#00 はじめに
青色ひよこ
「まるで映画を観ているみたいだ」
複数の読者が、『彼岸花』にそういう感想を寄せてくださった。わたしは、映画みたいなことができたのだろうか。
連載期間中、人生でいちばん映画を観なかった。観る時間も気力もなかった。それでもこの過酷労働に併走し、わたしを支えてくれたのは「映画」だったと断言したい。
作話につまると、自分のすきな映画のシーンが夢にでてきた。いつもそれだけが、わたしの突破口だった。
シネフィルという人たちは恐ろしいほど多くの映画を見るが、わたしにはそこまでの時間もお金もない。40代主婦デビューオンナは貧乏だからこそ多忙だ。
そういうオンナはこれまでの人生で、好きな映画を何度も何度も、覚えるまで観てきた。全力でやる現実逃避だ。自分の人生をみたら死にたくなるから、映画で頭をいっぱいにする。脳内で再生し続けられるまでシーンをまるごと覚え、意味を考え続けた。
なぜそのアングルなのか、なぜそのカメラワークでないといけないのか、何を映し、何を映さないのか、フレームのソトでおきていることは何か?何を反復し、何を削っているのか。どういう順番で語っているか。なぜその順番でないといけないのか。空間をどう飛ばすのか。
そんなことを考えて映画を観ているうちに、自分にも「物語る」ことはできるのではないかと自惚れるようになっていた。
漫画の描き方を習ったことはない、わたしが漫画を描くのは、「絵とことばで物語る」ことをやってみたかったからだ。わたしだって映画監督をやってみたい。
とびきり映画に惚れているが、映画はひとりでは撮れない。カネもないし、人もいない。でも漫画ならたったひとりで似たことができる。40代の貧乏な主婦でも、時間さえ確保すりゃできる。そう思ったからやってみた。いつも欲望にとりつかれて、間違ったことばかりしてきた。
映画を観ている間だけは忌々しい世界から離脱できた。かっこいい構図、かっこいい台詞まわし、痺れるような男と女。F※CKな学校ライフ、F※CKな労働現場、F※CKな日常を過ごしてきたわたしは、映画を観ている時だけが幸せだった。その間は自分の人生をやらずにすむからだ。
映画館に行き、指定された椅子に縛りつけの刑になる時、いつも思った。ここはまるで死後の世界のようだなと。暗闇で、他人の人生を強制的に見せられる。わたしは死んだら映画館に行くのだろう。赤の他人の人生を眺め、手を叩いて笑い、馬鹿にし、憧れ、泣くのだ。まるで自分事のように感じながら、自分事には決してならない、届かないことに途方にくれるのだ。
デイヴィッド・リンチが『ツイン・ピークス』に描いた「赤い部屋」は永遠に一旦停止する待合室だ。あの保留の異界が、わたしにとっては映画館だった。男でもオンナでもない木が痙攣しながら叫ぶ、支離滅裂な夢体験。その「まるで死後」な体験は「火よ、我とともに歩め」とわたしに迫った。血の赤だ。バラの赤だ。暴力と情熱と愛の、彼岸花の赤だ。
わたしが若い頃に入り浸った映画館は、シネコンではなかった。入れ替え制ですらないので、同じ映画を繰り返し見ることができた。朝から晩まで同じ映画を見続けたこともある。
小学生の頃、80年代だ。転校した先の街の映画館は2階席まであった。和洋折衷建築のゴージャスな造りは重々しく不気味で、お化け屋敷にしかみえない。幽霊がでそうな踊り場にはビロードの緑だか赤だかもうわからないほどに色あせたソファーがあったが座面はやぶれ、綿が盛大に飛び出していた。窓には尺の長い、黒い遮蔽カーテンがかけられていたが縦に裂けていて超絶怖い。そこで、かなり遅れて「死霊のはらわた」(1985/サム・ライミ監督)がかかっていた。クラスの男子がぎゃあぎゃあ騒いでいた。「オマエはもう観たか?俺は観た」観たヤツだけが英雄だ。
神戸に帰ってから、ますます映画館に足が向いた。関西の90年代の映画館には、仕事をさぼるリーマンや、学校に行かない学生がいた。要するに「ろくでなし」ばかりだ。映画館はシステムからはみ出した者たちの、たまり場だった。
途中で誰かが入ってきて、途中で誰かがでていく。やたらドアが開くので、真っ暗にもならない。ドアが開く度にたばこの煙とションベンくさい悪臭も入ってきた。立ち見もあるあるだ。
「オンナのコがひとりで行っちゃいけません」と親が言う場所にわたしは行った。映画館もそうだし、ライブハウスもそうだ。暴力と爆音と愛がはびこる暗闇だ。暗闇の中で光を感じる。光は闇があってこそだ。
阪神大震災は高3の冬だった。阪急会館でかかっていたのは「スピード」(1994/ヤン・デ・ボン監督)だ。だからわたしはスピードを見逃した。スピードを観るたびにそのことを思い出す。
神戸は震災でかなりの映画館を失った。それでも帰省するたびに、地方都市にしたら映画館がまだ残っているほうだなと思う。映画を愛するひとたちが、個人レベルの努力で維持し続けている。それでもわたしが『風と共に去りぬ』や『バットマン』(1989/ティム・バートン監督)を観た阪急会館のような大きな場所の雰囲気は、復興後にはまるで変わってしまった。
