#01 『疑惑』野村芳太郎 監督

【黒い魔女と白い魔女の連帯 : 昭和50年代のシスターフッド】

セミの鳴く暑い日に、若く美しい女がうんざりした症状で空を見上げている。それがこの映画の最初のショットだ。女の足元には男がかしずいている。スーツを着て髪を七三にわけた、身なりのいい60近い初老。男は彼女のハイヒールをぬがせ、異物をとってやっている。女は男に自分の足を拭かせている。

俯瞰、超ハイアングルで捉えられるのは、波打ち際を走り抜けていく車。誰の視点だ? 神か? これは死出の旅路か? 運転するのはさっきのオンナ。初老の男は助手席。主導権は常にオンナが握っている。浜辺で男は女の背中にオイルをぬってやるが、イチャついているというよりは、主人と奴隷の様にしかみえない。もちろん主人は若い女の方だ。

夜になる。港を猛スピードで走る車。運転手の性別は分からない。釣り人たちの横をすり抜け、車は一気にダイブし海中に沈む。自力で水面にあがってきたのは若い女だけ。男は車とともに海の底へ。二度と浮かんではこない。

冒頭5分で事故はおきた。セリフはほとんどない。こういうのを極上の語り口と言うのだ。映画とは絵で語ってナンボだろ?

ここまで観て分かったのは、一組のカップルの関係性だけだ。女性が上位、男は支配されている。若い女がオッサンを踏みつけている様だけを観た。

死んだ男は白河福太郎(仲谷昇)。妻に先立たれた富山の財閥。生き残った若いオンナの名前は球磨子(くまこ)(桃井かおり)。白河の後妻だ。彼には3億円の保険金がかけられていた。事故は保険金めあての事件なのか? オンナは犯人? それとも事故の生存者でしかない?

ほとんどセリフのなかった物語は、男が死んだ後は雄弁な法廷劇へ一変する。初老の男を従え、女王のようにふるまっていたオンナの地位は、昭和50年代日本の男社会から踏みに踏まれる存在へと転落する。虎の威を借るキツネは、もはや虎を失ったのだ。

容疑者となった球磨子を攻め立てる相手は、男社会を煮つめた集団だ。家父長制の強い家柄の嫁ぎ先も、警察も、マスコミも、みんな球磨子の敵である。大量の男たちが話すナカミは全部、「あんなオンナは有罪にきまっている」ということだけだ。

キャバレーだかクラブだかに勤めていた「とんでもないオンナ」は、店に来た田舎の金持ちをたぶらかし、財産目当てに結婚した、酒を飲めば暴れるし、浪費癖があり、だらしないし、ヒステリー、しかも前科4犯だとよ

昭和50年代の男社会・日本において、球磨子はシステムから逸脱した大変に不都合な存在だ。「オンナはこうあるべき」からはみだしているからこそ「悪」であり、魔女であり、火あぶりにされそうになっている。社会構造のなかで虐げられた属性において「疑わしきは罰せられる」のだ。

しかし球磨子は決して負けない。気が強く、傲慢不遜な態度で誰にでも刃向かう。

夫を殺した証拠でもあるのか? 事故の生存者でしかない自分が、なぜ犯人にされなきゃならない? 夫は自分の意志で保険に入った! 運転していたのは夫だ!

厭味ったらしい口調で男たちを罵る態度はチンピラそのもの。虎を失ってもなお、虎であり続けようとするキツネは、権力側からみれば忌々しい存在だ。

魔女を擁護する誰もいない。球磨子は次々に男の弁護士に断られる。彼女に学はないが、ありあまる反抗心で自分は無罪だと堂々と語る。留置所では六法全書を読み、弁当をもりもり喰う。たくましい。踏まれても挫けず、生き延びようとはねのける能力があるからこそ、球磨子はこの社会において魔女なのだ。

球磨子を弁護することになったのは律子(岩下志麻)だ。民事専門のオンナ弁護士である。律子には離婚歴がある。子供を夫のもとに置いて仕事をバリバリやる母親失格のオンナである。

「ふつう(こども)は女の方がひきとるものなのにね…」とのたまう男社会で、彼女もまた「システム(ふつう)から逸脱した」女だ。球磨子同様、孤立無援の嫌われ者。それでも生きていけるのは、彼女が能力の高いインテリで、しかもめっぽう気が強いからだ。

律子もまた男社会にとって不都合な存在、魔女である。自分より仕事の出来るオンナを必要とする男は、今も昔もかなり少ない。しかも時は、男女雇用機会均等法が施行される以前の世界だ。

デキるオンナ律子は、プライベートではポンコツだ。夫のもとに置いてきた子供に会える月1の面会日には必ずオモチャを与え、口にスプーンをもっていき食べさせる。子を甘やかすことしかできない。何の教育もしない。カネでしか愛情を表現できない。イエは女房に任せっきりで当たり前の昭和のモーレツリーマンそのものだ。

元亭主は「後妻はよく(子育てを)やってくれている」という話をむけてくる。そんなひりつく話題にも、律子は表情一つ変えず「いい奥さんならそれでよかったじゃない」と、とりつく島もない。愛想もなければかわいげも皆無だ。

後妻にイエを乗っ取られた律子が、イエを乗っ取ったと世間から白い目でみられている後妻を弁護することになるという皮肉な構図は、物語をぐいぐい引っ張っていく推進力にもなっている。どんなキャラクターをどのポジションに配置するか、それぞれにどんな負荷をかけるか、考え抜かれた設定で痺れる。

