このころ訪れるようになった“内地”からの慰霊訪問団や遺族を案内する観光バスガイドの台本が戦争賛美的なものになるといった形でも、それは表れた。大ヒットした映画『ひめゆりの塔』(今井正監督、東映、一九五三年)にみられる「お国に殉ずる純潔の少女」という表象もその一種であろう。また「英霊の御霊を慰めるために一日も早い祖国復帰が必要である」といった、日本側からはナショナリズムに、沖縄側からは米軍支配を脱するためのレトリックとしての「復帰」論に基づく言葉も多く発された。

沖縄戦の惨禍を描いたものとして『沖縄戦記 鉄の暴風』(沖縄タイムス社編・刊、一九五〇年)『沖縄の悲劇——姫百合の塔をめぐる人々の手記』(仲宗根政善著、華頂書房、一九五一年)『沖縄健児隊』(大田昌秀・外間守善編著、日本出版協同、一九五三年)などが早い段階から出版されてはいたものの、これらはプロフェッショナルな記者や著述者による記録である。メディアパワーを持たない一般人は、新里の母のように自らの体験を家族や近親者に話すことができた人もいたが、体験のあまりの凄惨さゆえにそれすらできない人は、その何倍もいただろう。戦で破壊された生活の基盤はいまだ十分に回復できず、また米軍による軍用地強制接収と、それに対抗する「島ぐるみ闘争」などの土地闘争が激化した時代でもある。圧倒的な現実を前に、個人の体験を語るどころではない人もいたことは容易に想像がつく。多くの人々は、まだ戦時トラウマの「ゼロ地点」(*3)に沈んでいた。

沖縄において戦争体験者への聞き取り調査が本格化するのは、ベトナム戦争が激化の兆しを見せていた一九六七年、戦争に関する民間人の証言を記録するために琉球政府立文教局沖縄史料編集所が立ち上げられ、『沖縄県史』沖縄戦記録編(*4)の編纂が開始されてからである。評伝にも登場する社会学者の石原昌家や、作家の宮城聰(*5)らがそれに関わることとなった。三巻に及ぶ沖縄戦記録の一巻目『沖縄県史 第9巻各論8 沖縄戦記録1』が一九七一年に上梓されると、そこに収められた人々の肉声に近い証言が話題を呼んだ。また、宮城晴美(*6)のように、行政の動きとは別に独自で戦争体験の調査を始めた研究者もいる。宮城の調査開始も一九七〇年頃である。とはいえ、この時点では全ては端緒についたばかりであり、一般社会レベルで沖縄戦認識が変容するには、まだ時間が必要だった。

一九七五年に糸満市・摩文仁にオープンした「沖縄県立資料館」開館当初の展示内容は、そのような状況を端的に反映していた。展示設計は靖国神社奉賛会の沖縄支部が行い、沖縄戦の司令官であった牛島満中将の遺影や辞世の句、日章旗、拳銃や銃剣などが並び、旧軍人の称揚の場といった趣を見せる、現在とは正反対の雰囲気の施設であったという。

これを重くみた石原や歴史学者の安仁屋政昭、大城将保らが中心となって「沖縄戦を考える会」を発足させ、その運動の結果、一九七八年に「沖縄県〝平和祈念〟資料館」としてのフルリニューアルにこぎつける。大城が〈1970年代は沖縄が急激に観光地化されていく時期でもあった。その画期となったのは、沖縄国際海洋博覧会(1975年)であり、本土資本の進出のなかで、航空会社・週刊誌等の沖縄キャンペーンによって、観光客数も上昇していく。そうしたなかで、沖縄戦、南部戦跡までもが観光、消費の対象として固定化されてしまう〉(『沖縄戦を考える』ひるぎ社、一九八三年。筆名の「嶋津与志」名義)と述懐するような危機感もあったであろう。石原の言を借りれば、こうした過程で〈沖縄戦について科学的・体系的・総合的に研究していこうという動きが沖縄県内で初めて形成された〉(*7)。また、この年は沖縄戦の一九四五年から三十三年、すなわち戦没者の三十三回忌「終焼香(うわいすーこー)」の年でもある。この「喪」の一区切りに前後して、かつて親を、子を、近親者を亡くした人々の語りが少しずつ聞かれるようになっていったという。このような語りは、体験者にとってトラウマの「ゼロ地点」からの回復過程でもあったはずだ。県内各地の市町村や字(あざ)レベルでも、沖縄戦の聞き取りは活発化しつつあった。

