老いを追う 1 〜年寄りの歴史〜

第一章 母をすてる 1

 わたしは母をすててきたばかりである。
 わたしにかぎらず日本人はこれまで、おびただしい数の母をすててきた。その根拠に、この列島には姥(うば)を捨てたと伝える場所が数多く残っている。
 伝承のなかで母親をすてにいく理由は、村の掟にしたがって、というのがほとんどである。かつて日本の村はどこも貧しく、働けなくなった年寄りは足手まといで、少しでも食い扶持を減らそうとしたのだろう。
 わたしが専門分野と称している民俗学では、老いることや老後について、これまでさんざんに調べられてきた。しかしわたしは、自分が母をすてにいくことになるまで、そうした研究と向き合ってくることがなかった。

 列島古来の親をすてにいく風習については、『遠野物語』で知られる民俗学者の柳田国男がくわしく書いている。昭和二十年の春、少女雑誌に発表し、敗戦後の秋、単行本におさめられた「親棄山(おやすてやま)」という小論だ。
 親をすてにいくとひと口にいっても、いくとおりかのパターンがある。息子が母をすてる。息子が父をすてる。娘が母をすてる。娘が父をすてる。それ以外に、赤の他人がすてにいくことだって考えられる。
 正真正銘の母をすてにいく話なら、深沢七郎の小説『楢山節考(ならやまぶしこう)』(昭和三一年)が最もよく知られているだろう。単行本は刊行当時ベストセラーになり、昭和五十八年には木下恵介、八三年には今村昌平が監督して映画にもなっている。
 映画ですてられにいく母親役は、初代が田中絹代で、二代目が坂本スミ子だった。そういえば坂本スミ子は大阪のうちの近所の出身で、わたしの母親と歳が近かったことをいま思い出した。
 『楢山節考』のおりんばあさんは、歳のわりに一本の欠けもない立派な歯を、火打ち石や石臼で欠いたりして、山にいく日を少しでも早めてもらおうとする。
 おりんの村では、山にいく日に雪が降るのは縁起がいいことだと伝えられている。

「楢山の中程まで降りて来た時だった。辰平の目の前に白いものが映ったのである。立止まって目の前を見つめた。楢の木の間に白い粉が舞っているのだ。
雪だった。辰平は
『あっ!』
と声を上げた。そして雪をみつめた。」

 おりんの息子の辰平は、ふだんおりんが、「わしが山へ行く時ァきっと雪が降るぞ」と力んでいたとおりになったことに驚いたのである。
 冬空の下、親をすてにいくのは、どこか情趣が漂う。しかしわたしが母をすてに行ったのは、うだるような暑さの夏の盛りだった。

 柳田国男は『遠野物語』でも姥捨伝承のことを記録している。
 物語の一一一話には、「昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野(れんだいの)へ追いやるの習いありき。老人はいたずらに死んでしまうこともならぬゆえに、日中は里へ下り、農作して口を糊(ぬら)したり」とある。
 日本の姥捨伝承では、老人をすてにいく年限を、六十歳にくぎっている場合が少なくない。それならわたしも、あと数年でだれかにすてられにいくのだろうか。しかもすてられたあとも、働きに出なくてはいけないのだろうか。

 母親をすてたあとの部屋で、老いをめぐる民俗にどんなものがあったかを、つらつらと考える。
 日本の昔話やおとぎ話ではなぜ年寄り夫婦が、竹の中やお椀の中から小さなこどもを授かるのか。花咲か爺や舌きり雀には、なぜごうつくばりな老人が登場するのか。
 姥捨のいっぽうで理想とされてきた不老長寿や老後の隠居は、かなえられてきたのだろうか。老人の恋愛やセックスはどんなふうにみられてきたのだろうか。老後を送るための施設はいつごろから日本にあったのか。「恍惚の人」と呼ばれる、記憶を失くしていくような症状はいつごろから意識され、どんなふうに処遇されてきたのだろうか。
 民俗学の本のなかではよく読まれている宮本常一の『忘れられた日本人』は、連載の際には「年よりたち」と題されていた。「年寄り」という言葉は 「田舎」などと同じで、いまでは俗語とみられているが、その言葉でしか表わすことができない背景をもついい言葉だとわたしは思う。
 こういったことについてこれから追い追い考えていきたい。また「老い」と「追い」、あるいは「生い」は、同じ根をもつ言葉である、といったことも書いていくつもりである。

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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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