#10『エル ELLE』ポール・バーホーベン 監督(後編)

【助けを求めず観客に憎まれる被害者のオンナ(後編)】

『エル ELLE』はレイプされた被害者のオンナが、現実逃避をやめる話である。同時に、彼女がシステムとの付き合い方を変えるという話でもある。

主人公のミシェル・ルブラン(イザベル・ユペール)はレイプされた白人女性だ。彼女は警察にそれを通報することなく、自力で犯人をつきとめた。そしてレイプ犯と同意の上で、セックスもした。

ミシェルの父親は異常犯罪の加害者であり、彼女はその娘としても有名だ。警察のことは一切信じていない。自分を助けてくれないシステムを、彼女は拒絶して生きてきた。自力でゲーム会社のCEOにまでのぼりつめた、権力のあるオンナである。

ミシェルは最終的にシステムを拒絶することすら、やめる。反抗の仕方を変えるのだ。警察をよび、自分がレイプの被害者であるってことを、自分も認め、世間にも認めさせる。

そういう風に変われたのは、一人息子、ヴァンサン(ジョナ・ブロケ)の存在があったからだろう。ヴァンサンは肌の色の違うコドモを「我が子」として慈しんでいる。黒人の子を産んだパートナーのことを愛している。

ヴァンサンは元・麻薬の売人だし、まっとうな仕事をすぐ辞めてしまう甲斐性のない甘ったれではあるが、愛情深い男だ。母やパートナーに口汚く罵られても、手も出せない、暴力をふるえない男だ。

息子が、自分とは肌の色が違う子を産んだパートナーを愛し、血のつながらない子を大事に育てていることは、ミシェルを変えたのかもしれない。実父に手ひどい仕打ちで捨てられたが故に、血の濃さに執着するしかなかったミシェルは、「生暖かくて濃い血」を描けと部下に命令し、肌の色の違う子を育てるのは恥だと息子を罵った。しかし息子は母のいうことなど聞かず、血縁にこだわらない生き方をしている。ミシェルは黒人の孫をもつことで、血の呪いから解放されたのかもしれない。

息子のヴァンサンを育てたのは、ミシェルだけではない。ヴァンサンを産んだ同じ病院で、死産を経験した親友のアンナ(アンヌ・コンシニ)も、子育てに深く関わっている。

子を失ったアンナは、自分の乳をヴァンサンに与えた。実母であるミシェルの母性が希薄であるのと対照的に、アンナとヴァンサンには、母子の強いつながりがある。

親友アンナと息子の密着によって結論づけられる「血縁など信用ならざるもの」という概念は、ミシェルに「母性が欠けている」という劣等感を抱かせるものだ。しかし同時に、実父との関係を考える時には、その事実こそが救いにもなる。

実子をもてなかったアンナと、実子と精神的つながりをもてないミシェル・・・ふたりのオンナは乳を与えた子を愛し、ともに劣等感をもつ母としても連帯している。だから結局アンナは、ミシェルと寝たパートナーを捨て、ミシェルと共に暮らすことを望む。支え合う必要性がある時に、人は親友を得るんだろう。

ミシェルを解放した存在がもうひとりいる。レイプ犯の妻である。彼女は敬虔なクリスチャンだ。彼女は別れの場面でミシェルに「彼に応えてくれて感謝している」と言う。レイプ犯の妻は、愛する夫が性的に病的であることを分かっていて、苦しんでいたのだ。

レイプ犯が、射精するために暴力が必要だったように、レイプ犯の妻には、夫を愛するために信仰が必要だった。愛する夫を失った彼女には、もっと愛する男=キリストがいた。支えがあるから、乗り越えられる。誰もが孤独に、何かにすがって生きている。何にすがっているか、何に突き動かされているかなんて、誰にもわからない。

敬虔なクリスチャンである父は、ミシェルの幼少期に27人の隣人と犬猫を惨殺した。ミシェルは父に見放されたと同時に、神のことを見放したはずである。信仰を手放すしかない状況に陥り、神を憎んできたであろう彼女は、決して信仰から自由だったわけではない。信じない、ということを常に意識させられる状態は、強い抑圧状態でもある。