映画館はかつてのような、ガラが悪くて危険で臭い、ろくでなしたちの場所ではもうない。安全で居心地がよく、子供たちだけでも行ける入れ替え制の映画館は、貧乏な主婦であるわたしにはおいそれと近寄れない額になった。
映画は「はみだしたニンゲン」を描いてきた。自由を追い求める「悪」をスクリーンの中で輝かせることで、正常と異常、善と悪を揺さぶってきた。
映画を観る体験を通して、善悪とは権力が規定するものにすぎない、とわかった。権力が統治しやすいようにシステムを創る。手前勝手な理論をふりかざし、そこからはみ出るヤツは「悪」にされてしまう。善悪と同様、何が異常で何が正常かも、権力が規定する。
わたしはいつも、映画の枠をはみだして去りゆく主人公の男に、感情移入していた。映画が終わる時、いつも、さみしさを募らせた。わたしは男ではないからだ。なぜ男に生まれてこられなかったのだろう。
オンナは枠内にいつも取り残されているように見えた。ソトに出られるオンナはいない。オンナたちはいつも男を見送る存在だ。オンナがソトへはみだすためには、彼氏か夫を同伴するか、精神に異常をきたした怪物になる必要があるようだとわたしは気づいていく。エクソシストのリーガンや、キャリーみたいに、悪魔に取り憑かれたり、気が狂うことでしかはみ出せないなんてごめんだと思った。
権力を握っているのはおおむね男という「男が支配する世界」では、オンナはいつもアウェイだ。映画という虚構の世界においてもそうだった。性的に独立したオンナは罰せられ、野心をもって男以上に稼ぐオンナも「悪」として描かれてきた。
女性も男性と同じぐらい「男らしく」生きられるのに、「オンナらしく」「分をわきまえろ」と抑圧されている。映画の世界はリアルと地続き。ジェンダーは文化的理念によって形成される。わたしはガッカリし続けた。「あの映画」を観るまでは。
「あの映画」・・・それは10代の時に観た、『テルマ&ルイーズ』(1991/リドリー・スコット監督)だ。
スクリーンに閉じ込められたオンナが男を同伴せずに、気が狂うこともなく、悪霊に取り憑かれることもなく、枠の外へ飛び出していくのをわたしはそのとき初めて観た。
ラストシーンはオンナとオンナのストップモーションだ。破滅直前の栄光の瞬間が永遠に続く。輝ける一旦停止。わたしのための映画だと思った。大学生になり、『テルマ&ルイーズ』の脚本家はカーリー・クーリという女性だと知った。オンナを枠の外にはみださせたオンナの気持ちを思って、胸があつくなった。
テルマとルイーズは別の映画にもいるのでは?はみだしたオンナたち、「分をわきまえない」オンナたちを探す日々がはじまる。「当たり前」を突破する「悪」がわたしには必要だった。わたしが「わたしらしく」生きるために。
レンタルビデオ屋にしゃがみ込み、カネ勘定しながら祈るような気持ちで3本選ぶ。ビデオをディグる時も、レコードを掘るときと同じ。博打だ。博打にわたしは賭けていた。わたしの仲間を探す旅。どんなくだらないものにも、観るべき価値はあった。なけなしのカネで観ていると、その「何か」を見つけなければやってられないのだ。
令和の世。「少子化対策」と権力側はやたらのたまう。こんなに下品な物言いはあるか?わたしたちの子宮は、兵士を提供するためにない。労働力を提供するためにない。権力のために毎月毎月、血を流しているわけじゃない。
オンナは「産む機械」ではない。男は「労働する機械」ではない。
わたしは怒っている、資本主義社会が求める機械は「産む機械」と「労働する機械」だと迫ってくる醜悪な「拝金主義」だけの権力に怒っている。産んでないオンナとして怒っている。
映画に救われてきたわたしが、今できそうなことはあるか?
産まないオンナ、産めないオンナ、産んでもうまく母親をやれないオンナ、快楽のためにヤりまくるオンナ、労働のために仕方なくヤるオンナ、セックスなんてしないオンナ、男に嫌われる女、オンナに嫌われるオンナ、オンナでもないオンナ。「悪女たち」を映画の中に探し、紹介しようと思った。
これは映画を使ったコラムだ。とことんネタバレする。日本公開年で表記する。批評とは言えない。わたしがどう誤読したかという話でしかない。わたしが画面から何を読み取ったかについて書く。マンガ労働のことも、わたしの人生も、時折まぜこむ。
悪女=「システムからはみだしたオンナ」と定義する。誰が「悪女」にされてしまうのか。あるいは、現実社会では「悪女」とされてしまうオンナを、どう描くことで悪性を取り除いているか。そういう視点で映画を観ていく。
興味をもってくださる方がいらっしゃったらどうか、紹介した映画を観てほしい。
世界中のテルマとルイーズへ捧ぐ。
/////『彼岸花』2025.12.12 ONSALE/////
「人生で選べたことなんてあったか?」
緊急事態宣言下、追いつめられたオンナの運命は…。
90年代に青春を送り、コロナ禍の〈今〉を生きる氷河期パンクスの「痛み」と「反抗」の物語。オルタナMANGA、ついに単行本化!
◾️『彼岸花』の単行本に帯がない理由→編集部ブログ