老いを追う 9 〜年寄りの歴史〜

第三章 不老長寿の願い 3
 七十歳の古稀、七十七歳の喜寿、八十八歳の米寿、九十九歳の白寿など、ある年齢に達したことの寿ぎを、「賀の祝い」や「算賀」という。
 古く奈良時代には、四十歳から十歳ごとに長寿を祝う風習があり、宴を催し、音楽を奏で、詩歌をつくって祝った。この風習は中国から伝わってきたもので、文献にみえる最初は聖武天皇の四十の賀だそうである。
 十歳ごとの算賀は、四十歳であれば白馬四十頭、経典四十巻、唐櫃(からびつ)四十合といったようにその年数、あるいはその倍、十倍、百倍の数の品物を贈るならわしだった。近世以降になると、六十歳の還暦が広く祝われるようになる。その一方で、四十歳や五十歳を祝うことは少なくなっていった。
 屋代弘賢(やしろひろかた)という該博な学識で知られ、塙保己一(はなわほきいち)の『群書類従』の編集にも協力した江戸後期の国学者がいる。弘賢の重要な仕事のひとつに、一三一項目にわたる質問状を各地に送り、年中行事や風習について回答を求めたというものがある。「諸国風俗問状」と呼ばれるその問いのなかには、「門松の事」「ひな祭の事」などと並んで、「老人祝い事」があった。つまりは当時から、長寿を祝う習俗が大きな関心事だったのだ。
 質問では還暦と米寿を通例としたうえで、そのほかの年祝いについてたずねたところ、四十代初めの「厄年」を祝っている地域が多かったという。いまでも女性は数えの三十三歳、男性は四十二歳を迎える年に厄を払う風習は続いているけれど、当時も人生の大きな節目だと考えられていたのだ。しかし、長寿の祝いという性格を帯びてくるのは、現在と同じように還暦からだったようである。
 米寿、白寿ともなると、現在でも祝うべき長命だが、江戸時代後期の東北に百歳を祝ってもらった女性がいた。この百賀のようすを記録したのは菅江真澄(すがえますみ)という旅人である。
 真澄は三河国渥美郡(現在の愛知県豊橋市近辺)に生まれたとされ、信濃、奥羽、蝦夷地などを遍歴し、出羽久保田藩(秋田県)領内に居住。国学、本草学の素養があり、旅先での風俗を挿絵入りで記録した日記や、地誌、随筆を残した。
 真澄が現在の岩手県奥州市のある旧家を訪ねたとき、そこの当主が黒田助(くろだすけ。水沢市黒田助)という山里へ、百歳の老女の長寿祝いに酒肴を贈りにいくというので一緒に出掛けた。家に着くと、孫と思しき五十歳の男が袴のひだをただして、「遠路はるばる」などと礼をいい、持ってきた酒肴をおばあさんの前にすえおいた。
 おばあさんは麻芋(あさお)の皮を裂き、より合わせて糸にしていたが、手を休めた。耳は遠いようだが目は黒く、髪は黒髪混じりで、歯は一つも欠けていない。お歯黒が黒々と見え、七、八十歳のようで、とても三桁の歳には見えない。藩主からも褒美の品が届けられたという。おばあさんに酒を勧め、その末の杯をということで、みんなで杯をめぐらせる。
 このおばあさんは十三歳でここに嫁にきて、八十歳になる子と五十歳の孫がいるという。孫たちが傘を開き、扇を持って歌い舞うようすは、中国の老莱子(ろうらいし)が舞い戯れて倒れるのに似ていると、人々が囃したてる。真澄はこのようすを見て、「ももとせの親に仕ふる楽しさ人も千とせの齢をや経ん」と歌をよんだ。おばあさんのさらなる長寿を願うだけではなく、年老いてもまだ孝行できる幸せをたたえたのである。
 この逸話に名前が出てくる老莱子は、中国春秋時代の人物である。七十歳になっても老いた両親がいた老莱子は、親の前では派手な色の服を着て、おもちゃで遊んで見せた。また食事を運ぶときにわざと転び、両親を笑わせたともいう。これは七十の歳相応でいると、両親は息子が年老いたことを悲しみ、また自分が年寄りになったことを悲しむので、幼な子のように振る舞ったのだといわれている。
 こどもじみたしぐさをしてまで、孝行を果たそうと努力すること。これもまた言ってみれば、「老々介護」のひとつのありかただといえるかもしれない。
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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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