編者による解題(後編)
【3】
新里作品を「図書館にあった漫画」として認知する人の多いことを先述したが、この状況は、特に“内地”における私たちの「戦後」の姿を物語っている。
一九八一年に九州で生まれた筆者にとって、小学校の図書館にあった漫画といえば、戦争の惨禍や特攻隊員の悲哀などを描いた、いわゆる「平和漫画」であった。当時の感覚で抱いた印象を振り返ると、それはほぼ「陰惨なもの」「ときに勇ましくも悲劇的なもの」、そして圧倒的に「過去のもの」であった。鳥山明『ドラゴンボール』に代表される「週刊少年ジャンプ」全盛期の小学生として受容していた「マンガ」とはまったく切り離されたもの、すなわち同時代的な文化とは異質のものとして認知していた。多くの同世代がそうであろう。
足立加勇『日本のマンガ・アニメにおける「戦い」の表象』(現代書館、二〇一九年)によると、一九六〇年代までは兵器や軍隊をヒロイックに描く戦記漫画がごく一般的な娯楽であったという。画期となったのが「週刊少年マガジン」に連載された、ちばてつや『紫電改のタカ』(一九六三〜六五年)。戦闘機乗りを主人公にした少年向け漫画でありながら後半になるにつれて単なる娯楽の域を逸脱し、報国の幻想のもと人間を使い捨てにする戦争の理不尽を描き出していく、ちばの思想が色濃く反映された作品である。
また、漫画の読者層が子供から青年に拡大するにつれ、評伝中でも詳細に紹介したような「劇画」のムーブメントが生まれた。「週刊プレイボーイ」に掲載された辰巳ヨシヒロ『地獄』(一九七一年)のように、原爆や戦争という経験が人生や社会に落とした影や、戦争体験を軸に人間存在のありようを描く作品も登場するようになる。
いずれもいまや古典ともいえる名作だが、これらを「平和漫画」として語るものはいない。
では「平和漫画」とは何だったのか。多くの人がその筆頭に挙げるであろう『はだしのゲン』は一九七三年に「週刊少年ジャンプ」で、つまり少年漫画として連載開始された。ただし「ジャンプ」での連載は一年半程度で終わり、その後は左派市民団体や日本共産党、日教組などが発行する雑誌を転々とすることになる。時は一九七〇年代後半から、八〇年代にさしかかる頃であった。
「平和漫画」という言葉、あるいは概念が日本のメディア空間に登場したのは、まさにこの時期である。国立国会図書館の収蔵書データにある限りでは、「平和漫画(「マンガ」「まんが」表記も含む)」と書誌に明記された単行本は、一九八一年に刊行された中沢の『いつか見た青い空』(汐文社、のちほるぷ出版より再販)から始まる「中沢啓治平和マンガシリーズ」が最初である。八三年からは新里の『水筒』『沖縄決戦』も収録されたほるぷ出版の「ほるぷ平和漫画シリーズ」の刊行がスタートし、これに続く。中沢のシリーズとは違い、こちらはさまざまな作家の作品をラインナップしたものである。九〇年代にも中沢啓治の平和漫画シリーズがほるぷ出版から刊行されるが、その後は「平和漫画」の名を冠した作品群自体が姿を消す。つまり、それは概ね一九八〇年代から九〇年代前半、すなわち戦後四十年から五十年へと至る時期に限ったメディア的現象であったと言える。
日本経済が絶頂期を迎え、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(*10)といわれた一九八〇年代と、その残響としての九〇年代。経済的な繁栄を背景として現在性に依拠する言葉がメディア空間に溢れるなか、エンターテインメント産業として大きく成長しながらその表象になってゆく「マンガ」から、戦争の記憶は文字通り「過去のもの」として切断され、振り落とされていったのではないか——風化に抗おうと、自ら「平和漫画」と定義しなければならないほどに。焦燥も虚しく、それはほとんど時代に逆行したものとして認知された。