一方で、一九八一年の後半になっても牧港篤三(*8)が〈ガイドのサービス(観光客の涙腺をくすぐるために、個展調の戦争賛美もあえてやる)に平和に満ち足りた人たちは歴史の彼方の戦争を偲ぶだけであろう〉と書いている(『逆さに映る平和』「青い海」第百九号所収)ように、民の語りがすぐ旧来の愛国的な語りにとって代わったわけではない。沖縄戦をいかに語るか/語れるか、ひいては自分たちをいかに語るか/語れるか。社会レベルでは現在より、はるかに揺らぎがあったことであろう。

北村毅(*9)「〈戦争〉と〈平和〉の語られ方——〈平和ガイド〉による沖縄戦の語りを事例として——」(『人間科学研究』第19巻第2号所収、早稲田大学人間科学学術院、二〇〇六年)によれば、沖縄戦を民衆のナラティブで語ることは、一九八〇年代後半以降、全国から大挙して訪れるようになった修学旅行生や平和学習などに対応した「平和ガイド」の登場によってさらに一般化していったという。それまでは教師や研究者といった人々が来県客に戦跡や基地を案内することはあったが、観光客数の増加傾向に応じ、一九八七年に「平和ガイドの会」が発足。市民を担い手とした運動としてのガイドが展開されていく。このような流れの中で、現在のような語りが市民権を得ていったのだ。

戦後長らく沈黙を保っていたひめゆり学徒隊の生存者たちが自らの声で語る場としてひめゆり平和祈念資料館を設立したのは、一九八九年。本書でもその証言が紹介されている元なごらん学徒隊の上原米子が語り部をするようになったのも、同じ頃である。これらの動きは第一に戦争の記憶の風化を食い止めたいという当人たちの思いから生まれたものであったろうが、その語りの相手として想定されたであろう観光客という存在の役割も無視はできまい。一九七〇年代以降の沖縄の観光化は複雑な問題を孕むが、現在のように民衆の語りが沖縄戦をめぐる言説を満たすようになってゆく過程で、ひとつの契機を用意もしたのかもしれない。

新里が『沖縄決戦』で登場した一九七八年は、ちょうどそうした推移の端境期であった。沖縄戦を語る公的な声の中にまだ民の姿はそれほど見られず、また評伝中にもあるように「沖縄戦を漫画にするとは不謹慎だ」「子どもに見せたくない」という声が寄せられた時代でもある。特定の主人公に依らず、記号性や劇的な演出にも頼らず、アノニマスな語りの集合体として沖縄戦を描く新里の作品が広く受容されるには、まだ少しばかり早かったのかもしれない。

一九八四年の『水筒』以降、新里が沖縄戦を正面から描き下ろすには二十一世紀に入った二〇〇二年の『白梅の碑』を待たなければならなかったことに、そのタイミングのずれが影響していないとは思えない。その間、売れっ子漫画家として多様な作品を世に送り出し、表現の幅を広げていきながらも、沖縄戦を描かない/あるいは「描けない」十数年があった。理由は定かではないが、沖縄戦を語るナラティブや、沖縄をまなざす視線の変化、あるいは沖縄社会の変化といったことも影響しているだろう。その胸中は、どのようなものだったのだろうか。

新里作品には「現代劇」と呼べるようなものがほぼ存在しない。『ハブ捕り』や怪作『愛はガマの彼方に』、あるいは琉球新報の連載でしか確認できない『運玉義留』の外伝——アメリカに渡った運玉義留とアンダケーの子孫が彼らの異国での活躍と沖縄への想いを語る——はかろうじて時代設定こそ現代だが、内容は一般的な現代劇とはほど遠い。沖縄の米軍支配や復帰闘争、基地問題といった戦後史的かつオンゴーイングなトピックへの言及も、新里作品にはほとんどない。この不自然なまでの同時代性の欠落も、新里を“伝説の”作家にしていった所以であろう。

