作品解説

 私の好きな言葉に「肥溜めは意外と暖かい」というのがある。
 糞尿を溜めこんだ穴、肥溜め。そんな不衛生で不快な場所も、意を決して入ってみると、意外と暖かく癒されることもあるという意味である。
 残念ながら私は肥溜めに入ったことはないので想像する他ないが、肥溜めが暖かいのは糞尿が発酵して熱を発しているからで、本当に暖かみのある癒されスポットであるはずはない。当たり前の話だ。
 生理的嫌悪感は勿論、肥溜めは様々な病原菌・雑菌の巣窟で、衛生的にも入って良い場所ではないことは言うまでもない。第一ものすごく臭いだろう。
 ちょっとにわかには「ああそうだね」と共感できそうにない言葉である。
 でも少し想像して欲しい。
 自然豊かな農村のあぜ道に掘られた肥溜めに肩まで浸かる。最初は鼻についた悪臭もいつしか慣れてしまう。糞尿の発酵する仄かな熱は温泉を思わせる。眼前には長閑な田園の風景が広がる。空からは鳶の声。ゆるやかに流れる雲。水の張られた鏡面のような稲田。遠くのあぜ道を走る子供たちの歓声。
 都会の喧噪を忘れて私は思うのだ。
 ああ、肥溜めって意外と暖かい、と。
 想像しうるこの世で最も居心地の悪い場所でも、覚悟を決めて全身を汚物に浸し、腰を落ち着けてみると、不快な感覚には慣れてしまい、案外に住めてしまうのではないだろうか。
 どんな最低な場所も、生命の危険さえなければ、生き延びることのできる最低限の生活の場さえあれば、そこに居を構えて人間は生きていける。
「肥溜めは意外と暖かい」とはそういう意味の言葉である。なかなかエッジが利いていて深い言葉ではないだろうか。
 まあ「どんな場所でも居場所はある」という意味の言葉ならば「人間到る処青山あり」というもっと表現がきれいで知名度が高い同義語がすでにあるわけだが。
 ともあれ私はこの世で最悪の場所を示すのに「肥溜め」というストレートに不快感をイメージできる場所をチョイスしているところと、居心地の良さを「暖かい」と柔らかな表現にしているところと、その二つの単語のあまりに強いコントラスが面白くて、この言葉が好きなのだ。
 のっけから汚い話で申し訳ない。別に肥溜めの話をしようとしているのではない。
 私がこれからしようとしているのは、まどめクレテック氏の『生活保護特区を出よ。』という漫画作品の話である。
 当たり前の話だが『生活保護特区を出よ。』は肥溜めを巡る物語ではない。今のところこの作品に肥溜めは登場していないし、おそらく今後も肥溜めに浸かる登場人物は現れないと思う。多分。
 しかし肥溜めのような判りやすい不衛生で不快な場所ではないものの、生活保護特区という、経済的自力困難者を隔離・移住させる剣呑で劣悪な区画、土地を舞台にした作品である。
 無論、この物語はフィクションである。現実の日本の生活保護制度には強制的な移住制度はないし、国勢調査テストなどという学力で国民を選別する恐ろしい制度も存在しない。
 現実の生活保護制度はあくまで「健康で文化的な最低限の生活」を保障するセーフティーネットであり、作中でマントラアーヤと呼ばれる生活保護特区は架空の土地である。
 しかし、ナチス・ドイツがユダヤ人を強制移住させたゲットーや南アフリカの行った人種隔離政策アパルトヘイトが強制居住区として定めたホームランドなど、国家による隔離政策はかつて現実に存在した。
 また国家による強制ではなくとも、貧困層や移民などが経済的理由から密集する地区、いわゆるスラムは今も昔も世界中のほとんどの都市に存在している。
 現実の日本には国によって定められた生活保護特区は存在しないが、生活保護制度において住宅扶助費、つまり支給される家賃は一定額(地域によって金額には差がある)に定められているため、現実的には生活保護受給者はどこにでも好きなところに住めるわけではない。
 特に都市部は住宅費が高額で、定められた住宅扶助費では、住める住居が限られてしまう。結果、家賃が住宅扶助費内に収められ、住民が全員生活保護受給者である生保アパートなるものが実在することになる。
 まさに本作で主人公フーカたちが住むにいなめ荘そのままのおんぼろ安アパートが東京や大阪に存在しているのだ。さらにそういった生保アパートが密集する家賃の安い地域、実質的な生活保護特区は現実の日本にも存在しているのである。