ここで「過去のもの」とされたのは、作品群としての「平和漫画」だけではあるまい。戦争の記憶、あるいは平和でない状態(*11)から平和を希求する営みそのものが、人々の中で己と切断された「過去のもの」とされていったのだ。それは、自分たちの享受する安寧がいかなる焼け野原から、あるいは屍の眠る大地から芽生えてきたのか、そして「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の富がいかに日本の帝国的近代と地続きで、いかなる人々を収奪/排斥した上に築かれてきたのかといった社会の来し方や、その過程で埋め立てられてきた幾多の声なき声の忘却でもあった。
ただし、この忘却は八〇年代に突然始まったのではなく、一夜にして「平和国家」に生まれ変わったような顔をしながら復興と高度経済成長のストーリーのもとに様々な矛盾を黙殺してきた日本戦後史の帰結であり、それが経済的なピークに伴って一段ギアを上げたものにすぎない。そして、その「復興の戦後史」において、かつて本土防衛の捨て石として、戦後はアメリカへの生贄として切り捨てられた沖縄は完全に蚊帳の外であった。不可視とされた沖縄は一九七二年の日本復帰と前後して“内地”に「再発見」され、そこで生じた沖縄を観光的記号として消費するまなざしは、連綿と続いている。その間、復帰の際に県民が求めた米軍基地全廃の願いは無視され続け、そのことで生じる歪みは放置され続けている。まなざす側はかつて切り捨てたことも忘れ、今なおその痛みを押し付けていることすら忘れている。
ジュディス・ハーマン(*12)によれば、外傷を受けた人と社会との間の裂け目を修復する作業は、第一に外傷的事件を公衆が正しく認知し評価すること、第二に社会がどういう行動をとるかが肝要であるという(*13)。先述のように、「戦後」の時間が流れるにつれて沖縄戦は語られはじめた。同様にそれ以外の土地でも、本土空襲の体験、戦後混乱期における極限の選択、「墓場まで持っていく」はずだった戦地での加害や生き残りの罪悪感といったことが、体験者の口から語られるようになった。語ることは当事者たち自身のトラウマからの回復手段でもあるが、その過程では再帰的・二次的なダメージも発生し得る。それを覚悟してなお語ることを選んだ人々を、私たちの社会は果たして適切に遇してきただろうか。できごとを客観的に検討することもなく、語り始めた人々を遠巻きにして図書館や資料館の隅に、あるいは「沖縄の特殊性」に押し込め、全体としては不可視としてきたのではないか。
そうしたあらゆる忘却と不可視化の果てに、この日本という国は立っている。
繁栄の残響に異音が混じりはじめた一九九〇年代後半に勃興した歴史修正主義が、その後三十年にわたる経済の衰退とそれに伴う生活不安を糧として力を増す二〇二五年現在。戦争や戦後の混乱期を題材とするさまざまな漫画作品やアンソロジーが世に出ているが、それらをわざわざ「平和漫画」と呼ぶものはもう誰もいない。現在性にのみ目を向けて安寧と享楽を謳歌できた時代はとうに過ぎ、平和でない状態がごく日常的な風景として顕在化した状況下において、戦を描く、あるいは読むことはすでに過去ではなく、新しい現実の一部なのかもしれない。その現実を生きるものとして「私はどこから、何から始まっているのか」と問うならば、私たちは、きっと覚えていることだけでなく、忘れてきてしまったことについても考えなければならないのだ。
本書のタイトル『ソウル・サーチン』は、新里個人のあり方を表した言葉であると同時に、「戦後」日本とそこに生きる私たちの来し方を問うための言葉でもあるという思いで選んでいる。
【4】
評伝に書かれているように、新里堅進には中沢啓治との共作のプロジェクトがあった。いかなる事情でか実現しなかったが、そもそもこの二人の作家性は全く異なるものである。中沢は反戦・反核という「思想」を優れたストーリーテリングとイメージの喚起力で描いたが、新里は「土地の物語」を、己の解釈を極力加えることなく、ただ緻密に描く。どちらかに優劣をつけるようなものではないが、そこには、評伝中で速水螺旋人が述べていた抽象度の違いがある。
