高浜寛が語る「熊本地震 前編」(2016年5月2日公開記事)
写真・絵:高浜寛/文・構成:トーチweb編集部
■2016年4月14日(木)21時26分 熊本県で震度7
最初の地震の時は、近所の公園で鉄棒の上を歩いていました。パルクールの練習をしてたんですね。綱渡りをしたり、着地の瞬間に前転をして衝撃を逃す……みたいなことを夜中にこっそり練習してたんです。鉄棒の上を歩いていて「よし、おしまい」と思って、着地した時にすごい揺れが来ました。それとほとんど同時に、空が稲妻が走ったみたいに光るのを見ました。青白い感じで、バッって。
そのまま公園の中央の、高いものが倒れてこないところまで走って行って、その場にいたホームレスのおじいさんと「なんだなんだ」って話してたんですけど、その人「俺、大阪から来たんだけどこんなのは初めてだ」って言ってて、テンパリすぎてすごい笑ってました。そのうち、何人かの友人から「大丈夫?」ってLINEで連絡があったんですけど、電話は全然通じなくて、実家の母と連絡が取れたのはずっと後になってからです。その時は私もこんなひどいことになるとは思っていなくて、家に帰って片付けをして元の生活に戻ろうと思ってたんですけど、揺れが全然収まらなくて。
私の家は家賃1万2000円で、熊本で一番ぼろいアパートだったんで、1回目の地震でもうぐっちゃぐちゃで危険な感じになってました。公園から猫の「しぃさん」だけ連れに帰ったんですが、建物は目に見えて傾いてるし、玄関のドアを開けたらもう部屋がめちゃくちゃで。その間もずーっと揺れてたのでアパートがいつ倒れるかわからなくて、もう死ぬ気で家に入っていきました。そしたらしぃさん、瓦礫の上でブルブル震えてて……『ニュクスの角灯』の第1話の冒頭は、第二次大戦の熊本大空襲のシーンから描き始めたんですね、おばあちゃんになった主人公が防空壕で怯える孫娘を一生懸命なだめて……本当にあんな感じになって、自分でも驚きました。そしたら編集部から電話がかかってきて、一応、電話に出るには出たんですけど、しぃさんに「こっちおいで!」って叫ぶのに精一杯で会話ができませんでしたね。しぃさんを持って、急いで脱出して、揺れが収まるかどうか外で様子を見てたんですけど、全然収まらないし、アパートの人たちもみんな建物の中に入ろうとしなかったので、「こりゃいかんわ」となって、とりあえず市内にある母の家に車で向かったんです。
【地震直後のアパート】外壁が明らかに歪み、ひびと傾きが目立つ
【高浜の自室】震災前と震災直後
【しぃさん】
■4月15日(金)0時03分 再び強い地震 熊本県で震度6強
母のマンションは私のアパートより新しくて丈夫だったので、1回目の地震では、今すぐ倒壊しそうな感じはありませんでした。母もその時はまだ比較的余裕があって片付けとかしてたんですけど、私は東北の震災の時に東京にいて、その時のことがあったから、もう一回大きいのが来るんじゃないかと思って、枕元に靴とかバッグとか置いて寝てたら本当に来たんです。びっくりしましたね、もう、ドーン!っていうのが来て。ぐらぐらーとかじゃなくて、地鳴りみたいのがドーン!って。その瞬間に停電になっちゃって、真っ暗な中で、どこかから水の漏れる音とかも聞こえてきて、もう、犬猫つれてとにかく外に出て。枕元に靴とバッグを置いておいたことと、その日はモンストのイベントがあったので夜更かししてて、深く眠る前だったのですぐ逃げられたのもあったんですが、とにかく、マンションのみんなもわらわら出てくるんですけど、逃げているそばから足元の地面が割れてきました。あちこち割れてましたよ、地面。母の家も、この2回目の大きい揺れでめちゃめちゃになっちゃった。
みんな建物の外に出てきたはいいけど、揺れが全然収まらなくて立っていられませんでした。住人の中でもメンタルがタフな人が椅子を持ってきて、立ってるのがつらそうな人に貸したりだとか、水を配ってくれたりとか、そういうことをしているうちに、マンションの管理組合から「中に入っちゃダメ」っていう通達がありました。で、みんな車の中とかで寝ることになって。私と母も、車2台をマンションの脇に停めて様子を見ることにしました。