ミシェルにとって、レイプ犯の妻と連帯できるということは、信仰とも和解できた証なのかもしれない。

ミシェルという雄々しいオンナによって剥き出しにされたのは、暴力をふるう男たちの惨めったらしさと脆さだ。暴力を振るう男とやたら結びつけられていたのが「スキー」だ。レイプ犯がかぶっていた覆面は、スキー帽だった。長い板に乗り、斜面を下るスポーツに、何を託しているのか。

自らの欲望で、ぐいぐい滑降していく男たちは、オンナを支配しているのではない。むしろ支配されている。性欲を処理するために、あるいは支配欲を満たすために、単にさみしさをまぎらすためかもしれないが、なにせ常にオンナが必要で、そのことに取り憑かれているようにしか見えない。

穴に棒をつっこんで腰をふる男たちに、主体性なんてあるのだろうか。穴に振り回されているだけかもしれない。オンナに恥をかかされて暴力をふるったり、恥をかかされまいと暴力をふるったりすることのどこに、強さがあるのだろう。

一方、ミシェルのまわりのオンナたちは、全員「自分らしく」いられることを第一に考え、男からも世間体からも自由であろうとする「常識はずれ」ばかりだ。ミシェルの母親は、恥も外聞もなく、孫ほど年の違いそうな若い男といちゃついているし、息子のパートナーは黒人の子供を産み、白人である息子に父親をさせている。ミシェルにパートナーを寝取られたアンナは、彼を捨て親友ミシェルと歩もうとする。ミシェルはアンナに言う。「恥なんか気にしてたら何もできない」

システムから追いやられた存在だったミシェルは、神様と、警察と、家族と和解していく。システムを「使う」ことができるようになったミシェルは、真に自由になったのだ。もう現実逃避せずに、生きていける。

監督のポール・バーホーベンは、幼少期を、第二次世界大戦下のオランダのハーグで過ごした。オランダ人の味方であるはずの連合軍が、ナチスの軍事基地があるハーグを空爆し、死体が道端に転がっている日常を過ごした。

ミシェルにとって、理解しがたい加害者である父親は、バーホーベンにとっての連合軍なのかもしれない。彼は作品のなかで常に、男の暴力に刃向かい闘うオンナの姿を描いてきた。

それは連合軍に見放され、爆弾を注がれ、死体だらけだった幼少期のハーグの風景と共に生きる監督の、反骨精神の現れではないかといつも思う。無力だった少年は、女性の姿に託して、男たちが主導してきた暴力を告発し続けているのではないか。

ミシェルは、理解不能な他者である。ミシェルだけではない、この映画にでてくる全員がそうだ。誰の感情も読み取ることができない。簡単に分かられてたまるかという描き方は、モノローグが一切ないことからも明らかだ。全員が、怪物として描かれている。

ミシェルは母に言われていた。
「(実の父親を)どれだけ憎むの 彼は病気よ」
「なぜそんなに毛嫌いするの、彼は怪物ではない、普通の人間よ」

ミシェルは答える。
「怪物でもあるわ」

『エル ELLE』の感想をみると、否定的な意見もたくさんある。目も当てられないレベルだ。そのどれもが、「主人公にまったく共感できない」という主張だ。「共感」にはシンパシーとエンパシーがあるが、「主人公にまったく共感できない」に含まれる「共感」とは「シンパシー」のことだろう。

ブレイディみかこは、「日経クロストレンド」(2021年6月29日付)の記事でこう言っている。
『シンパシーというのは、自分に近い感覚を持つ相手に対し、感情とともに内側から自然に湧いてくる同情のことです。一方でエンパシーとは、湧き上がる感情に判断力を曇らせることなく、意見や関心の合わない他者であっても、その人の感情や経験などを理解しようと、自発的に習得する「能力」のことなんです』(※)

