土の上 4

 私の父は若い頃にヨーロッパに住んでいた。時々、父の口から語られるその頃の話には妙に惹き付けられるものがある。
 やや長くなるけど、これから父の話を始めたいと思う。

 私の父は三重で生まれ育った。小さい頃から物作りが大好きで、将来の夢は発明家だった。しかし、貧しさのためそれもかなわなかった。
 父は中学を卒業後、叔父の商売を手伝いながら定時制高校に通ううちに語学に非常な興味を持つようになった。そして、何とか外国に行って色々な言語を修得したいと思い、二十歳で高校を卒業した後、上京した。
 市ヶ谷で毎朝牛乳を配達して、昼間は語学学校に通い、週二回はお茶の水のキリスト教学生会館で英語とドイツ語を教わった。何とか日常会話を話せるまでになり、次は旅費を稼ぐために神楽坂のカレー屋で住み込みで働くことにした。
 毎日、朝は無料で飲み放題だった牛乳を三本飲み、昼と晩はカレーを食べた。そうすると、三ヶ月も経った頃にはカレーの味がわからなくなった。
 そうした極力切り詰めた生活を続け、半年経った頃にようやく目標の五〇〇ドル(当時の円は一ドル三六〇円)を手にすることができた。父は真面目によく働いたから、カレー屋の店主は父が店を去るのを惜しがった。

 一九七一年五月二日、二十六歳の父は日本を出国した。見送ってくれる人は誰もいなかった。旅のルートは横浜ーナホトカーハバロフスクーモスクワーヘルシンキの最低料金のヨーロッパ行きだった。
 フェリーで横浜港を出港し、三日かけてナホトカに着いた。五月の初めとはいえ、ナホトカで吐く息は白かった。ソビエト入国の厳しい入館手続きを終え、シベリア横断鉄道の旅は延々と続いた。行けども行けども広大な白樺とエゾマツの森林が続いた。旅程はすべて当時のソビエトの国営旅行会社によってコントロールされ、自由な行動ができない仕組みになっていたから、モスクワまでは単なる不自由な観光旅行のようなものだった。
 そして、夜遅くにモスクワからヘルシンキに向かう国際列車に乗り込み、誰一人知らない未知の世界に突入する現実に直面することとなった。懐の乏しさも合わせて父の緊張感は一段と高まっていった。

 国際列車は朝早くにフィンランドの国境を越えた。国境駅に着くと若いフィンランド人兵士が三人乗り込んで来て、父はパスポートの提示を求められた。彼らは非常に親切で、ソ連での待遇とは天と地の差だった。そして語学の達人であり、母国語のフィンランド語は言うまでもなく、スウェーデン語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語を使いこなした。それは、語学の虫だった父には至極感動的で、魅力的に思えた。試しにかじりかけのスウェーデン語で話しかけてみると、彼らは何とか受け止めてくれて嬉しく思った。

 フィンランドを後にして、ヘルシンキからフェリーで第一目的地のストックホルムへと向かった。ストックホルムを目的地としたのは、言語の習得もさることながら、滞在費稼ぎに最も魅力的だったからだった。
 到着したその日のうちに町の職業斡旋所に出向き、稼ぎ先を探し求めた。英語、ドイツ語、そして申し訳程度のスウェーデン語を駆使して、ようやくストックホルム郊外のパン工場に就職することができた。
 父はパン工場で働くのは初めてだった。初日に与えられた仕事は簡単なものではなく、はっきり言って上手くいかなかった。このままクビになっては困る、と焦った父は下宿先に戻ってから、あれこれと上手くいかなかった原因の究明に没頭した。その甲斐もあって、どうにかその後の仕事を上手く進めることができた。
 やがて父の仕事ぶりが工場長の目に留まり厚遇されるようになった。

 工場の従業員は大抵親切で、最初は英語やドイツ語で話しかけてくれていたけど、父は一日も早く現地の言葉を覚えようと努力した。語学練習レコードを毎日聴いて勉強し、二ヶ月もすると工場で働くのに支障のない程度の会話と読み書きができるようになった。仕事内容もさらに高度なものを与えられ、東京にいた頃とは比べものにならないくらい給料も良かった。父は日本の貧しさを実感した。下宿先はスウェーデン人にとってはただの女中部屋のレベルでも、父にとっては贅沢なホテルの一室に思えた。

 そして、スウェーデン滞在三ヶ月目に父の今後を左右する運命的な出会いが訪れた。
 父がストックホルムの街を歩いていると、背の高いニコニコしたスウェーデン紳士が日本語で話しかけてきた。彼はキリスト教の牧師で、宣教師として日本に四年間従事したことがあった。久しぶりに聞いた日本語の懐かしさのせいか、父は彼に言い知れない親近感を覚えた。彼は何度も彼の立派な屋敷に招いてくれた。父はその真意に始めから気付いていた。それは、信者獲得のために他ならなかった。
 父は彼の説くキリスト教がさっぱり理解出来なかった。しかし、スウェーデンには観光ビザで三ヶ月しかいられないことを彼に話すと、「キリスト教を受け入れ、その教えを学び続ける気があるならイギリスの教会を紹介してあげよう」と言い出した。父は内心「しめた!」と思った。本気で信じる気はなかったけど、次の渡航先をどこにしようかと考えあぐねていた矢先のことだったから、真面目な顔をしてその話に乗ることになった。(次回へつづく)

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《著者プロフィール》
宮崎信恵(みやざきのぶえ)
1984年徳島生まれ。
STOMACHACHE.として妹と共に雑誌などのイラストを手がける。
その他、刺繍・パッチワーク・陶芸・木版画・俳句・自然農を実践する。
http://stomachache.jp
http://nobuemiyazaki.tumblr.com