私、東北の震災の時も東京にいたんですが、その時よりも怖かったです。たぶん夜だったのと、目の前で地面が割れてきてるっていうのが大きいと思うけど、最初の日だけじゃなくて、その後何日間にも渡って何回も何回もすごいのが来ましたから。最初の一番大きいのが震度7でしたけど、東京で経験したのと同じかそれ以上の震度6とか5とかが何回も何回も何回も何回も何回も何回も……どんどんどんどん来て。もう死ぬなってみんな思った。最初の地震から半月経った今(2016年5月2日現在)もまだ揺れてますけど、どこか慣れてきちゃってますね。建物がもろくなってきてるのか、地盤もゆるくなってきてるのか、今、震度3くらいでも4とか5くらいに感じる。ぐらぐらが大きくなってきてる感じがします。
■4月16日(土)午前8時半頃 阿蘇山噴火/夜から激しい雨
車の中でほとんど眠れずに一夜を過ごして、16日の午前中には今度は「阿蘇山が噴火した」っていう情報が入ってきて。あれはもうほんとに死ぬなって思いましたね。あの時は「阿蘇山が噴火!」っていう情報だけ先にあって、うん、もうなんか、みんな、ほんとに死ぬんだなあみたいな遠い目をしていて。小規模な噴火で地震と特別関係がないというアナウンスがあるまでは、みんなずっと阿蘇の方を見てたりして。煙が上がってないかな、とか……
そんなことしてると、今度は「川内原発は止めない」っていう発表があったでしょう。あの時、もう、おっかないし頭に来るしで、私「ぶっ殺すぞ!」とか言ってツイッターで安全地域の人に暴動を呼びかけたりしてましたけど(笑)、でも、東京にいるフランス人の知人も珍しく激怒していて。しかも今日、桜島噴火してましたよね。いまだに揺れまくってる地面の上で暮らしてる身からすると、もう「殺す気か!」って感じですよね。おそらく日本国内だけの問題じゃないんでしょうね。色んな利害が絡んでて……ちょっと話はそれますけど、古代の身体操作を継承している人々がクレタ島にいて、彼らは現代人ではまず考えられないような運動能力があるんですね。第二次大戦の時に、そのクレタ人たちから身体操作を教わったイギリス人が、ナチス高官を誘拐することに成功するんです。彼らは人質を連れたまま、切り立った崖だらけのクレタの険しい山岳地帯を1日80キロとか走ったそうなんですけど、この技術ってパルクールにも通じる部分があると思うんです。私、パルクールを習得したら、ちょっと………しようかな……
で、その日は更に夜から大雨になって……車の屋根やボンネットに、ものすごい、叩きつけるように降ってましたね。予報では大雨は午後9時頃から降るって言ってました。友達が山際に住んでて、土砂崩れが危ないから避難しなきゃいけないんだけど、その子、もう疲れ切っちゃってて「荷造りができない」って言うんですね。ツイッターでやり取りしてたんですけど、「気力がない」ってじーっとしてて。それが午後の5時か6時くらいだったんですけど、雨が降ってくるのは9時だから、「荷造りは一つ一つやれば絶対に終わるから、8時までには家を出ようよ」って必死に説得して、「頑張ろう」って励ましてたんです。で、その子も「8時までだったら頑張れる気がする」って言って、何とか逃げられたんです。でもなんか、そのやりとりを端から見てた人が「疲れてる人に頑張ろうとか言うの、やめません?」とか、いきなり言ってきて、すごく遠くの県の人でしたけど。いや頑張らないと死ぬからって、今そんなこと言ってる場合じゃないし、って。
■家に戻るのが怖い