二十世紀中葉から後半は「思想」という抽象度の高いものを軸に個別の土地の事情に囚われない無条件の連帯が可能だと思われていた最後の時代であり、それは一方で土着的・個別的な語りを過小評価する啓蒙主義的なモダニズムの産物でもあった。その点、生まれ育った沖縄のリズムと抑揚を手放さず、大きな主語に身を預けることもなく、ただこの土地で起こったできごとだけを描いてきた新里の作品にあるのは沖縄というリアリティの中で生活する身体が培った高解像度の思索であり、抽象概念としての「思想」ではない。戦争を描いているのであれば「思想」が軸なのだろうという先入観を持って読むと、新里作品の本質を見落としてしまうことになる。
新里の作品は徹底して記号性とは無縁であり、人や文化をイデオロギーやストーリーのための小道具には決して使わない。女子学徒隊を単に健気で哀れな存在として描くこともなければ、日本兵やアメリカ兵の全てを人の心を持たぬ狂兵の塊として描くことも、琉球王国の時代を現実逃避じみた本質主義の依代として描くこともない。あらゆる人物が沖縄の地面から生えてきたような身体性を持ち、固有の喜びや怒り、意志や揺らぎ、葛藤や願いとともに生きた多面的な存在として描かれている。それは、二十万という数字で語られる沖縄戦の死者たちや、それ以前からこの土地で生きて死んできた人々が顔と名前のあった個別の人々であることを、もう一度思い出すことでもある。自らを問うこともなく沖縄を記号化する “内地”のまなざし——思想の左右を問わずそれは存在する——へを相対化するものとしても、その細やかな人物描写は機能している。
人物以外の要素においても、新里のリアリズムは貫かれている。例えば本書巻末「雲流るるいやはてに」(『水筒』より)で主人公が回想する平和だった頃の沖縄の風景は、新里の想像ではなく、昭和十年代に写真家・坂本万七が撮影した首里や浦添の街並み(*14)の忠実な模写である。このように風景ひとつにしても、新里は抽象化しようとしない。地域芸能に詳しい人の見たところ、『儀間三郎の場合』作中にちらりと描かれる雑踊りの振りさえ完璧であるという。歌や踊りといった表現は、ときに言葉や資料とはまったく異なる位相で土地の記憶をリロードする重要な記憶装置である。それゆえ、新里の作中に現れるそれらが単なるエスニックな記号であることは決してない。
また、自治体から依頼された『島燃ゆ 宮古島人頭税物語』などを除いて、新里が石垣島や宮古島など、沖縄と異なる文化や言語をもち、歴史的にも同一の経験で括ることのできない土地を自ら舞台として描くことはほとんどない。己の生活者としてのリアリティの延長線上で描くことができないものは描かないというシンプルな原則が、新里作品に倫理を担保している。
新里が約半世紀の画業の中で続けてきたのは、自分自身が生まれ育ち暮らしている沖縄を記号としてでなく、そこに生きている/生きていた人の数だけのリアリティを帯びた「人間の土地」として描くことであった。本書の副題を「『沖縄戦』を描き続ける男」ではなく「『沖縄』を描き続ける男」としたのは新里のその姿勢ゆえである。その上で、新里が「沖縄戦」を主な題材とすることについて、最後に考えてみたい。
沖縄戦における民間人の死者は、実に県民の四分の一にものぼる。そのうち多くの人々が疎開や避難や動員で生まれジマ(この場合の「シマ」はアイランドではなく、集落や共同体を指す)から引き離され、死んでいった。特に地縁・血縁の意識が濃い沖縄で、シマで生き、シマで死んで葬送され、骨となっても魂はそこに宿って故郷や子孫を守護するのだという感覚が当たり前であった時代——評伝の終盤で新里が藤井を案内するのは、まさにその風景である——に、おびただしい数の民間人が異郷で無惨な死を遂げるという集団的な経験が、いかに異常なものであったか。
衝撃的な出来事によって茫然自失となることを沖縄では「マブイ(魂)を落とす」と表現するが、密林の奥、ガマの中、あるいは石灰石の切り立つ海岸で、彼らのマブイは文字通り、その命とともに落とされた。記録作家の真尾悦子が一九七八年の沖縄で〈戦争で遺骨のとれなかった人は、うわいすうこう(編注:前出の「終焼香」)をしても魂がかえってこないっていうのよ〉(*15)という声を聞いているが、家族や友がいつ、どこで、どのように死んだのかもわからぬままその生と死を語り得ないでいる人も今なお多く、また数十年にわたり身元すら特定しようのない骨片として山野に眠っている〝当人たち〟(*16)も、己がどこの誰であったかを語る言葉をもはや持たない。