 では『生活保護特区を出よ。』はそんな現実世界に存在するスラムや貧民窟、隔離地域の実状を現代日本で再現する思考実験作、ディストピアSF作品なのだろうか。その地獄から脱出と闘争を描いた作品なのだろうか。
『生活保護特区を出よ。』は第二次世界大戦後、首都が新都トーキョーと改められ、国中にあふれた浮浪者対策として生活保護特区が作られた架空の日本が舞台である。
 新都トーキョーに住むちょっとのろまな普通の女子高生フーカの、家族や友人たちと過ごす穏やかな日常から物語は始まる。しかし学校で行われた国勢調査テストと呼ばれる学力検査の結果、フーカは能力不振と判断され、生活保護特区への強制移住が決まってしまう。友人たちの協力によるささやかな抵抗と失敗。家族との別れ。そしてフーカの乗ったマントラアーヤ行きの船が出るところで第一話は終わる。
 初読時、私は「ああこれからマントラアーヤとかいう地獄のような場所での戦いの日々が始まるんだな」と思った。
 普通の生活を送る普通の主人公が突然、実態不明の隔離地帯に強制送還されるなんて、典型的なディストピアものの冒頭部分そのものである。
 それにタイトルが『生活保護特区を出よ。』である。「出よ」という命令形。そりゃ地獄からの脱出がテーマだと思うだろう。普通。
 マントラアーヤは「都内」となっているが、どうやら新都トーキョーから遠く離れた絶海の孤島である。アルカトラズ島のような獄門島、佐渡島のような流刑地を思わせる。そこからの脱出劇となれば、おそらく『岩窟王』や『大脱走』のような一大活劇巨編になるだろう。往年の漫画で思い出すならば『光る風』(山上たつひこ)だ。『スケバン刑事』(和田信二)だ。そんなことを私は想像していたのである。
 ところが、である。
 それから最新話(本稿執筆現在第十話まで公開)に至るまで、フーカは悪夢のような流刑地から一向に脱出を試みようとしない。匙で壁の穴を空けもしなければ、集団脱走を先導もしないし、くみ取り便所から脱出もしないし、鋼鉄製のヨーヨーを振り回して巨大権力と戦ったりもしないのだ。
 それどころかフーカは生活保護特区での生活にすっかり馴染んでしまうのである。
フーカのマントラアーヤでの生活は地獄と呼ぶには、なんだかちょっと楽しそうなのである。
 勿論、生活保護特区マントラアーヤは決して快適で住み良い土地ではない。
 フーカたちの住む共同住宅にいなめ荘は、毎年台風で倒壊しそうになってしまうようなボロアパートである。トイレと風呂は共同で水は出ず、外から水を汲んでくる必要がある。お湯はボイラーによる沸かし湯のみ。灯油の使用に制限があるので基本的には水浴びしか出来ない。雨露をしのげる最低限の機能しかない建物だ。
 室内には冷暖房器具はおろか調理器具もない。共用の冷蔵庫はあるものの、置いてある飲み物はビールとハイボールしかない。食事は期限切れの弁当である。
 余談だが作中でビールとハイボールとして示されるのが、いわゆる第三のビールとストロング系ハイボールという低価格で効率よく酔っぱらえる貧困層御用達のアルコール飲料である点は指摘しておきたい。まどめクレテック氏の貧困に対する解像度の高さはこういった細部描写に現れている。ホントよく判っている。モデルになった缶飲料のメーカーからクレームが来ないかヒヤヒヤしてしまう。
 そしてそんなにいなめ荘の住民も正直、マトモな人間たちとは言い難い。
 大半の住民はなんらかの心の病を患っており、住人間での向精神薬の横流しが横行している(無論、犯罪である)し、自殺未遂や自傷行為は日常茶飯事だ。生い立ちや家族に瑕疵があるのは言うまでもない。無職ではないものの、全員が正規雇用でなく、その日暮らしの単純作業か特殊な仕事をしているワーキングプアである。
 最低・劣悪な貧乏アパートであるにいなめ荘から、周辺の住環境及び他の住民たちに目を移そう。
 マントラアーヤにはにいなめ荘のような貧困アパートが他にも点在しているが、そこにも住めない者たちもまた多数存在し、路上生活をしている。道々には段ボールとビニールとでできた家が立ち並び、さらにその日暮らしの者たちのための簡易宿泊所が密集したドヤ街まで存在する。島全体が例え一夜でも屋根のあるドヤで過ごせる者が恵まれているような貧困地帯であることは言うまでもない。
