老いを追う 47 〜年寄りの歴史〜

最終章 老いに追われて 2
 ひとは直線的に老いていくわけではない。
 ひとはある年頃まで「成長」していくものだという観念を、人びとは抱いている。
 日本の民俗信仰では、子どもが「一人前」になるまでに、さまざまな通過儀礼がある。社会や意識の変化で、廃れてしまったものも多いけれど、いまでも残る儀礼も少なくはない。「お宮参り」や「七五三」、「厄年」のお祓いで社寺に詣でることは習俗化しているだろう。
「冠婚葬祭」という言葉も死語とはならず、日常語として生きている。
 冠婚葬祭の「冠」は、「元服」の式のことでいまの成人式にあたる。「婚」は婚礼、「葬」は葬式、「祭」は先祖の供養である魂祭りをさす。そしてこの四つ儀礼のあいだにも、年齢を重ねるごとに、さまざまな祝いの行事を日本人はもよおしてきたのだった。
 こうした祝いは誕生の前から始まる。
 出産が近づいた妊婦は、調度や装束を白色のものに替え、出産してから七夜を迎えるまでそのままにした。そして八日目に、色直しとして色物を着た。
 子どもに初めて乳を含ませる「乳付けの儀」に「浴湯の儀」、また誕生した日から三夜、五夜、七夜、九夜にもよおされる「産養(うぶやしない)」、「命名の儀」など多くの儀式がおこなわれた。さらに「宮参り」(三十日)、「食い初め」(百日)、「初誕生日」(一年)、「紐落とし」(三歳)、「氏子入り」(七歳)、「七五三」と行事は続いていく。そして、十五歳に「少年式」、二十歳には「成人式」となる。
 ひとは生まれてからしばらくは、こうしたさまざまな祝いごとが短い期間にある。かつての日本では、幼児の死亡率が高かったせいもあるだろう。ところが大人になると、行事と行事の間隔があくようになっていく。
 古くには四十歳から十歳ごとに長寿を祝う風習があり、六十歳の「還暦」はその名残りだ。七十歳の「古稀」、七十七歳の「喜寿」、八十八歳の「米寿」、九十九歳の「白寿」など「賀の祝い」を、かつては盛大におこなった。しかし私自身も、両親の還暦も古希も喜寿も祝ってあげてはいない。
 子どもの頃の写真を見返したとき、「お宮参り」や「七五三」のモノクロ画像が残っている。私の写真アルバムは、小学校の途中ぐらいからカラーになる。おそらく1970年頃が、白黒とカラーの境い目だろうか。
 幼い頃が白黒で、成長するとカラーになるのは、フィルムの普及のせいだからあたりまえのことだが、「人生」というものを考えたとき、少々違和感をおぼえる。たとえば、生まれたばかりの写真は鮮やかな色彩で、年齢を取るにつれ色合いが薄まっていくほうが、「人生」を表わしているのではないか。写真の色の濃さが薄まっていくと、鏡で見るより、自分の老いを生々しく実感できるのではないか。
 そんなおかしな技術をだれも欲しがっていないだろうし、発明しようとする奇特な人もいないだろう。では逆に、生まれたばかりのときは白黒で、年齢を重ねるにつれて色がつき、鮮やかさが増していくというのではどうだろう。
 いずれにしてもいまの私は、鈍色とかセピア色で写真にうつってしまうような気がする。
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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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