生きながらえたものも戦の中で近しい存在を誰かしら失い、生活のよすがとなる家や土地、そして己を育んだ風景を失った。長い収容所暮らしを終えてみたら故郷の土地が米軍に奪われていた者もいる(*17)。帰る場所をなくし、新たな地で一から生活を築いた人々の子や孫の世代には、沖縄生まれであっても「シマ」からあらかじめ切り離されて育ったがゆえにウチナーグチも話せず、沖縄的な集団的意識に自己を同一化できないと感じる人もいる。親の世代の戦争トラウマをさまざまな形で継承しながら、その根源を辿るのがもはや困難であるがゆえに、それについて語る言葉を持たない子や孫の世代もいる。あまりに多くの人が、現在にいたるまで自分自身を規定したものの実像を語りえず、土地から、社会から、離断されてしまったような感覚の中で生きてきた。「私はどこから、何から始まっているのか」。戦を生き延びても、世代を重ねても、マブイはまだ落とされたままなのである。
無数の帰れない魂を内包しながら八十年という時間が流れた土地で、その土地に生きる身体を用いて新里堅進が描き続けているのは、数多のそうした魂の姿なのだろう。
「鉄血勤皇隊員の死(『沖縄決戦』より)」において、それまで淡々と戦場の生と死を描き続けてきた新里の筆が突如、叙情に振れる瞬間がある。波打ち際やガマの中に横たわる無数の屍に、沖縄民謡「浜千鳥(はまちじゅやー)」が手向けられる場面だ。浜に降り立つ小鳥の姿に故郷を遠く離れた己の姿を投影する、望郷の歌。新里がこの歌をこの場面に引いた理由は明白であろう。
その態度は沖縄戦関連の作品だけでなく、伝記漫画や原作つきなどを除けばそれほど多くないオリジナル作品群にも顕著である。それらの主人公、たとえば本書収録作品でいえば『ハブ捕り』の仁王(彼もまた本書収録「山原の変人」において「浜千鳥」を歌う)、『運玉義留』の運玉義留こと次良(ジラー)、『跳べ! 虎十』の虎十といった人々はみな、自らの選択や意志を大きく超えた不運や理不尽によって、生まれジマや一般的な共同体に属して平穏な暮らしを送ることを諦めなければならなかった人々である。また脇役としても、何らかの理由で共同体から放逐されたような人物が必ずと言っていいほど登場する。こうしたところから新里の、大文字の歴史には残ることのない「沖縄」を生きた無数の人々への、ひいては「沖縄」そのものへのまなざしが読み取れる。
そして、そこには、来し方のどこかでマブイを落としてきたような自分自身への、答えのない問いも含まれるのではないか。「沖縄」を、その風景と人々を細かく描き込みながら、新里はそのどこかから己の姿が、あの問い——「私はどこから、何から始まっているのか」——の答えが浮かび上がってはこないかと、懸命に探してきたのではないだろうか。その起点が、まだ自分が存在していなかった戦世、あるいはこの島々を覆った帝国的近代のどこかにあると信じて。この土地を形成する、数多の帰れない魂のひとつとして。
その圧倒的なリアリズムがすべて切なる自己省察の形であるということの途方もなさを思うとき、破格の作家でありながら、いつも寄るべないまよい子のようでもある新里の顔が脳裏に浮かぶ。それは、帰り道を忘れた私たちの「戦後」の姿そのものでもあるのかもしれない。
「戦後」八十年である。しかし、それは単なるひとつの客観的指標にすぎない。今もその心中に戦の続く人々が、直接には経験してすらいない戦の残響を生きる人々がこの島々の、この国のいたるところにいる。問いは、何ひとつ終わってなどいないのだ。
本書が新里堅進という不世出の作家に再び光を当てるものになるとともに、私たちに流れた八十年という時間を私たち自身が再検討するきっかけになれば幸いである。
二〇二五年六月二十三日 安東嵩史
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(*10)
