高浜寛が語る「熊本地震 後編」(2016年5月20日公開記事)
■避難すらできない人たち
中央区にあった私のアパートは、最初の地震の翌日には大家さんから「たぶんもう住めない」という話があって、その後に不動産屋さんの説明会がありました。その時に正式に全員退去しなければいけないことになったんです。不動産屋さんが新しい物件を探すのを手伝ってくれるし、敷金・礼金、手数料もいらないので、とにかくみんな安全な建物に移りましょう、ということになりました。
次の住居が見つかるまで車中泊を続けることなるんですが、ニュースでもやってましたけど、平均すると1日に100回くらい地震があるので、その場にいる感覚だと、本当に、絶え間なく地面が揺れている状態でした。しかも大きい揺れが次にいつ来るかわからない怖さもあって、精神的にとてもつらいんですね。最初の地震から3日経っても4日経っても1週間経っても、ずーっとそんな感じでしたから、友人や知人が心配して、何人も「県外に逃げておいで」と声をかけてくれました。確かにその方が安心で、精神的なストレスも軽くなりますし、私は漫画家なので紙とペンがあれば何とか仕事はできるわけで……というか、家はぐちゃぐちゃだしこの非常時に画材を売っているお店は熊本になかったので、むしろ県外の方が仕事ができる状況だったんですけど、熊本を出ようとは全然思いませんでした。
【不動産屋の物件情報】
避難所にいる人たちのところには比較的安定して物資が届いていたんですが、自主避難してて車で寝てる人とか、“避難所に入れない事情”がある人たちにはなかなか行き渡らないというのがあって……避難所に入れない事情っていうのは、寝たきりだとか、精神疾患があって集団生活が困難だとか、犬を飼ってるだとか色々あるんですね。私、もともと病院や福祉センターでメンタルヘルスのプログラグムに関わってきたこともあって、精神疾患の人とか、生活保護を受けている人とか、ホームレスとか、依存症の人とか、そういう連れがいっぱいいるんです。それに私のアパート家賃1万2000円で激安だったでしょう。身寄りがなかったり経済的にすごく苦しかったり、厳しい状況の住人も多くて。私の身近なそういう人たちが、水もない、ガスもない、電気もない、あ、電気は来てたかな、でも、食べ物がないのに家族が6人いるとか、大変な状況で生きていかなきゃいけない。アパートの人たちとはもともと付き合いがあったわけでは全然なくて、地震の前は「隣のゴミ屋敷くさいな」みたいな気持ちでしたし、下の住人は旦那さんに死なれてすごい貧しくて内緒で犬飼ってて、すごいワンワン言ってて「うるさいな」とかフツーに思ってました。今は仲良しですけどね。みんながみんなスムーズに食料を手に入れられるわけではなかったので、最初の数日間は食べ物をかき集めてみんなに配って歩いてました。彼らの場合、情報収集の手段も移動手段もなくて、避難すらできない人たちなんです。で、自分が人一倍困難な状況にあることに自分で気づいていない。
■ゴミ屋敷の独居老人
隣のおじいさんなんかは本当に何の身寄りもないみたいで、絵に描いたようなゴミ屋敷の独居老人。地震でドアが開かなくなっちゃうから玄関のところに靴をはさんで、一日中ドア開けっぱなしで寝てるんです。で、ピンポンを押したら「はーい」って声だけ聞こえてくるから、「入るよー」って中に入って。家の中もゴミが沢山積んであって、電話はなくて、テレビはあったかな、余震のたびにゴミが崩れてくるんだけど、おじいさんは部屋の真ん中に布団を敷いて、ドアも閉められないから外気温と同じ中で、大きい揺れに怯えながら一人で寝てるんですね。おしっこ臭くて、お風呂にも入ってないで、床は砂が吹き込んでザラザラで、なんか濡れてて……
地震の前はお昼にセブンイレブンの配達の人が来てたのと、ヤクルトさんが来てたのと、何日かに一回、たぶん銀行の人だと思うけど、誰かがお金を持ってきてて、あと、たまに市の福祉課の人とかが様子を見にきてるのは何となく知ってましたが、ちゃんとした介護は多分受けられていなかったと思います。介護の人が来てたとしても、部屋が汚なすぎるから本人が誰も入れたくないのかもしれないし、介護を受けられていたとしたら、おじいさんももっと早く避難できてたはず。本当は一刻も早く安全な場所に移らなきゃいけないんですが、あんまり時間がかかりすぎるようだったら、私が市の人と直接やり取りして、一時的にどこか安全な場所に動かしたいなと思ってます。
【高浜や老人が暮らしていたアパート】