シンパシーを感じるかどうかで映画の善し悪しを判断する人にとって『エル ELLE』は、下品で、猥雑で、エゴイスティックで、変態的で、モラルが無い人しかでてこない、不愉快な世界観でしかないのかもしれない。しかし不愉快をもたらすキャラクターの背後に何があるのか、どんな個別の事情に苦しみ、痛みから逃れるために、どうふるまうしかないのかを想像しようとする態度こそ、エンパシーである。

ミシェルは、レイプ犯が「必要だから」と言った時、彼の目になったのだろう。彼と同意の上でセックスもしたのは、「必要だから」そうするしかない人生の苦労を彼女が知っているからだ。他者のどうしようもなさを想像し、人に情けをかけられるのが、エンパシーではないか。

父という怪物と対峙し、もがき苦しみながら生きるしかなかったから、ミシェルにはエンパシーという能力が育った。そしてエンパシーを獲得できたから、彼女は自由になれた。なぜなら、未知の他者との出会いだけが、自由にむかって開かれる扉だからだ。

なぜ、シンパシーでは自由になれないのか。

例えばSNSは、シンパシーでつながっていく世界だ。話題ごとに、自分の意見や思想に似た、会ったこともない誰かのつぶやきをリツイートする。そして対立する人たちをやりこめ、連帯を示す。

シンパシーを感じられない者とは敵対し、対話は決して成立せず、亀裂が広がるばかりだ。そして分断していく。

SNSでオススメにあがってくるのは、自分の閲覧記録を解析された結果だ。わたしが喜んで観ているのは、過去のわたしでしかないと気づいた時、なんとおぞましい世界だろうとゾっとする。結局のところ、自分と手をつないでいるだけではないか、そこにあるのはナルシシズムでしかないのではないか。

「わたし」に似た何かがひたすら無限に増殖する世界に閉じ込められ、わたしの可能性は開かれるだろうか? 自己愛と、自己陶酔、うぬぼれだけが肥大していくだけではないか。「意見や関心の合わない他者」は、怪物に等しい。しかし怪物との出会いだけが、自身の可能性を広げ、自由になれる扉ではないだろうか。

怪物の魂に触れることは同時にすさまじく暴力的なことでもある。「触れあう」ことは摩擦だからだ。もちろん傷つく。傷つきたくない人に、自由など決して与えられない。しかし、自分に都合のいい人しかいない優しい世界なんて、「自分しかいない牢獄」でしかない。

ほんとうに自由になるということは、怪物とも付き合わねばならんという、恐ろしい実践だ。ミシェルは、レイプ犯まで引き入れた。そんなことができるのだろうか? 自由は、それを心から求めるものにしか得られないし、不自由だった者にしか、自由の喜びはわからない。

ラストシーンは墓場だ。母の墓標のとなりには父の名前もある。自分をさいごまで拒絶した父の遺言を、ミシェルはかなえた。それはミシェルのエンパシー故である。『湧き上がる感情に判断力を曇らせることなく、意見や関心の合わない他者であっても、その人の感情や経験などを理解しようと(※)』した結果である。

父の感情はわからない。怪物である父は、ミシェルを想って最後まで憎まれるために自殺したのかもしれない。敬虔なクリスチャンだった父が自殺する。それは、「人殺し」と墓標に書かれる男が、自ら地獄行きを引き受けた証拠でもある。彼はニンゲンだ。

ラストシーン。ミシェルは、アンナと墓場を歩く。死体が埋まる場所で、生きているのは彼女たち二人だけだ。手前からどんどん奥へ歩いて行く。二人の姿はだんだん小さくなっていく。決して枠から、はみだしたりしない。

産めなかったオンナと、産んでもうまく母親をやれなかったオンナが、男を同伴せず、枠からはみださず、死へと着実に歩んでいく。子供時代より、10年前より、昨日よりずっと自由になっていく。何にも依存せず、あらゆることから解放され、心は静かになっていく。

内側へ。もっと内側へ。内面を掘ることで自由になれる、穴のあるオンナたちのリアリズムである。真に自立した存在―インディペンデントなオンナたちの去りゆく背中を、わたしは凝視し続ける。

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