映画『疑惑』は、男を手玉に取って生きてきた『球磨子』と、法律を武器に男社会と闘ってきた『律子』が、理不尽な疑惑に向きあい、事実を立証していく話だ。「イエ」を尊ぶ日本社会で、ふたりは共に「イエ」から逸脱したオンナたちだ。他人のイエを乗っ取ったと後ろ指をさされる後妻のオンナと、自分が築いた「イエ」を後妻においだされたオンナ。男社会からはみだしたふたりの魔女が連帯し、男社会に立ち向かう物語だ。

わくわくする・・・がそんな都合良くはいかない。サスペンス映画にふさわしく、客は常に不安と緊張で宙づりにされる。
二人の魔女は初対面から火花バッチバチなのだ。

ダークトーンの服を着た球磨子は初対面でかましにかます。「きらいだなー、あんたの顔。あたしはひとりで闘う、弁護士なんていらない」

白いスーツでキメた律子だって負けてはいない。「死刑になりたければそうすれば」

黒い魔女は白い魔女をたよろうともしないし、白い魔女も黒い魔女には一切同情しない。お互いに情け容赦なく、堂々と自分の正義を貫くだけである。正義とは悪だろうが善だろうが、誰だってあるものなのだ。

(わたしはあんたを拒絶できるし、あんただってわたしを拒絶できる、だけど考えてみて? わたしたちを踏んでくる相手は同じ。あんたのことは気に食わないけど、わたしたちは組むしかないでしょ? だってわたしたち、男社会からみたら共に悪党じゃない?)

わたしがマンガを描くなら、この二人のモノローグはきっとこれにする。

これこそが、真のシスターフッドだからだ。女同士仲良くすることを、シスターフッドというのではない。反目しあう関係にあってもシスターフッドは存在する。それは「わたしがわたしであること一切やめない」ために闘う同志としての連帯である。

黒い魔女と白い魔女は対立しながらも、マッチョな男社会という同一の敵に向き合い、しぶしぶ連帯だってする。敵の敵は味方になれるって話だ。

球磨子と律子。ふたりが女でなく、男だったら? 物語に描かれるべき非凡さなどなく、「酒が入ると暴力衝動をおさえられない始末に負えない男」と「家庭をかえりみないやり手の男」でしかないのではないか?

男の鏡面でしかない彼女たちはほんとうに「悪女」だろうか。それが「悪」に見える構造こそが、昭和50年代日本の歪みではないか。

「悪」を規定するのは常にシステム側である。システムをつくるのが権力である。権力を握っているのは誰か?その強固な構造を支えているのは誰か?

令和に生きる『球磨子』だって、いまだに黒い魔女ではないか?
令和に生きる『律子』だって、いまだに白い魔女ではないか?

「失礼なひとたちね、わたし無罪だって言ったじゃない」

球磨子の言ったその一言を、わたしだって何度飲み込んできただろう。

白い魔女と黒い魔女。二人は最後まで分かりあったりしない。お互いがお互いを大嫌いなまま、あんた最低ねと罵り合う。ふたりは欲望だけを動力に栄光へとむかって並走する列車だ。これがオンナのハードコア。これこそがオンナのリアリズム。

映画『疑惑』は、図々しくないと「わたしでいること」すら叶わない世の中で、枠からはみだすことを恐れず「わたしのやり方で生きていく」オンナたちの賛歌である。万歳。

本作にはもうひとり、尺は短いながらも印象に残る女性がでてくる。律子の元夫と結婚し、律子の子を育てる咲江である。彼女はイエを守り、血のつながらない娘を必死に育てている。律子と彼女の会話も忘れがたい。イエからはみだすことでしか生きられなかった律子にとって、自分のイエを乗っ取った許しがたいオンナが、そのイエを守るために押し出してくる許しがたい要求を、彼女はのめたのだろうか。男らしく去って行く律子の白いジャケットは相手を肯定し、無罪を宣言しているようでいて、まぶしくも切ない。

球磨子、律子、咲恵、それぞれにそれぞれが「やせ我慢」している。涙をこらえて背筋を伸ばしている。決して負けない、決してゆずれないものがあるからだ。それは「わたしらしくいること」である。誰よりも男らしいパンクなオンナたちである。

この作品は、ゲイの方々にも大人気なんだと、当事者から聞いたことがある。誰もが自分らしくいたいってだけだ。桃井かおり演じる球磨子の反抗は、システムに踏まれがちな誰にとっても実に痛快だ。

監督は野村芳太郎。原作者:松本清張自身が脚色し、撮影台本は古田求と野村芳太郎が共同執筆した。原作では新聞記者の男が主人公。男目線で語られる。映画では女性ふたりの視線に変わり、結果的に昭和のシスターフッド映画となった。

律子は球磨子に言う。「せいぜいがんばって」

人生を取り戻したかにみえる球磨子は、世間の新たな見世物である。それをひきうけてはいずりまわりながら、なんとしてでも生きていく図太い魔女のままだ。

作話テクニックとして、主人公を成長させろとやたら要求される。わたしはそれを拒絶する。「わたしらしく」いるために闘うので必死だからだ。それがわたしのリアリズムである。『疑惑』のオンナたちは、そういうわたしのリアルとも共鳴する。

ラストはストップモーション。球磨子は永遠に微笑み続ける。

昭和51年生まれのわたしもまた、球磨子であり、律子でもある。あんたらだってそうだろ? わたしたちを魔女に、悪女にするのは誰だ?

お知らせ

  • /////『彼岸花』2025.12.12 ONSALE/////

    「人生で選べたことなんてあったか?」

    緊急事態宣言下、追いつめられたオンナの運命は…。

    90年代に青春を送り、コロナ禍の〈今〉を生きる氷河期パンクスの「痛み」と「反抗」の物語。オルタナMANGA、ついに単行本化!

    ◾️『彼岸花』の単行本に帯がない理由→編集部ブログ