母のマンションにもやっぱりそういう人がいて、上の階の人が死んでるかもしれないって。その人も独居老人だってことが最近わかったらしいんですけど、最初に揺れた時から全然その人と連絡が取れてないみたいで、管理団体と警察に連絡して、明日鍵を開けてみるっていう話になっているようです。障害があったり高齢だったり病気だったり、そういう人たちってやっぱり近くの人が様子を見に行ったりしないと、永遠にそのまんまになっちゃったりしますからね。
ツイッターとかを通じて「今は他人のことよりも、とにかく自分を大事にしてください」とか「人に気を使いすぎて辛くならないようにしてください」とか、みんな気遣ってくれて嬉しかったですし、すごく救われました。そういう温かい言葉に励まされて、今、自分の目の前で助けを必要としている人たちを放り出してはいけないと、ちゃんと思えた部分もあると思います。前回もちょっと話しましたけど、私、東北の震災の時に東京にいて、もうほんと怖くて「とにかくここから逃げよう」と思ってすぐに逃げてきたんですね。でも、その後東北の人たちのこととか東京の人たちとか、すごく気になるのに自分は何にもできないままで……っていう気持ちをずーっと引きずってたんです。だから今回、県外に出ようって全然思わなくて、私が助けられる人を、とにかく出来る限りサポートしようって、なんか思ったんです。何ともない時は自分が危険な目に遭ってまで人助けなんてできるのかなって思ってましたけど、“その時”が来ると意外とできるんだなっていうのがわかりました。私、美容グッズとかギャル服とかにものすごい執着してたんですけど、そんなものよりソーメンとかコンロとか電熱調理器とか、みんなに配るものをゲットするために崩れかけの危険な建物に入るとか、自分にできると思ってませんでした。意外でした。
■エコーにごはんをおごらなかったこと
メンタルヘルスのプログラムに「謝罪」と「埋め合わせ」というのがあって、それに繰り返し取り組んできたことが大きいと思います。今まで自分がやってきた良くないことや人を傷つけてしまったことに対して謝罪し、何かしらの埋め合わせをすると、その後の人生がとっても生きやすくなるんですね。過去のことにきちんとカタをつけるんです。これを繰り返し繰り返しやると、自分が何をすると、あるいは何をしないでいると後で自己嫌悪に陥るかがわかるようになります。そうすると、「ベストを尽くす」ことと「人に親切にする」ことが、後悔しないために大切なことだって学ぶんです。
『SAD GiRL』に載ってる「ロング・グッド・バイ」という短編に描きましたが、私の“仲間”が死んだことあって。エコーというあだ名の男の子。最後に彼に会った時、彼と私ともう一人の3人で、フードコートでごはん食べてたんですね。私ともう一人は、なんか、麻婆豆腐セットを食べたんです。600円くらいで安かったんだけど、エコーがお金持ってないのを私たちわかってたんだけど、毎回お金出してやると、こいつクセになって自立できなくなるからと思って、出してやらなかったんですよ。で、そいつ昼ごはん食わなかったんですよね。そしたら次に聞いたらもう死んでて。あの時、どうしておごってやらなかったんだろう、600円くらいどうってことなかったのにって、ものすごく後悔しました。そういう風になるのはもう嫌で……
【エコー】「ロング・グッド・バイ」(『SAD GiRL』収録)より
■目の前で困ってる人を、今ここで、すぐに
でもね、私以外の人たちも、みんな頑張ったんですよ。普段は病院に通ってて、精神的に病んでる人たちが、今回、何ともない人たちよりもむしろ進んで人助けをして。で、終わったあとにみんな疲れ果ててしまってバタバタ倒れて(笑) でも偉かった。人の役に立つのが嬉しかったのかもしれないですね。いつも無気力にダラダラしちゃってるっていうコンプレックスが彼らにはあって、心の底では家族に申し訳ないと思ってる人たちだから。何回も自分で死のうと思ったりもしてるし、この期に及んで自分はどうなっても構わない、みたいな気持ちもあったかもしれないですね。
義援金や自治体への支援物資の動きとはまた別に、私の場合「目の前で困ってる人を、今ここで、すぐに助けないと」っていう思いに駆り立てられました。身の回りの困ってる人たちを経済的に援助してあげたいとも思って。でも、私も家財道具をほとんど失って貯金も使ってしまったから、あんまり余裕がなくて。それで、原稿を売ろうと思ったんですね。売ったお金をみんなに配ろうと思って、どういう風に売るのがベストか考えたりしつつ、まずは特に助けを必要としてる人が無事に転居できるようにサポートをちょこちょこしてて。熊本市が所得の少ない人に民間賃貸住宅の無料借り上げ制度を作ってくれて、そうこうしてるうちにゴミ屋敷のおじいさん以外はみんな少しずつ引越し先が決まってきたので、直接的な金銭の支援についてはもう少し様子を見ようと。ただ、彼らも新しいところに引っ越してしまうと今までみたいな安い家賃ではいかないだろうから、これから先、苦しくなるようなことがあればいつでも支援しようと思います。ゴミ屋敷のおじいさんみたいに、困窮する要介護者の避難は遅れていますしね。