 内地からの出向者が居住する中央区という立派なオフィス街と特別公営住宅も存在するが、フーカたちの住む特区との境界線にはフェンスで区切られた「壁」が設置されており、明確に生活保護受給者と居住区が区切られている。
 ちなみに島内の地理説明をするシーンで、住民の口からはっきりと特区のことを「スラム」と説明するセリフがあることは特記しておきたい(1巻166ー167頁)。
「トーキョーと変わらない」とフーカに評されるほど整備された中央区に比べると、特区は一番の繁華街とされる街でさえ、地方の古ぼけた商店街のように背の低い個人商店の建物が乱雑に並んでいるだけの寂れた街並みだ。
 特区にはフーカのように内地からの移住者もいるが、生活保護特区が制定されてから半世紀以上の年月が過ぎているため、マントラアーヤで生まれ育った、いわゆるネイティブな住民も多数住んでいる。
 彼らマントラアーヤ生まれはほとんどが学校に通えておらず、識字率も低い。結果、就労できる仕事が限られてしまい、経済的困窮に陥るといういわゆる負の世代間連鎖が起きているのが伺える。 
 こういったスラムやそこに住む人々、貧困の描写のきめ細かさ、解像度の高さが、この漫画の特色である。架空のディストピアを描きながらも、その風景や住民たちの顔立ちは実在するスラムや強制隔離地域のそれを引き写したようである。あたかも世界の何処かに実在するスラムのようなリアリティでマントラアーヤは描写されているのだ。まどめクレテック氏の筆遣いの鮮やかさには正直に脱帽してしまう。
 それなのにフーカの視点で描かれるマントラアーヤの生活の風景は、なぜか楽しそうでどこか美しい。
 確かにまっとうな感覚ではにいなめ荘は相当不快なはずの生活環境で、転居初日こそ「ここはマトモな人間の住める場所じゃない」と困惑していたフーカだが、元来のずぼらでのんきな性格のためか、次第に最低・最悪な環境に慣れていく。それどころかフーカは清掃やゴミ捨てが出来ず自室を汚部屋にしてしまい、逆に他の住民から注意をされている始末である。
 それぞれ課題や心の病いを抱えている他の住民たちとの関わりも、フーカは衝突しながらも、なんとかお互いを受け入れあい、結果的に良好な関係を作ることに成功している。
 仕事についてもフーカは自分に合わない肉体労働には早々見切りをつけて、特区内に住む学者の資料整理やマントラアーヤ唯一の民間ラジオ放送局での仕事に就き、試行錯誤しながら忙しくも楽しく仕事をこなしていく。そもそもにいなめ荘では労働は「できる時にやれば良い」という精神なので働かないことを誰からも責められたりはしない。
 そんな感じで、極悪環境のにいなめ荘での生活は苛烈であるはずが、フーカの視点では呑気で穏やかな共同生活の場で、貧乏学生寮あるいは奇人変人の集まるシェアハウスの生活のようである。
 ここに至って『生活保護特区を出よ。』は地獄からの脱出、闘争ではなく、「貧しいながらも楽しい日常」の漫画のような様相を呈してくる。
またまた漫画で例えるならば、無職のスローライフを楽しく描いた『大東京ビンボー生活マニュアル』(前川つかさ)だとか、無職の兄妹の共同生活を描いた『働かないふたり』(吉田覚)のような楽しい無職生活漫画を読んでいるような感覚さえ感じてしまう。
 この現象はにいなめ荘だけに留まらない。
 現実のスラムを引き写したようなマントラアーヤの雑多でごみごみとした荒んだ風景も、フーカの目を通して見ると、なぜだか少し美しい風景に見えてしまうから不思議だ。
 繁華街の雑然とした街並みは地方都市の寂れた商店街のようで、不潔さと共に懐かしさと暖かみを感じる。雑然とした街並みは同時にそれなりの人混みと活気があるわけで、行き交う住民たちの表情も明るい。マントラアーヤは死んだ街ではなく、そこに生きている人間たちの生活が存在している生きた街なのだ。
 まどめクレテック氏はこの作品を基本的につけペンと墨汁というアナログ作画で描いているのだという。そのためか氏の描く生活保護特区の風景はどこか柔らかく牧歌的である。
 オンボロのアパートもくすんだ街並みも荒んだ雑踏も郊外の朽ちかけた廃墟群も、薄汚れていても、決して不快な風景ではない。まどめクレテック氏の描く風景は少し懐かしく、そして優しく美しい。