やがて新里は、あらゆる人間関係を削ぎ落としながら、再び沖縄戦へと還っていく。

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(*1)
「Black Lives Matter(黒人の命は重要である)」を合言葉とする黒人権利運動。二〇一二年二月二十六日、父親の婚約者の家に遊びに来ていた十七歳の黒人少年トレイヴォン・マーティンが自警団の白人に射殺され、翌年の公判では犯人に無罪が言い渡された。その夜、社会活動家アリシア・ガーザがTwitterに「black people. I love you. Our lives matter.」と投稿。この言葉が「Black Lives Matter」となって拡散し、その後の権利運動の合言葉となっていく。二〇二〇年にジョージ・フロイドが警察官に暴力的に制圧され、命を奪われた事件を発端に世界的なムーブメントとなった。

(*2)
一九八五年、那覇市生まれ。名桜大学国際文化学部准教授。ジェンダー論やポストコロニアリズムの思考に立脚し、沖縄戦後史における植民地主義とセクシュアリティまたはセクシズムの関係を紐解きながら研究を行う。単著に『沖縄とセクシュアリティの社会学 : ポストコロニアル・フェミニズムから問い直す沖縄戦・米軍基地・観光』(人文書院、二〇二二年)。共著多数。

(*3)
心理学者の宮地尚子は、トラウマとの向き合いの過程を中心が海面下(内海)に没したドーナツ状の島=環状島に例える。この中で宮地は、ある出来事のトラウマが強い人、すなわち当事者はその内海の中心である「ゼロ地点」すなわちトラウマの核心に沈んでいる状態であると位置づけ、トラウマはその内容が重ければ重いほど、実は語れないものなのだと説いている。そこから出来事との距離が取れはじめると内海から上がり、環状島の内斜面に移行する。この状態が「少しずつ語れるようになる」状態であり、さらにその外側へと脱していくには、外側にいる他者との関係も重要となる。

(*4)
初代の『沖縄県史』は一九六五年から、日本復帰後の一九七七年まで順次刊行された。「通史」「政治」「文化」「新聞集成」など全二十三巻と別巻一冊で構成されているが、沖縄戦に関しては第8巻、第9巻、第10巻と三巻を割き、沖縄島のみならず県内各地における戦争のミクロな実相について詳細に記述している。

(*5)
一八九五〜一九九一。国頭村生まれ。小学校の訓導を歴任したのち、一九二一年に上京。『マルクス・エンゲルス全集』の刊行やアインシュタインの招聘を行った出版社・改造社に入社。芥川龍之介や里見弴、佐藤春夫、谷崎潤一郎といった作家の担当記者となる。一九三四年、里見弴の推薦により『故郷は地球』『生活の誕生』で作家としてデビュー。沖縄初の文壇作家となる。戦後、沖縄へと帰郷。『沖縄県史』の審議委員などを務めた。

(*6)
一九四九年、座間味村生まれ。沖縄島より前に米軍が上陸した慶良間諸島で起きた凄惨な集団自決(強制集団死)の生存者であった母の手記を原点に、一九七〇年頃から体験者への聞き取りを開始。ジェンダーの視点から沖縄戦時の集団自決や米軍による性犯罪を研究する。著書に『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』(高文研、二〇〇〇年。新版二〇〇八年)など。

(*7)
「私の戦争体験調査と大学生との係わり〜自家広告的石原ゼミナールの活動をとおして〜」(『沖縄国際大学社会文化研究』第7巻第1号所収、沖縄国際大学社会文化学会、二〇〇四年三月)

(*8)
一九一二〜二〇〇四。那覇市生まれ。沖縄朝日新聞の記者を経て一九四八年、沖縄タイムスの創刊に参画。『鉄の暴風』など沖縄戦記録の出版を早い段階から行う。その後も文芸・批評誌「新沖縄文学」の初代編集長を務め、上原正稔が退いた1フィート運動の会の代表を務めるなど、沖縄戦の記憶・記録の継承に努めた。詩人でもある。

(*9)
一九七三年、北海道生まれ。大阪大学文学部准教授。沖縄戦やその記憶の継承についての民俗学的研究を起点に、受け継がれる戦時トラウマや復員兵のPTSD、沖縄シャーマニズムにおける記憶や痛みの役割など、悼み/痛みの経験に関する研究を行っている。著書に『死者たちの戦後誌──沖縄戦跡をめぐる人びとの記憶』(御茶の水書房、二〇〇九年)。

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