病院とか福祉センターとかでは、他人との境界線に関する適切なバランスを教わるんですが、個人的な援助をするにしても、その人がそれに頼ってしまって自立できなくなってはいけなくて、いつまでやるのかとか、どこまでやるか、どれはやってはいけないかといった正しい支援の仕方をきちんと掴まなきゃいけない。私がアルコール依存症の更生プログラムに参加する中で教わった言葉があって、
神様私にお与ください
変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変えていく勇気を
そして二つのものを見分ける賢さを
……というものなんですが、色んな局面で私を支えてくれている大切な言葉で、今回もこの言葉にとても助けられてます。困っている人を助けるにしても「依存する人とされる人」の関係にならないように、例えば、自分で動ける人には金銭的な援助ではなく、動き出すための支援をするとか、本当に困っている人から優先順位をつけてサポートするとか、自分のできない領域やしてはいけない領域を見極めることも含めて知恵を絞っていこうと。
■苦しい時代の後には必ず良い時代が来る
最初の地震があってから、もうずっと気を張ってきたんですが、さすがに凹むこともありますね。一昨日あたりはかなりきつかったです。食事を米とか糖分、糖質、炭水化物だけで終わらせるとか、フレッシュな野菜がなかなか摂れないから体調も崩しがちなんですよね。ストレス溜まってお菓子とか食べちゃったり。モンストはだいたい毎日やってます。最近はツムツムですけど、やってると何も考えなくて済むからいいんですよね。被災した人たちもみんなけっこうやってますね。こういう時って、アルコールとかパチンコとか、依存症の人のスリップが多いみたいです。外に出ると、ブルーシートの上で酔っ払って寝てる人とかけっこういますね。多分、今回の震災でものすごい数の依存症の人がスリップしたと思います。一昨日、私もお酒飲もうかと思っちゃいましたけど、飲まなかった。5月に入ってから運良く新しい家に住みはじめて、どっと疲れが出たんだと思います。なんか、すごい、寝ました。
【車中生活】瓦礫の撤去作業を眺める
私は新しい部屋に入れることになりましたが、まだまだ大変な生活を余儀なくされている人が沢山います。みんなストレスが溜まりすぎてて、どうってことないことで優しくできなくなってたり、すごい喧嘩してたり、鬱っぽくなって動けないでいたり……そういう人がすごく増えている気がします。みんな、周りの人に配慮している余裕がなくなってきてる。この前も、コンビニで箸を4膳くれって言ったら店員さんから2本しかありませんて言われて「何で食えっちゅうんじゃ!」って、すごいキレてるおじさんがいたし、車乗ってても、ちょっとぶつかりそうになっただけで「こら、ぬしゃ、出てこんか!」って喧嘩になってたり。 避難所の人たちとはまた別に、目に見えない形で、そして自分でも気づかないうちに傷ついてる人が沢山いるんですね。箸をもらえなくてキレてたおじさんだって、なるべく家族に沢山分けなきゃっていう気持ちがあってのことだから……つらいですよね。
漫画なんか描けないし描いてる場合じゃないなっていう気持ちにもなりましたが、少し落ち着いて、今連載している『ニュクスの角灯』に向き合ってみると、不幸があった暗い少女が、西洋の文物を通して世界に触れ、それぞれの過去を持った人々と触れ合う中で良い方に変わっていく、そういう話なので、今こそ描くべきだと思って、休載せずに続けることに決めました。
復興について大きなことはできないけど、九州を舞台にした物語でみんなに喜んでもらったり楽しんでもらうことが、今、私にできることなのかなと思っています。
『ニュクスの角灯』第2巻 第11話より
1878年(明治11年)長崎。西南戦争で親を亡くし道具屋「蛮」で奉公を始めた美世は、ドレス、ミシン、小説、幻灯機……店主・小浦百年が仕入れてきた西洋の文物を通じ“世界”への憧れを抱くようになり……
文明開化の最前線にあった長崎とジャポニスムの最盛期を迎えつつあるパリを舞台に描く感動の物語。
☆第24回手塚治虫文化賞「マンガ大賞」受賞
☆第21回文化庁メディア芸術祭マンガ部門「優秀賞」受賞
☆「リーヴル・パリ2019」レコメンド作品