14日の夜からずーっと、寝る時は車の中でした。車の中から鳥の様子をじっと観察してると「今日は大きい揺れは来ないな」とか、何となくわかるようになりましたね。避難に関しては自治体から何か指示があるというよりは、個人個人でどうするか決めるという感じでしたね。アパートやマンションは自治会が「屋内に戻る人は自己責任で」とか「どうしても戻る人は、自己責任に同意する署名をしてから入ってください」とかの張り紙がありました。
【旧居の張り紙】
最初の3~4日は着替えはなくて、公園でパルクールの練習をしてた時のジャージを着てました。夜間目立たない、ジャンブルストアとかで500円で売ってるような上下を着てました。私が車中泊をしていたあたりは、コンビニにも食べ物が全然置いてなくて、ガスも水も来てないという状態でした。でも、私の壊れたアパートはなぜか冷蔵庫だけ生きてたので、倒壊寸前のアパートにブルブルしながら入って、沢山冷凍してたココナッツカレーとかシチューとか、ほほ肉の煮込みとか、コンフィとか、ごはんとかツナ缶とか、そういうのをかき集めて、食料が来てない人たちのところに配って歩いてました。「食料が来てない人たち」については後で話しますが、私、けっこうストック魔だから、いろんなものをパンッパンにストックしてて(笑) あとは、お肉屋さんを開けてもらって、お肉を分けてもらったり、お水は出るエリアでくませてもらったり。最初の数日間は、とにかく食べ物を探し回って、かき集めて、足りないところに持って行っての繰り返しでした。
【移動の車中から見える景色】
数日後に、いとこの家のある隣の区に行ったら、スーパーが開き始めてたので、沢山買い出しをして、生きている冷蔵庫に入れました。母のマンションはもう立ち入りができなかったので、車屋さんをしている知人の家のガレージで炊き出しをして。その家も居住スペースはガタガタだったんですけど、ガレージだとすぐに外に逃げられるから、そこで食事をしたりテレビを観たり。で、揺れたらすぐに外に出る。寝る時はみんな車の中でした。ヘルメットかぶって寝てる人もいましたけど、何日も続くと特に年配の人はきつくなるから、危険なのは承知の上で、家に戻って寝たりもしてました。
私たちのいるあたりはインフラの復旧にとても時間がかかりました。特に水道はガスや電気よりも復旧が遅くて、トイレやお風呂が以前と同じように使えるようになるまでに丸二週間くらいかかりました。その間、お風呂に入れてもらうために1日置きに違う友人・知人のところにお願いしてまわったり。でも、お風呂はどうにか使えても、建物自体がいつ倒れるかわかんない状態なので、家の人も避難所にいるケースが多くて。私がお風呂に入る時だけ、友人に家に戻ってもらうことになるので頼みにくかったりもしました。みんな、自分の家に入るのが怖いんですね。私の友達はメンタルが弱い人が多いから、地震の後みんな一様に「幽霊が!」とか言い始めて(笑) 地震の後「家に入りたくない」とか、お風呂は貸してくれるけど「早く出よう」とか言ってきたり。幽霊とかいないから! みたいな感じで。でも、そういう気持ちになるのもわかります。余震が延々と続く中で、大きい揺れがいつ来るかわからない状態でしたから。最初の地震があってから4日ぶりだったかな、隣の区のいとこの家が奇跡的にお湯が出て、久しぶりにお風呂に入らせてもらった時は、髪の毛を梳かしても梳かしてもどうにもならなくて、2時間くらいお風呂から出られなくて怖かったです。
【町の様子】震災ゴミと倒壊家屋がいたるところに
(後編に続く)
1878年(明治11年)長崎。西南戦争で親を亡くし道具屋「蛮」で奉公を始めた美世は、ドレス、ミシン、小説、幻灯機……店主・小浦百年が仕入れてきた西洋の文物を通じ“世界”への憧れを抱くようになり……
文明開化の最前線にあった長崎とジャポニスムの最盛期を迎えつつあるパリを舞台に描く感動の物語。
☆第24回手塚治虫文化賞「マンガ大賞」受賞
☆第21回文化庁メディア芸術祭マンガ部門「優秀賞」受賞
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