 風景だけではない。マントラアーヤは文化面でも荒廃していない。
 物語冒頭に語られるようにマントラアーヤは、終戦直後に本土と分離されたためか、独自の宗教と文化が根付いているのだ。
 どういうわけか地名や神の固有名詞はサンスクリット語風だ。(しかしヒンズー教の用語とも合致はしない。この命名規則にどんな意図があるのかは現段階では不明だ)
 例えば作中にウッディヤントラと呼ばれる家電を改造した楽器が登場する。テレビや扇風機を改造した、どんな風にどんな音を出しているのかも想像つかないような奇妙な楽器たちである。これらは「特区にくる廃品はすべて神の恵みであり、有効活用しないとバチが当たる」という独自の価値観と文化から制作されているそうである。
 さらに年に一回の祭典・日の出祭りというのがある。これもマントラアーヤで独自発展した宗教にまつわる行事のようだ。あきらかに神道や仏教とは違う神話をベースにしており、全くどんな祭りなのか想像も付かない。
 住民たちはこの日の出祭りを楽しみにしているようで、その準備の様子は学校の文化祭の準備の風景に似ていて楽しそうな雰囲気である。
またマントラアーヤには独自のラジオ放送局が存在する。フーカはそこで文が読めない子供たちのために児童書の朗読をしている。一応仕事として給金を得ているが、これもフーカの生活の楽しみの一つでもある。
 フーカの視点で見るならば、生活保護特区も刑務所のような全てを禁じられた収容所ではなく、それなりに文化的で楽しみもある共同生活の場であると言えるだろう。
 勿論マントラアーヤがディストピアであることは間違いない。どこを切り取っても非人道的であり非衛生的な土地であり、フーカが初日に感じた通り「マトモな人間の住める場所」ではない。
 しかし同時に「居心地の良い地獄」であることも事実である。フーカは明らかにマントラアーヤでの生活を楽しんでいる。なぜならば地獄であるマントラアーヤにだってそこに住む文化があり、人間の営みがあるからだ。
 どんな地獄も不快な場所もそこに居を構えて人間は生きていける。
 そう、思い出して欲しい。「肥溜めは意外と暖かい」のだ。
 思い返してみると、かつて現実に存在したゲットーやホームランドといった強制隔離地域、そして未だに存在しつづけるスラムや貧民窟にだって、そこには住民の生活があり、独自の宗教や文化が存在し、人間の営みがあった。人の住む暖かい風景があったのだ、
 まどめクレテック氏は大学で文化人類学を専攻していたという。
マントラアーヤという架空の強制隔離地域とそこに根付く文化を創造するにあたって、氏が既存の強制隔離地域の文化や成り立ちを参考にしたことは想像にかたくない。実在であれ架空であれ、ディストピアにだって人間の営みは存在するのだ。
『生活保護特区を出よ。』はそんなディストピアでの文化と生活を描いた「居心地の良い地獄」「意外と暖かい肥溜め」「地獄で楽しいスローライフ」の物語なのである。
……本当にそうだろうか。
 ここからはまだ描かれていない漫画の話をする。
 確かに『生活保護特区を出よ。』で描かれる世界は旧来のディストピア作品とは違い、主人公たちがその生活に順応し、貧しいながらも楽しく暮らす物語だ。今のところ。
 前述した先行する漫画作品で例えるならば、強烈な管理社会との戦いを描いた『光る風』よりも、無職のスローライフを楽しげに描いた『大東京ビンボー生活マニュアル』の方が近い作風である。
 余談だが、この二作についてまどめクレテック氏に訊いたところ、「よく類似を指摘されるけど『光る風』は読んだことないです。『大東京ビンボー生活マニュアル』は大好きです」だそうである。
 しかしまた同時にマントラアーヤはやはり正真正銘のディストピアであり、最悪の強制隔離地域であることも事実だ。
 そもそも現実の生活保護という制度は、あくまで他の手段がない時の最後のセーフティーネットであり、一度受給開始したら一生保護受給者でいなければいけない制度ではなく、いつか経済的に自立して保護廃止することを目指す制度である。自立に向けての就労指導や教育扶助などの支援制度もあるし、住居のない受給者のためににいなめ荘のような入所施設も実在する。勿論、それは強制収容されるような施設ではない。