もともと、この言葉は一九七九年にアメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルが日本の驚異的な経済成長の要因に関して分析した著書のタイトル。日本でもその年のうちにTBSブリタニカから邦訳版が発売され、ベストセラーとなった。
(*11)
一九四〇年代以降に成立し発展してきた学問領域である「平和学」においては、単に戦闘行為が行われていない状態を「消極的平和」、戦争や紛争の原因となる構造的暴力がない状態を「積極的平和」と定義する。後者においては貧困、飢餓、抑圧や弾圧、野放図な開発や環境破壊、ジェンダーや性的指向による差別、人種差別などが存在している状態も「平和でない」とみなす。
(*12)
一九四二年、ニューヨーク生まれ。トラウマ研究の第一人者としてハーバード大学でながらく精神医学の教授を務め、犯罪被害者、性暴力サバイバー、戦争からの帰還兵といったケースを研究しながら、八十歳を過ぎた現在も精神医療の現場に立ち続ける。
(*13)
『心的外傷と回復』中井久夫訳、みすず書房、一九九九年/新版二〇二三年。(原書Trauma and Recovery: The Aftermath of Violence – from Domestic Abuse to Political Terror, 1992)
(*14)
民藝や古美術を生涯にわたって撮影した写真家・坂本万七(一九〇〇〜一九七四)は一九四〇年、民藝運動の祖である柳宗悦らに随行して沖縄入りし、貴重な風景や文物を写真に収めた。戦後、坂本は数十年ぶりに沖縄を訪れて風景の変貌ぶりに愕然としたといわれる。その死後に遺族が中心となって沖縄で開いた写真展は、在りし世の沖縄をしのぶ人々の間で大反響を呼んだ。おそらく、新里もこの写真展か、遺作写真集として発刊された『沖縄・昭和10年代』(新星図書出版、一九八三年)を見たものと思われる。
(*15)
『いくさ世(ゆう)を生きて 沖縄戦の女たち』筑摩書房、一九八一年/新版二〇二五年。著者の真尾悦子は農村からの出稼ぎ未亡人、炭鉱で働く女性労働者など「戦後史」の影に隠れた女性たちの生き様を数多く記録した。
(*16)
詩人・芝憲子の一九七四年作品「骨のカチャーシー」は、南部の野辺に眠る骨たちが夜明け前にカチャーシーを踊り出すという内容の詩。〈これは俺の腕の骨ではない/でも今となってはどれでも同じ〉〈俺たちはいつまでもここにいる/ここで殺されたと証明するために〉〈そのうち生きている人たちと踊るのだ/野山から街に繰り出して/俺の得意な三線をかき鳴らして/島いっぱいにカチャーシー〉と、個別性を失った死者と死者、あるいは死者と生者をも混交させながら言葉を持たぬ死者の存在を再来させる、戦後沖縄詩を代表する一篇である。
(*17)
沖縄戦で家を失った民間人や捕虜となった軍人・軍属は、立場ごとに分けられて収容所(キャンプ)に入れられた。民間人は最大で三十万人前後、軍人・軍属は一万六千人ほどが各地に収容されたが、特に民間人収容所では物資不足や劣悪な環境により、戦傷や飢え、マラリアなどで落命するものも多かった。米兵による性被害も報告されている。こうした収容者や捕虜たちは米軍によって施設整備や物資運搬に使役され、収容が長期にわたる者もいた。開放後も、例えば読谷村では米軍施設建設のため集落の強制移転が繰り返されるなどし、人々は土地から切り離され続けた。
「沖縄で、沖縄を描く」ことに人生を捧げてきた漫画家・新里堅進ーーその鬼気迫る作品群と半生
沖縄を代表する劇画家・新里堅進は、1978年『沖縄決戦』でデビュー以降、沖縄戦をはじめ沖縄の歴史・文物を描き続けてきた。
極めて多作であるが本土では数作が刊行されたのみで、その50年の画業のほとんどを「沖縄で、沖縄を描く」ことに捧げてきた。
戦後80年。いまだ世界では戦争の惨禍やまぬ中、戦後生まれのひとりの人間が取り憑かれたように描き続ける「地上戦」とはいったい何なのか……戦後の沖縄文化史、そして日本漫画史におけるミッシング・ピースとも言うべき新里の人生とその作品を通じて問い直す戦後80年特別企画。