 それに比べると、この作品で描かれる生活保護制度は強制移住制度であり、教育や就労などの支援制度も存在しない。自立支援どころか事実上の棄民制度と言っていいだろう。
 さらに言えば本来の生活保護制度は、本人が受給希望しなければ受給にならない、いわゆる申請主義をとっているのだが、本作の生活保護制度は本人が受給を希望しなくても、国勢調査テストの結果如何で強制的に生活保護受給者になってしまう。つまり、この世界の生活保護制度は権利でなく、措置なのである。
 この世界の日本は果たして民主主義国家なのだろうか。基本的人権というものがちゃんと存在する国なのかも気になってくる。正しく超管理社会のディストピアではないか。
 そんな正真正銘のディストピアで「貧しくとも楽しいスローライフ」を堪能する漫画。この作品はそんな認識で良いのだろうか。
 いくら暖かいからと言って、肥溜めにずっと浸かっていて良い道理はない。生活保護制度はいつかは自立し脱しなければならない制度なのだ。
 しかし、あまりにフーカが戦わず逃亡せずマントラアーヤの生活に馴染んでしまっているので、不安になった私は些か反則ではあるが、作者に訊いてみることにした。
 すなわち、まどめクレテック氏に直接「このままフーカは生活保護特区で楽しく暮らしていくの?」と訊いてみたのである。
 すると氏ははっきり「いやいずれ出ますよ。生活保護特区を」と教えてくれた。
 そう、思い出して欲しい。この作品のタイトルは『生活保護特区を出よ。』なのである。
 さらに氏の話ではこの作品の連載前の仮タイトルは『生活保護特区へようこそ。』だったそうだ。それを連載開始時に『生活保護特区を出よ。』に改めたのだという。思えばこの作品のコピーは「これは革命の物語である」であった。やはり最初からこの作品は「居心地の良い地獄」「暖かい肥溜め」からの脱出の物語だったのだ。
 つまりこの作品はまだ半ば、折り返しの地点にあるということだ。ここから居心地の良い日常は終わり、戦いと革命の物語が始まるのである。多分。
 勿論、フーカたちはいかに生活保護特区を出るのか、革命を起こすのかは作者ならぬ私には判らない。あくまでこれから描かれる未知の漫画の話である。
 マントラアーヤの全住民で一斉蜂起し、まだ見ぬ日本の支配者を打ち倒すのか。たった一人、絶海の孤島マントラアーヤを脱出し、新天地を求めて船出するのか。はたまたマントラアーヤを文字通り革命し日本から独立するのか。アクション巨編になるのか、それともリアルなポリティカル漫画になるのか。はたまたやはり貧乏日常漫画のまま曖昧に終わるのか。それは全く判らない。
 もしかすると私たちは漫画史に名を残す大傑作の誕生に立ち会っているのかも知れないし、私たちの記憶に残り続ける大怪作に遭遇しているのかも知れない。
 判っているのは、この作品がまだ道半ばであり、ここが折り返し地点であるということだけだ。
 ここまで長々と語ってきて当たり前すぎる結論で恐縮だが『生活保護特区を出よ。』が一体どんな作品として完結するかは、全てまどめクレテック氏のこれからの筆次第である。
 貧困というシビアな問題とその風景に対する氏の解像度の高い目と温かい筆が「居心地の良い地獄」「暖かい肥溜め」である生活保護特区マントラアーヤにどう決着をつけるのか。それをこれからリアルタイムで見守ることができることを、読者として私たちは幸福に感じるべきなのは間違いない。

お知らせ

  • /////単行本1・2巻同時発売! 7/23/////

    私たちは知らなかった。“この国”がどんなふうに成り立っているかなんて…

    1945年、大きな戦争により国中に浮浪者があふれ荒廃した日本は、福祉と治安維持のため、能力不振や病気、障害等により自立困難なものに国が衣食住、生活を保障する「生活保護特区」(俗称マントラアーヤ)を制定した。

    2018年、新都トーキョーの一般的な中流家庭で育った高校生フーカのもとへ「特区通知」が届く。この国で何となく生き、何となく幸せになれると思い込んでいた彼女にとって、それは青天の霹靂だった……

    貧困、差別、格差をめぐる癒しと革命の物語。

    ★ハリジャンぴらの(社会福祉士・精神保健福祉士/青木ヶ原樹海探索者)による圧倒的作品解説